「父上が決めた婚約に、俺の意思はない」と言われましたので、お父上の後妻になりました ~息子よ、母は許しません~
「父上が決めた婚約に、俺の意思はない。俺は男爵令嬢と結婚する」
公爵家の嫡男ゼヴェリン様は、婚約者の私にそう言った。私はアンナリーゼ、伯爵令嬢で二十四歳。
公爵邸の客間。開いた書斎の扉の内側に閣下がいる。ゼヴェリン様はそちらにも顔を向けている。当主の面前での宣言だ。膝にそろえていた手を、私はそっとほどく。
「分かりました。閣下がお決めになった婚約ですので、閣下と改めてお話しします」
扉の木部を叩くと、執事が無言で私だけを書斎へ通す。閉じた扉から机へ向き直り、背を伸ばす。
「閣下がお決めになった婚約を、ご子息が破りました。このままでは私は、捨てられた女として生きていかねばなりません。責任を取ってください」
閣下が婚約の届から顔を上げる。
「責任と言われても……まさか、私と結婚すればよいとでも言うのかね?」
「え? 閣下が……? 本気ですか?」
「まあ、私はもう四十を過ぎている。君には酷だろう。代わりを探そう」
「いえ。私が閣下の後妻になります」
届の上で、閣下の手が止まる。
「いや、ちょっと、落ち着きたまえ……」
「大丈夫です。落ち着いております」
閣下は大きく息をつくと届を私へ向け、父の署名の横を示す。相手は当主が指定する、とある。
「いいのか? もう、後戻りは……できんよ?」
私は目をつぶり、キュッと唇をかんで考える。これは、当てつけのような自暴自棄な判断ではないだろうか……?
目を開くと閣下は灰色の瞳で真っすぐにこちらを見ている――。
……え?
私はその真摯な瞳に、一瞬魅入られたような感覚を覚え……首を振って振り払った。
「こ、後悔はしません。閣下、こちらの届に、ご署名を……」
届を押さえる私の指が震えている。閣下はその指を見てから、届を引き寄せる。
「ふむ、分かった。ただ、君には指一本触れないから安心したまえ。これは愚かな息子に対する責任であり、けじめだ」
こうして私は、婚約破棄を宣言された直後に、公爵家の後妻になることが決まった。
当主が書き換えれば、婚約はその日のうちに婚姻になる。それが慣いだ。
閣下はローラント様、四十一歳。奥様を亡くして八年、息子の嫁にと私を選んだ人だった。
寡夫の手が扉を開く。客間で解消の記録を待つゼヴェリン様は、私より先に閣下を見る。
「お前の婚約は解消した。彼女を私の後妻に迎える」
「……は?」
ゼヴェリン様は、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見た。
「そのようになりましたので、ご了承くださいませ」
「な、なんだそれは! 二歳年上なだけのお前が、父上の後妻だと!」
「二歳上でも、閣下の妻ですわ。母上と呼びなさい」
閣下がご自分の隣の椅子を示す。
「……母上?」
息子になったばかりの相手へ向き直る。
「はい。息子の躾は、わたくし……母の務めですわ」
◇
その夜、書き換えた届が整い、私は公爵邸で暮らし始める。伯爵家から運ばれた荷は、玄関の広間の隅で紐を結ばれたままだ。客として帰るたびに通った玄関で、執事が私の前に立ち、鍵の束を差し出す。
「屋敷の鍵をどうぞ。帳簿もお任せします。嫡男のお小遣いと夜会の同伴は、奥様に伺います」
受け取ると、鍵が鉄の輪の下で揺れる。持ち直すより早く、横から手が伸びる。
「その鍵は俺が使うんだ。返せ! 俺の用なら、俺が開ければ済むだろう!」
「引っ張らないでください! 落としてしまいます!」
落ちかける束を、閣下が下から受ける。冷えた鉄が指のあいだで鳴り、鍵の歯が掌をこする。執事が息子へ向き直る。
