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「父上が決めた婚約に、俺の意思はない」と言われましたので、お父上の後妻になりました ~息子よ、母は許しません~

作者: アクア
掲載日:2026/09/14

「父上が決めた婚約に、俺の意思はない。俺は男爵令嬢と結婚する」


 公爵家の嫡男ゼヴェリン様は、婚約者の私にそう言った。私はアンナリーゼ、伯爵令嬢で二十四歳。


 公爵邸の客間。開いた書斎の扉の内側に閣下がいる。ゼヴェリン様はそちらにも顔を向けている。当主の面前での宣言だ。膝にそろえていた手を、私はそっとほどく。


「分かりました。閣下がお決めになった婚約ですので、閣下と改めてお話しします」


 扉の木部を叩くと、執事が無言で私だけを書斎へ通す。閉じた扉から机へ向き直り、背を伸ばす。


「閣下がお決めになった婚約を、ご子息が破りました。このままでは私は、捨てられた女として生きていかねばなりません。責任を取ってください」


 閣下が婚約の届から顔を上げる。


「責任と言われても……まさか、私と結婚すればよいとでも言うのかね?」


「え? 閣下が……? 本気ですか?」


「まあ、私はもう四十を過ぎている。君には酷だろう。代わりを探そう」


「いえ。私が閣下の後妻になります」


 届の上で、閣下の手が止まる。


「いや、ちょっと、落ち着きたまえ……」


「大丈夫です。落ち着いております」


 閣下は大きく息をつくと届を私へ向け、父の署名の横を示す。相手は当主が指定する、とある。


「いいのか? もう、後戻りは……できんよ?」


 私は目をつぶり、キュッと唇をかんで考える。これは、当てつけのような自暴自棄な判断ではないだろうか……?


 目を開くと閣下は灰色の瞳で真っすぐにこちらを見ている――。


 ……え?


 私はその真摯な瞳に、一瞬魅入られたような感覚を覚え……首を振って振り払った。


「こ、後悔はしません。閣下、こちらの届に、ご署名を……」


 届を押さえる私の指が震えている。閣下はその指を見てから、届を引き寄せる。


「ふむ、分かった。ただ、君には指一本触れないから安心したまえ。これは愚かな息子に対する責任であり、けじめだ」


 こうして私は、婚約破棄を宣言された直後に、公爵家の後妻になることが決まった。


 当主が書き換えれば、婚約はその日のうちに婚姻になる。それが慣(なら)いだ。


 閣下はローラント様、四十一歳。奥様を亡くして八年、息子の嫁にと私を選んだ人だった。


 寡夫(かふ)の手が扉を開く。客間で解消の記録を待つゼヴェリン様は、私より先に閣下を見る。


「お前の婚約は解消した。彼女を私の後妻に迎える」


「……は?」


 ゼヴェリン様は、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見た。


「そのようになりましたので、ご了承くださいませ」


「な、なんだそれは! 二歳年上なだけのお前が、父上の後妻だと!」


「二歳上でも、閣下の妻ですわ。母上と呼びなさい」


 閣下がご自分の隣の椅子を示す。


「……母上?」


 息子になったばかりの相手へ向き直る。


「はい。息子の躾は、わたくし……母の務めですわ」


       ◇


 その夜、書き換えた届が整い、私は公爵邸で暮らし始める。伯爵家から運ばれた荷は、玄関の広間の隅で紐を結ばれたままだ。客として帰るたびに通った玄関で、執事が私の前に立ち、鍵の束を差し出す。