「女主人の鍵ですので、お渡し先は奥様です」
閣下が束を私の手の中へ戻す。鉄の輪だけを支え、指には触れない。私が握り直すと、その手が離れる。息子の指は、まだ輪に掛かっている。
「ふんっ! まぁいい。イルミナとは結婚するぞ。もう俺が決めたんだ」
「母として申し上げます。母の許しが要ります。面接をします」
私は束を握ったまま向き直る。
「勝手に進めるな! 俺の結婚だぞ」
「はい。ですから、相手のお家へ正式にお返事をするのが母の務めです。お会いせずにお返事はできません」
息子が卓を叩く。思わず握り込んだ鍵が、掌の中でかちりと鳴る。
「返事なら、俺がもうした! 結婚すると言ったんだ! それで話は済んでいるだろう!」
「それはあなたのお返事ですね。では、家の返事をいたします。相手のお家をお待たせしてはいけません」
鍵を握ったまま待つ。息子の手が卓から離れ、声が小さくなる。
「……あなたにまで会わせることになるなんて、言ってない」
「では、そのこともお伝えください。お迎えの支度はこちらでします」
離れから来た大伯母のメヒティルト様が、閣下より上座へ椅子を寄せる。背をまっすぐ伸ばして腰を下ろすと、息子の立っている場所が急に狭く見える。
「面接官はあたしがやる。縁談は女主人と長老が会って決めるもの。八年預かった使用人の采配も、アンナリーゼに渡すわ」
息子がそちらを向く。
「大伯母様まで! 俺の話を聞いてくださらないんですか?」
大伯母様は、待っていたように口元を上げる。
「聞いたわよ。今度は相手の話を聞くの。あなたは口を閉じていなさい。返事を待つのも躾のうちよ」
息子が口を結ぶ。私は卓の自分の前へ鍵を置く。その隣で閣下が帳簿を開き、革の表紙に灯りが映る。
「今夜から、家の用件は君と話そう」
「はい。分からないところは、伺ってもよろしいですか?」
閣下は帳簿を私にも読める向きへ寄せる。
「もちろんだ。話しながら進めよう」
私は頷き、頁に指を添える。鍵の跡が、掌に赤く残っている。
◇
社交界で最強の大伯母様が、面接官の席で足を組んでいる。
翌日の客間。男爵令嬢のイルミナ様が通されると、閣下より上座の大伯母様が私の耳元へ口を寄せる。蜂蜜色の髪を肩で留めたイルミナ様は、扉のところで膝を折り、顔を上げかねている。
「アンナリーゼ、あの男爵令嬢が面接に来たわ。なんて図々しいのかしら、落としていい?」
「お話してからです、大伯母様。まだご挨拶も済んでおりません」
大伯母様は笑って、窓辺に寄せた客の椅子を示す。イルミナ様が腰を下ろしても、壁際の息子は腕を組んだままだ。私は茶器を手に取り、客のほうへ向ける。
「あなた、ゼヴェリンの何が好き?」
「……顔です」
大伯母様が足を組み直す。息子は顎を上げ、私は滑りかけた茶器を持ち直す。
「正直ね。次。顔がよければ何でも従うの?」
「それは嫌です!」
イルミナ様の指が膝の上で結ばれる。息子が身を乗り出すと、その顔を見上げる。
「イルミナ、そんな言い方をしなくても――」
「嫌なことは、嫌だとお伝えしたいです。ゼヴェリン様にも、聞いていただきたいです!」
息子が出しかけた足を戻す。
「あら……うふふ」
大伯母様はイルミナ様へ向いたまま、笑みを少し深くする。
「では、何を望むの?」
「私の返事を最後まで聞いてほしいです! 結婚したいです。でも、うれしいことも嫌なことも、お話ししたいんです。黙って頷くと決めたわけではありません!」
息子の口が開くより早く、大伯母様が手で退ける。私は窓辺の椅子へ茶を差し出す。受け取ったイルミナ様の指はまだ震えていて、湯気がその上をゆっくりほどけていく。
「言うじゃないの。アンナリーゼ、この娘はどうかしら?」
「今はまだ落としません。結婚のお返事は保留にします」