「屋敷の鍵をどうぞ。帳簿もお任せします。嫡男のお小遣いと夜会の同伴は、奥様に伺います」


 受け取ると、鍵が鉄の輪の下で揺れる。持ち直すより早く、横から手が伸びる。


「その鍵は俺が使うんだ。返せ! 俺の用なら、俺が開ければ済むだろう!」


「引っ張らないでください! 落としてしまいます!」


 落ちかける束を、閣下が下から受ける。冷えた鉄が指のあいだで鳴り、鍵の歯が掌をこする。執事が息子へ向き直る。


「女主人の鍵ですので、お渡し先は奥様です」


 閣下が束を私の手の中へ戻す。鉄の輪だけを支え、指には触れない。私が握り直すと、その手が離れる。息子の指は、まだ輪に掛かっている。


「ふんっ! まぁいい。イルミナとは結婚するぞ。もう俺が決めたんだ」


「母として申し上げます。母の許しが要ります。面接をします」


 私は束を握ったまま向き直る。


「勝手に進めるな! 俺の結婚だぞ」


「はい。ですから、相手のお家へ正式にお返事をするのが母の務めです。お会いせずにお返事はできません」


 息子が卓を叩く。思わず握り込んだ鍵が、掌の中でかちりと鳴る。


「返事なら、俺がもうした! 結婚すると言ったんだ! それで話は済んでいるだろう!」


「それはあなたのお返事ですね。では、家の返事をいたします。相手のお家をお待たせしてはいけません」


 鍵を握ったまま待つ。息子の手が卓から離れ、声が小さくなる。


「……あなたにまで会わせることになるなんて、言ってない」


「では、そのこともお伝えください。お迎えの支度はこちらでします」


 離れから来た大伯母のメヒティルト様が、閣下より上座(かみざ)へ椅子を寄せる。背をまっすぐ伸ばして腰を下ろすと、息子の立っている場所が急に狭く見える。


「面接官はあたしがやる。縁談は女主人と長老が会って決めるもの。八年預かった使用人の采配も、アンナリーゼに渡すわ」


 息子がそちらを向く。


「大伯母様まで! 俺の話を聞いてくださらないんですか?」


 大伯母様は、待っていたように口元を上げる。


「聞いたわよ。今度は相手の話を聞くの。あなたは口を閉じていなさい。返事を待つのも躾のうちよ」


 息子が口を結ぶ。私は卓の自分の前へ鍵を置く。その隣で閣下が帳簿を開き、革の表紙に灯りが映る。


「今夜から、家の用件は君と話そう」


「はい。分からないところは、伺ってもよろしいですか?」


 閣下は帳簿を私にも読める向きへ寄せる。


「もちろんだ。話しながら進めよう」


 私は頷き、頁に指を添える。鍵の跡が、掌に赤く残っている。


       ◇


 社交界で最強の大伯母様が、面接官の席で足を組んでいる。


 翌日の客間。男爵令嬢のイルミナ様が通されると、閣下より上座の大伯母様が私の耳元へ口を寄せる。蜂蜜色の髪を肩で留めたイルミナ様は、扉のところで膝を折り、顔を上げかねている。


「アンナリーゼ、あの男爵令嬢が面接に来たわ。なんて図々しいのかしら、落としていい?」


「お話してからです、大伯母様。まだご挨拶も済んでおりません」


 大伯母様は笑って、窓辺に寄せた客の椅子を示す。イルミナ様が腰を下ろしても、壁際の息子は腕を組んだままだ。私は茶器を手に取り、客のほうへ向ける。


「あなた、ゼヴェリンの何が好き?」


「……顔です」


 大伯母様が足を組み直す。息子は顎を上げ、私は滑りかけた茶器を持ち直す。


「正直ね。次。顔がよければ何でも従うの?」


「それは嫌です!」


 イルミナ様の指が膝の上で結ばれる。息子が身を乗り出すと、その顔を見上げる。


「イルミナ、そんな言い方をしなくても――」


「嫌なことは、嫌だとお伝えしたいです。ゼヴェリン様にも、聞いていただきたいです!」


 息子が出しかけた足を戻す。


「あら……うふふ」


 大伯母様はイルミナ様へ向いたまま、笑みを少し深くする。


「では、何を望むの?」


「私の返事を最後まで聞いてほしいです! 結婚したいです。でも、うれしいことも嫌なことも、お話ししたいんです。黙って頷くと決めたわけではありません!」


 息子の口が開くより早く、大伯母様が手で退ける。私は窓辺の椅子へ茶を差し出す。受け取ったイルミナ様の指はまだ震えていて、湯気がその上をゆっくりほどけていく。


「言うじゃないの。アンナリーゼ、この娘はどうかしら?」


「今はまだ落としません。結婚のお返事は保留にします」


 大伯母様が私へ向き直る。空いた手を盆の縁に添えると、その指先まで見られている気がする。


「アンナリーゼは、ゼヴェリンの何が好きだったの?」


「……家の決めた縁、ですので」


 大伯母様は黙って続きを待つ。茶器へ手を伸ばしかけ、客のための茶はもう渡したのだと気づく。手を膝へ戻して重ねても、言葉は続かない。


「家が決めたことは知っているわ。あなたは、どうだったの?」


「……それでよいのだと。ほかに、お答えが見つかりません」


 窓辺で茶器が受け皿に触れる音がする。私は膝の手をほどけないまま、息子へ顔を向ける。


「あなたのわがままな行動は、許せないと思っています。あなたがちゃんと母に頭を下げるまでは、母は許しませんからね?」


「頭を下げる相手が違うだろう! 昨日まで俺の婚約者だったあなたに!」


 息子の声が大きくなる。私は椅子に座り直し、その顔を見上げる。


「あら……元婚約者としては、もっと不愉快なのですけど?」


「く……」


 息子の視線が、私から膝の手へ落ちる。私は指をほどき、茶器を置いたイルミナ様へ向き直る。


「お話をありがとうございます。イルミナ様を退けるための保留ではありません」


「はい。……私の話も聞いていただけて、よかったです。お返事を、お待ちします」


 イルミナ様の退室を見届け、腰を浮かせかけると、閣下が私を呼び止める。


「家の返事は、君に任せよう」


「……お待たせすることになっても、ですか?」


 閣下は頷いて、隣の妻の椅子を引く。


「君の返事を待とう。それより、君のことをもう少し聞かせてくれるかな? こちらへ……」


 勧められた席へ移る。座面はまだ冷たい。背を伸ばしても、隣の肩の近さに、そちらを見られずにいる。


       ◇


 数日後、玄関の広間で私は帳簿を開く。月の小遣いの使い道が空欄だ。紙の端を押さえ、暮らしの支給はそのままに、使い道を確かめるまで小遣いを預かると告げる。


「何を言うんだ! 小遣いを返せ!」


「使途不明金では母が困ります」