大伯母様が私へ向き直る。空いた手を盆の縁に添えると、その指先まで見られている気がする。
「アンナリーゼは、ゼヴェリンの何が好きだったの?」
「……家の決めた縁、ですので」
大伯母様は黙って続きを待つ。茶器へ手を伸ばしかけ、客のための茶はもう渡したのだと気づく。手を膝へ戻して重ねても、言葉は続かない。
「家が決めたことは知っているわ。あなたは、どうだったの?」
「……それでよいのだと。ほかに、お答えが見つかりません」
窓辺で茶器が受け皿に触れる音がする。私は膝の手をほどけないまま、息子へ顔を向ける。
「あなたのわがままな行動は、許せないと思っています。あなたがちゃんと母に頭を下げるまでは、母は許しませんからね?」
「頭を下げる相手が違うだろう! 昨日まで俺の婚約者だったあなたに!」
息子の声が大きくなる。私は椅子に座り直し、その顔を見上げる。
「あら……元婚約者としては、もっと不愉快なのですけど?」
「く……」
息子の視線が、私から膝の手へ落ちる。私は指をほどき、茶器を置いたイルミナ様へ向き直る。
「お話をありがとうございます。イルミナ様を退けるための保留ではありません」
「はい。……私の話も聞いていただけて、よかったです。お返事を、お待ちします」
イルミナ様の退室を見届け、腰を浮かせかけると、閣下が私を呼び止める。
「家の返事は、君に任せよう」
「……お待たせすることになっても、ですか?」
閣下は頷いて、隣の妻の椅子を引く。
「君の返事を待とう。それより、君のことをもう少し聞かせてくれるかな? こちらへ……」
勧められた席へ移る。座面はまだ冷たい。背を伸ばしても、隣の肩の近さに、そちらを見られずにいる。
◇
数日後、玄関の広間で私は帳簿を開く。月の小遣いの使い道が空欄だ。紙の端を押さえ、暮らしの支給はそのままに、使い道を確かめるまで小遣いを預かると告げる。
「何を言うんだ! 小遣いを返せ!」
「使途不明金では母が困ります」
空欄を指して帳簿を息子へ向ける。読めるよう持ち上げると、息子の目が白いところを避けて私へ戻る。
「は、母だと! まだ言うか、婚約者だったくせに!」
「はい。わたくしはあなたの母ですわ。こちらの空欄に使い道を書いてください」
指した場所を動かさずにいると、息子の肩が下がる。帳簿を覗き込み、すぐに顔をそらすので、私は閉じずに待つ。
「書くほどのことじゃない! 夜会で……」
「夜会で、どうなさったのですか?」
言いかけた息子の目が帳簿から、私の夜会の装いへ移る。侍女が整えてくれた深い青の衣装に、玄関の灯りが柔らかく流れる。襟元の留め具にも、淡い光が宿る。
「なら俺も同伴する! 夜会で使うんだ。あなたは行くのに、俺は残るのか?」
「これからの使い道ではなく、今までの分を伺っています。お返事をいただくまでは、同伴も許せません」
息子が頁の端に手を掛ける。
「……本気で行かせない気か?」
「本気で、お返事を待っています。空いているままでは、確かめられませんから」
息子は空欄を睨んだまま動かない。侍女が扉から告げる。
「お出かけの支度が整いました」
閣下が自分で迎えに来て、私に手を差し出す。外套の襟を正した姿が玄関の灯りに浮かぶ。書斎にいるときより大きく見えて、頁から指を離すのを忘れる。
「用意はよいか?」
「……私を迎えに、いらしたのですか?」
差し出された手へ目を落とす。帳簿を渡しそうになり、抱え直す。息子が何か言いかけるけれど、閣下の手は下がらない。
「君と出かけるのだから」
「は、はい、嬉しいです」
思ったより声が弾む。返事を済ませても、抱えている帳簿のせいで手が空かない。慌てて卓へ置くと、革の表紙がことりと鳴る。
「急がなくてよい」