 空欄を指して帳簿を息子へ向ける。読めるよう持ち上げると、息子の目が白いところを避けて私へ戻る。


「は、母だと! まだ言うか、婚約者だったくせに!」


「はい。わたくしはあなたの母ですわ。こちらの空欄に使い道を書いてください」


 指した場所を動かさずにいると、息子の肩が下がる。帳簿を覗き込み、すぐに顔をそらすので、私は閉じずに待つ。


「書くほどのことじゃない! 夜会で……」


「夜会で、どうなさったのですか?」


 言いかけた息子の目が帳簿から、私の夜会の装(よそお)いへ移る。侍女が整えてくれた深い青の衣装に、玄関の灯りが柔らかく流れる。襟元の留め具にも、淡い光が宿る。


「なら俺も同伴する! 夜会で使うんだ。あなたは行くのに、俺は残るのか?」


「これからの使い道ではなく、今までの分を伺っています。お返事をいただくまでは、同伴も許せません」


 息子が頁の端に手を掛ける。


「……本気で行かせない気か?」


「本気で、お返事を待っています。空いているままでは、確かめられませんから」


 息子は空欄を睨んだまま動かない。侍女が扉から告げる。


「お出かけの支度が整いました」


 閣下が自分で迎えに来て、私に手を差し出す。外套の襟を正した姿が玄関の灯りに浮かぶ。書斎にいるときより大きく見えて、頁から指を離すのを忘れる。


「用意はよいか?」


「……私を迎えに、いらしたのですか?」


 差し出された手へ目を落とす。帳簿を渡しそうになり、抱え直す。息子が何か言いかけるけれど、閣下の手は下がらない。


「君と出かけるのだから」


「は、はい、嬉しいです」


 思ったより声が弾む。返事を済ませても、抱えている帳簿のせいで手が空かない。慌てて卓へ置くと、革の表紙がことりと鳴る。


「急がなくてよい」


「大丈夫です……ただ、閣下。指一本触れないと、仰いましたが……」


「同伴の手は、夫の務めのうち――腕を貸すだけだ」


「……では、お借りします」


 差し出された手を取る。鉄の輪を握ったときとは違う温かさが、指に触れる。


       ◇


 門で息子が馬車の前に立つ。外套も着ず、夜気の中で肩を怒らせている。私が閣下の手を離すのを見て、息子が顔を近づける。


「今からあなたに許しを求めれば、俺も行けるのか?」


「母の許しを求めるなら、家の用件が先です。帳簿へお返事を」


 息子が門柱に手を突く。馬車の扉は、閣下がもう開けている。私は足を止め、息子の言葉を待つ。


「なら、その用件とやらを今ここで済ませる!」


「では、使い道を。今ここで」


 息子の口が開いて、閉じる。私は風に揺れる裾を押さえ、玄関へ顔を向ける。


「……それが言えなければ、俺だけ残るのか?」


「まだお返事をいただいていませんから。帳簿は玄関にあります。私は馬車に乗ります」


 息子の手が門柱から下がる。門に残る姿を見届け、閣下と会場へ向かう。馬車の窓の向こうで、門の灯りが小さくなる。


 会場は明るく、床の艶に灯りが揺れている。楽の音に重なる衣擦れを聞きながら、私は閣下の隣で足を止める。挨拶を受ける方々へ、閣下が私を示す。


「私の妻だ。今後は家のことを共に担う」


 息子の元婚約者、と続くのを待ってしまい、返礼が遅れる。閣下は先へ進まず、私が顔を上げるまで待っている。挨拶を受ける方々へ礼を返すと、目の前でも膝が折られ、衣擦れが静かに重なる。


 閣下の腕に指を添え、楽の音に合わせて一曲踊る。光る床に靴先を見失いかけても、添えられた手は急がない。俯いていた顔を上げると、閣下の目がこちらを向いている――その瞳に映る優しく誠実な瞳に、私は慌てて目をそらしてしまった。


        ◇


 帰りの馬車でやっと腰を落ち着ける。裾を直すと、車輪の音が行きよりも近くに聞こえる。


「君は、何を望んでいる?」


「……私の望み、ですか?」


 帳簿のない膝へ指を置く。広げる頁も、確かめる欄もない。目を落とすと、指が衣装に小さな皺を寄せている。


「この後どうしたい?」


「……もう少し、閣下のお話を聞きたいです」


 閣下が私へ体を向ける。揺れる灯りに、こめかみの白い髪が浮かぶ。膝の指をほどくと、布の皺がゆっくり戻る。


「ほう、こんなおいぼれの話など何が聞きたい?」


「お、おいぼれなんてこと、全然ございませんわ!」


「ははっ、ありがとう。でも、私も君の話を聞いてみたいな」


「えっ? 私のことなんてそんな……」


 声が途中で細くなる。閣下の膝は、私へ向いたままだ。


「まぁ、そんな構えなくてもいいじゃないか。いいワインが手に入ったんだ。グラスを傾けながらのとりとめのない話も、悪くない」


「でも、何かのお役に立つ話でもありませんし……お聞かせして、困らせませんか?」


 車輪の音のあいだに、閣下が笑う。声は立てず、目尻だけを和らげる。


「困らない。君も、答えを整えなくていい。話しながら考えよう」


 私は頷く。窓の外にはもう門の灯りが見えていて、その光へ向きかけた顔を、閣下のほうへ戻す。


       ◇


 毎晩、書斎で閣下と屋敷の帳簿を見る時間が、いつのまにか一日でいちばん長くなった。


 翌日の夜。書斎の机に帳簿を開いたまま、私は閣下を見る。灯りの下で頁を繰る手が緩む。読んでいた場所へ指を戻しても、目は同じ数字の上を滑る。


「私を息子の嫁に選んだのは、帳簿が読めるからですか? 閣下のお手を煩わせずに済むからでしょうか?」


「それだけではない。顔合わせからの訪問で、屋敷の者の名を覚え、伯母様の帳簿の写しの誤りを指摘してくれた。人を置き去りにせず、家を回せるからだ」


 頁を押さえる指が止まる。閣下の目は、帳簿の上に落ちていない。


「……誤りを見つけたこと以外も、覚えていらしたのですか?」


「覚えている。家を任せる相手だから、君を見ていた」


 反った頁の端を伸ばし、私はその白い縁を見つめる。


「後妻に迎えてくださったのも、そのためですか?」


「そうだ。君と家のことを話したかった」


 私は帳簿を閉じかける。今日の用件は、もう済んでいる。重なりかけた頁を指で挟み、表紙の間を空けたまま、閣下を見上げる。


「……務めの話だけ、ですか?」


「最初はな。だが今は、君といる時間が愛おしい」


「……え?」


 挟んだ指を抜けば閉じられるのに、そのまま動けない。灯りの芯が鳴る。返事の代わりに唇が開き、何も言えずに閉じる。


 扉が鳴る。帳簿からようやく手を離して立ち、開けると、大伯母様と息子が廊下にいる。大伯母様は私の肩越しに机を見て、口元を上げる。


「ふふ、帳簿を口実に夜更かし? なんだかあなたの息子が閣下にお話があるんですって」


「お父様、俺はイルミナを認めてもらおうと来たんです。話をさせてください」


 息子が横から入ろうとする。私は扉に手を掛けて、通ろうとする顔を見る。息子は足を止め、書斎の奥へ目を走らせる。


「あなたを待つより、父上に頼めば早いだろう! あなたとばかり話していたら、先へ進まないじゃないか!」


「母の許しは、扉越しに閣下へ頼んでも決まりません」


 息子が私の手を退けるように顎を動かす。私は戸口を空けずに待つ。


「父上がいいと言えば、あなたも困らないはずだ!」


「困るかどうかの話ではありません。あなたの縁談は閣下から私に任されているのです」


「くっ……」


 息子の足が廊下へ戻る。大伯母様は息子の背中を押して歩ませる。


「ほら、言われたでしょう。筋を通さないとダメなのよ」


「……大伯母様。すみません」


 二人が去るのを見届け、扉を閉じる。閉じた扉に背を預け、息を吐く。


「縁談をどうするつもりか、君の考えを聞かせてもらえるかな?」


「……お返事は、まだ待ってください。今夜は帳簿を閉じます」


 机へ戻り、開いていた帳簿を閉じる。表紙へ置いた手を、今度は退けずにいる。閣下の手が隣に置かれる。触れそうなところにある指を見てから、私はゆっくり顔を上げる。


       ◇


 翌日、客間で大伯母様は上座にいる。許しの返事を受けに来たイルミナ様へ、閣下が私を先に示し、息子を後に回す。午後の光が長椅子に落ちる。イルミナ様は膝に手を重ね、私へまっすぐ顔を向けている。私は背を伸ばして椅子に座る。