「大丈夫です……ただ、閣下。指一本触れないと、仰いましたが……」
「同伴の手は、夫の務めのうち――腕を貸すだけだ」
「……では、お借りします」
差し出された手を取る。鉄の輪を握ったときとは違う温かさが、指に触れる。
◇
門で息子が馬車の前に立つ。外套も着ず、夜気の中で肩を怒らせている。私が閣下の手を離すのを見て、息子が顔を近づける。
「今からあなたに許しを求めれば、俺も行けるのか?」
「母の許しを求めるなら、家の用件が先です。帳簿へお返事を」
息子が門柱に手を突く。馬車の扉は、閣下がもう開けている。私は足を止め、息子の言葉を待つ。
「なら、その用件とやらを今ここで済ませる!」
「では、使い道を。今ここで」
息子の口が開いて、閉じる。私は風に揺れる裾を押さえ、玄関へ顔を向ける。
「……それが言えなければ、俺だけ残るのか?」
「まだお返事をいただいていませんから。帳簿は玄関にあります。私は馬車に乗ります」
息子の手が門柱から下がる。門に残る姿を見届け、閣下と会場へ向かう。馬車の窓の向こうで、門の灯りが小さくなる。
会場は明るく、床の艶に灯りが揺れている。楽の音に重なる衣擦れを聞きながら、私は閣下の隣で足を止める。挨拶を受ける方々へ、閣下が私を示す。
「私の妻だ。今後は家のことを共に担う」
息子の元婚約者、と続くのを待ってしまい、返礼が遅れる。閣下は先へ進まず、私が顔を上げるまで待っている。挨拶を受ける方々へ礼を返すと、目の前でも膝が折られ、衣擦れが静かに重なる。
閣下の腕に指を添え、楽の音に合わせて一曲踊る。光る床に靴先を見失いかけても、添えられた手は急がない。俯いていた顔を上げると、閣下の目がこちらを向いている――その瞳に映る優しく誠実な瞳に、私は慌てて目をそらしてしまった。
◇
帰りの馬車でやっと腰を落ち着ける。裾を直すと、車輪の音が行きよりも近くに聞こえる。
「君は、何を望んでいる?」
「……私の望み、ですか?」
帳簿のない膝へ指を置く。広げる頁も、確かめる欄もない。目を落とすと、指が衣装に小さな皺を寄せている。
「この後どうしたい?」
「……もう少し、閣下のお話を聞きたいです」
閣下が私へ体を向ける。揺れる灯りに、こめかみの白い髪が浮かぶ。膝の指をほどくと、布の皺がゆっくり戻る。
「ほう、こんなおいぼれの話など何が聞きたい?」
「お、おいぼれなんてこと、全然ございませんわ!」
「ははっ、ありがとう。でも、私も君の話を聞いてみたいな」
「えっ? 私のことなんてそんな……」
声が途中で細くなる。閣下の膝は、私へ向いたままだ。
「まぁ、そんな構えなくてもいいじゃないか。いいワインが手に入ったんだ。グラスを傾けながらのとりとめのない話も、悪くない」
「でも、何かのお役に立つ話でもありませんし……お聞かせして、困らせませんか?」
車輪の音のあいだに、閣下が笑う。声は立てず、目尻だけを和らげる。
「困らない。君も、答えを整えなくていい。話しながら考えよう」
私は頷く。窓の外にはもう門の灯りが見えていて、その光へ向きかけた顔を、閣下のほうへ戻す。
◇
毎晩、書斎で閣下と屋敷の帳簿を見る時間が、いつのまにか一日でいちばん長くなった。
翌日の夜。書斎の机に帳簿を開いたまま、私は閣下を見る。灯りの下で頁を繰る手が緩む。読んでいた場所へ指を戻しても、目は同じ数字の上を滑る。
「私を息子の嫁に選んだのは、帳簿が読めるからですか? 閣下のお手を煩わせずに済むからでしょうか?」
「それだけではない。顔合わせからの訪問で、屋敷の者の名を覚え、伯母様の帳簿の写しの誤りを指摘してくれた。人を置き去りにせず、家を回せるからだ」
頁を押さえる指が止まる。閣下の目は、帳簿の上に落ちていない。
「……誤りを見つけたこと以外も、覚えていらしたのですか?」
「覚えている。家を任せる相手だから、君を見ていた」
反った頁の端を伸ばし、私はその白い縁を見つめる。
「後妻に迎えてくださったのも、そのためですか?」
「そうだ。君と家のことを話したかった」
私は帳簿を閉じかける。今日の用件は、もう済んでいる。重なりかけた頁を指で挟み、表紙の間を空けたまま、閣下を見上げる。
「……務めの話だけ、ですか?」
「最初はな。だが今は、君といる時間が愛おしい」
「……え?」
挟んだ指を抜けば閉じられるのに、そのまま動けない。灯りの芯が鳴る。返事の代わりに唇が開き、何も言えずに閉じる。
扉が鳴る。帳簿からようやく手を離して立ち、開けると、大伯母様と息子が廊下にいる。大伯母様は私の肩越しに机を見て、口元を上げる。
「ふふ、帳簿を口実に夜更かし? なんだかあなたの息子が閣下にお話があるんですって」
「お父様、俺はイルミナを認めてもらおうと来たんです。話をさせてください」
息子が横から入ろうとする。私は扉に手を掛けて、通ろうとする顔を見る。息子は足を止め、書斎の奥へ目を走らせる。
「あなたを待つより、父上に頼めば早いだろう! あなたとばかり話していたら、先へ進まないじゃないか!」
「母の許しは、扉越しに閣下へ頼んでも決まりません」
息子が私の手を退けるように顎を動かす。私は戸口を空けずに待つ。
「父上がいいと言えば、あなたも困らないはずだ!」
「困るかどうかの話ではありません。あなたの縁談は閣下から私に任されているのです」
「くっ……」
息子の足が廊下へ戻る。大伯母様は息子の背中を押して歩ませる。
「ほら、言われたでしょう。筋を通さないとダメなのよ」
「……大伯母様。すみません」
二人が去るのを見届け、扉を閉じる。閉じた扉に背を預け、息を吐く。
「縁談をどうするつもりか、君の考えを聞かせてもらえるかな?」
「……お返事は、まだ待ってください。今夜は帳簿を閉じます」
机へ戻り、開いていた帳簿を閉じる。表紙へ置いた手を、今度は退けずにいる。閣下の手が隣に置かれる。触れそうなところにある指を見てから、私はゆっくり顔を上げる。
◇
翌日、客間で大伯母様は上座にいる。許しの返事を受けに来たイルミナ様へ、閣下が私を先に示し、息子を後に回す。午後の光が長椅子に落ちる。イルミナ様は膝に手を重ね、私へまっすぐ顔を向けている。私は背を伸ばして椅子に座る。
「イルミナさん。私の妻で、この家の女主人だ。それから、息子。縁談の返事は妻がする」
閣下の隣へ進みかけた息子の足が、そこで止まる。その顔が、私から閣下へ向き直る。
「父上、まだアンナリーゼを妻にする気ですか!?」
「お前が捨てた女性だ。私が拾って何が悪い」
息子が閣下の側から離れ、客間の真ん中で立ち尽くす。私は重ねた手の指をそろえ直す。
「俺の望みではなかったんです! 父上がお決めになった婚約だったでしょう!」
「そうだ。だが、望みを持つことと、相手を軽く扱うことは別だ」
「くっ……。アンナリーゼも、当てつけみたいに父上に言い寄るなんてひどいぞ!」
「あら、当てつけなんかじゃないですわ。あなたより旦那様の方が魅力的ですもの」
「くぅっ! まぁいい。二人は好きにすればいいさ。だが、今日はイルミナの話だ」
イルミナ様は口を結んでいる。息子がそちらを見ても、返事を待つ姿勢は崩れない。大伯母様は足を組んだまま、動かずにいる。
「イルミナとの結婚は、俺の望みです。それなら、俺の話を聞いてください!」
「聞いている。なら、許す相手へ自分で頼め」
息子の顔が私へ向き、すぐにまた閣下へ戻る。開きかけた口から、続きが出ない。