「イルミナさん。私の妻で、この家の女主人だ。それから、息子。縁談の返事は妻がする」


 閣下の隣へ進みかけた息子の足が、そこで止まる。その顔が、私から閣下へ向き直る。


「父上、まだアンナリーゼを妻にする気ですか!?」


「お前が捨てた女性だ。私が拾って何が悪い」


 息子が閣下の側から離れ、客間の真ん中で立ち尽くす。私は重ねた手の指をそろえ直す。


「俺の望みではなかったんです! 父上がお決めになった婚約だったでしょう!」


「そうだ。だが、望みを持つことと、相手を軽く扱うことは別だ」


「くっ……。アンナリーゼも、当てつけみたいに父上に言い寄るなんてひどいぞ!」


「あら、当てつけなんかじゃないですわ。あなたより旦那様の方が魅力的ですもの」


「くぅっ! まぁいい。二人は好きにすればいいさ。だが、今日はイルミナの話だ」


 イルミナ様は口を結んでいる。息子がそちらを見ても、返事を待つ姿勢は崩れない。大伯母様は足を組んだまま、動かずにいる。


「イルミナとの結婚は、俺の望みです。それなら、俺の話を聞いてください!」


「聞いている。なら、許す相手へ自分で頼め」


 息子の顔が私へ向き、すぐにまた閣下へ戻る。開きかけた口から、続きが出ない。


「父上、二歳しか違わない女に、俺が頭を下げるのですか? 婚約を解消した相手に、今度は結婚を頼むのですか?」


 大伯母様が足をほどく。椅子の背から体を起こし、私を示す。


「私はこの子を認めた。息子のほうに躾がいるように見えるわ」


「くぅぅ……」


 息子はガックリと肩を落とし、しばらく震えていた。


 しばらく静かな部屋に息子の荒い息が響く――――。


 やがて息子がガバッと顔を上げるとこちらを向き、私の顔を見つめ――頭を下げる。金茶の髪が午後の光に揺れた。


「母上! イ、イルミナとの結婚を――許してください」


 返事を急ぎかけて口を閉じる。


 頭が上がるのを待たず、私も背を伸ばす。下がったままのつむじへ、はっきりと答える。


「許します。母として」


「えっ……?」「あ……」


 イルミナ様が深く礼をする。顔を上げたときには、膝に置いた指がほどけている。


「うれしいです! アンナリーゼ様、ありがとうございます。……結婚しても、お話を聞いていただけますか?」


「はい。伺いますわ。ふふっ」


 イルミナ様が嬉しそうに頷く。息子が顔を上げると、そちらへ向き直る。その声が客間にはっきり響く。


「ゼヴェリン様にも、聞いていただきます!」


「……分かった。聞くから、話してくれ」


 息子はイルミナの方へ向き直る。


 閣下が私の隣に立つと、椅子のそばへ長く伸びる影が寄り添う。目を上げると頷きが返り、私は重ねていた手の力を緩める。


       ◇


 その夜、書斎の扉の外で息子が礼をする。開いたところから入りかけず、廊下に足をそろえたまま顔を上げる。


「お礼の続きを話したい。入ってもいいか?」


「今夜は夫婦で話します。用件は明日、聞きますね」


 息子の目が扉に添えた手に落ち、私の顔へ戻る。


「……分かった。明日だな」


 頷いて戻る息子を見届け、扉を閉じる。足音が遠ざかっても、すぐには机へ向かえない。扉から手を離して振り向くと、閣下はこちらを見ている。私は仕事の椅子へ戻って座る。帳簿は開かれないまま、灯りの下にある。


「今日の君は素晴らしかった。イルミナさんを認めるとは思わなかった」


「母の務めを果たしたまでです」


 閣下が机の上で手を組む。灯りが、その指の節に影を作る。


「本当を言えば、息子の浮気相手など、ひどい目に遭わせてやりたかった。だが、イルミナ様に悪意は無い。それで、我慢した」


「……閣下が、ですか?」


「私だ。それから、愚息の罪は、私が詫びる。すまなかった」


 閣下が頭を下げる。こめかみの白い髪が、灯りに浮かぶ。私は帳簿を机の端へ寄せる。空いた場所に、閣下の手がある。


「頭をお上げください。私のほうこそ、感謝しております。名前だけの妻ではなく、この家の女主人として、閣下は私を尊重してくださいました」


「これからも、妻として公爵家を支えてほしい」


 用件の一句。閣下はそこで言葉を切り、私の返事を待つ。膝の手を、私は握り直す。


「なら……女性としての私も、認めてほしいです」


「……え? も、もちろん、最初から認めているさ」


 閣下が机を回って、私の前に片膝を突く。


「アンナリーゼ、公爵夫人としてだけではない。本当の意味で人生の伴侶になってほしい」


 差し出された手は、指一本触れないと言った日の手だ。私はその上にそっと指を重ねる。震えは、もうない。


「お受けいたしますわ、閣下」


「閣下ではなく、ローラントと、呼んで欲しい」


「え……? ロ、ローラント……?」


「ありがとう、アンナリーゼ……」


 ローラントは立ち上がると優しくハグで私を包み込む。


 私もローラントの背中に手を回した。


「幸せに……してくださいね」



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に、連載版を置きました。

楽しんでください!

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