「父上、二歳しか違わない女に、俺が頭を下げるのですか? 婚約を解消した相手に、今度は結婚を頼むのですか?」
大伯母様が足をほどく。椅子の背から体を起こし、私を示す。
「私はこの子を認めた。息子のほうに躾がいるように見えるわ」
「くぅぅ……」
息子はガックリと肩を落とし、しばらく震えていた。
しばらく静かな部屋に息子の荒い息が響く――――。
やがて息子がガバッと顔を上げるとこちらを向き、私の顔を見つめ――頭を下げる。金茶の髪が午後の光に揺れた。
「母上! イ、イルミナとの結婚を――許してください」
返事を急ぎかけて口を閉じる。
頭が上がるのを待たず、私も背を伸ばす。下がったままのつむじへ、はっきりと答える。
「許します。母として」
「えっ……?」「あ……」
イルミナ様が深く礼をする。顔を上げたときには、膝に置いた指がほどけている。
「うれしいです! アンナリーゼ様、ありがとうございます。……結婚しても、お話を聞いていただけますか?」
「はい。伺いますわ。ふふっ」
イルミナ様が嬉しそうに頷く。息子が顔を上げると、そちらへ向き直る。その声が客間にはっきり響く。
「ゼヴェリン様にも、聞いていただきます!」
「……分かった。聞くから、話してくれ」
息子はイルミナの方へ向き直る。
閣下が私の隣に立つと、椅子のそばへ長く伸びる影が寄り添う。目を上げると頷きが返り、私は重ねていた手の力を緩める。
◇
その夜、書斎の扉の外で息子が礼をする。開いたところから入りかけず、廊下に足をそろえたまま顔を上げる。
「お礼の続きを話したい。入ってもいいか?」
「今夜は夫婦で話します。用件は明日、聞きますね」
息子の目が扉に添えた手に落ち、私の顔へ戻る。
「……分かった。明日だな」
頷いて戻る息子を見届け、扉を閉じる。足音が遠ざかっても、すぐには机へ向かえない。扉から手を離して振り向くと、閣下はこちらを見ている。私は仕事の椅子へ戻って座る。帳簿は開かれないまま、灯りの下にある。
「今日の君は素晴らしかった。イルミナさんを認めるとは思わなかった」
「母の務めを果たしたまでです」
閣下が机の上で手を組む。灯りが、その指の節に影を作る。
「本当を言えば、息子の浮気相手など、ひどい目に遭わせてやりたかった。だが、イルミナ様に悪意は無い。それで、我慢した」
「……閣下が、ですか?」
「私だ。それから、愚息の罪は、私が詫びる。すまなかった」
閣下が頭を下げる。こめかみの白い髪が、灯りに浮かぶ。私は帳簿を机の端へ寄せる。空いた場所に、閣下の手がある。
「頭をお上げください。私のほうこそ、感謝しております。名前だけの妻ではなく、この家の女主人として、閣下は私を尊重してくださいました」
「これからも、妻として公爵家を支えてほしい」
用件の一句。閣下はそこで言葉を切り、私の返事を待つ。膝の手を、私は握り直す。
「なら……女性としての私も、認めてほしいです」
「……え? も、もちろん、最初から認めているさ」
閣下が机を回って、私の前に片膝を突く。
「アンナリーゼ、公爵夫人としてだけではない。本当の意味で人生の伴侶になってほしい」
差し出された手は、指一本触れないと言った日の手だ。私はその上にそっと指を重ねる。震えは、もうない。
「お受けいたしますわ、閣下」
「閣下ではなく、ローラントと、呼んで欲しい」
「え……? ロ、ローラント……?」
「ありがとう、アンナリーゼ……」
ローラントは立ち上がると優しくハグで私を包み込む。
私もローラントの背中に手を回した。
「幸せに……してくださいね」
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に、連載版を置きました。
楽しんでください!




