拝啓、記憶をなくした私を愛してくださった婚約者様
スプーナー伯爵令嬢マリアンヌとヒュープナー伯爵嫡男のアベルは、共に19歳。
婚約者となって7年。今でこそ互いの目を見つめ合うほど想い合う仲だけど、1年前までは違った。
この婚約は王家が仲介した政策のひとつ。
敵対派閥から幾つかの縁が結ばれた。あまりにも家同士の不利益が生じるなら解消してよいが、極力結婚してくれというくらいには国から望まれている。
マリアンヌ、アベルの場合、ともに相手の家が逆賊であると幼少期からたたき込まれてきた。
だからふたりは、月に2度のお茶会が苦痛だった。会話が続くときはいやみの応酬。特にアベルからマリアンヌの家に関する苦言が多かった。
しかし2年前の園遊会、建前上は婚約者だからと庭園を並んで歩いているときにマリアンヌが脚をくじいた。
マリアンヌは、こんな男の前でぶさまな姿を見せたと自分に腹を立てていた。
アベルは間を置かず、黙ってマリアンヌを抱き起こして肩を貸した。
「な、なんですの」
「…我々が無理に仲良くする理由はない。だからといって怪我をした婚約者に恥をかかせる理由にはならない」
マリアンヌはアベルという男性を見直した。『家』という貴族が第一とするものを常に頭に置いている。しかし、人として反するべきではないという心も持っている。
今まで相手に無関心な態度ばかり取ってきた自分を反省した。
この日から少しずつマリアンヌの方から歩み寄り、アベルの心を溶かしていった。
敵だらけの家に何度も訪れた。睨まれても何か言われても、決してマリアンヌは諦めなかった。
やがて母親が折れ、父親の態度が柔らかくなり、使用人に暖かく迎えられた。
アベルが最後に絆された。本当に頑固だった。
けれど、相手を信じてしまえば裏切らない人柄。理性的で人に優しくできるマリアンヌの話に耳を傾け始めると、2人の距離は一気に縮まった。
半年前にアベルの方から気持ちを伝えてくれた。
「今まで済まなかった。これからは君がやってくれたように、今度は私が君のために努力する。君の本物の伴侶になりたい」
マリアンヌは返事をしながら涙を流した。
この半年は、夜会でも美男美女が寄り添う姿が見られるようになった。
マリアンヌは婚約した日からアベルと過ごした記録を日記として残している。
婚約後から長い間、不満をぶちまけたような内容だったが、この半年間のものは読み返すのが楽しい。
特に『君の本当の伴侶になりたい』と書かれた日のことを思い出すと、胸が暖かくなる。
◆◆
それから少し経ったある日。
「マリアンヌ、次期当主の勉強を兼ねて、どうしても領地に行かねばならない。1か月も君と離れ離れになってしまうよ」
「あらまあ、アベル、帰ってきたら一緒にお茶をして、舞台を見に行きましょう。もちろんディナーも一緒よ」
「あはは。やる気が出てきたよ。お土産を楽しみにしていてくれ。それじゃ1か月後」
「出発は明日ね。いってらっしゃい。お気を付けて」
そう言って別れたあと、2人ともアクシデントに見舞われるとは思ってもみなかった。
◆◆◆
そろそろアベルが出発して1か月となるころ、マリアンヌの元に急報が入った。
「え、アベルが」
3日前、領地の森を視察していたアベルがポイズンビーに刺されて倒れたという。
毒で高熱を出し、意識混濁の状態が続いているそうだ。
「分かりました。こちからから向かいます」
「馬車をすぐに用意します」
「アベル、待っててね」
しかし数時間後、マリアンヌを乗せた馬車が横転。王都に引き返すことになった。
◆◆
アベルは倒れて2か月後、体を治して王都に帰ってきた。
「くそっ、イライラする。本当に私は、あの会いにも来ない女と相思相愛だったのか」
最愛のはずのマリアンヌのことで悪態をつくアベル。
この3年間ほどの記憶が戻ってこないのだ。
精神的にも未熟な16歳の頃に後退している。
アベルの記憶に残るマリアンヌにろくな女ではない。初対面では無表情。定例の茶会でも何を言っても無関心。
たまにいやみを言ってやると、揶揄するような口調で言い返してきた。
それが数年間続いていたはずだ。
周囲の人間はみな、自分とマリアンヌが急速に仲睦まじくなったという。
3ヶ月前の夜会においてはダンスを3曲も続けて踊っていたという。そんな記憶はない。
母親には「記憶がなくて不安なのは分かるけれど、あなたのためにマリアンヌさんが努力してくれたのよ」と涙目で訴えられた。
アベルには信じられない。
記憶の中には『王家の希望があったとはいえ、あんな家の娘と婚約させることになって申し訳ない』
そう謝ってくれる両親の言葉しか残っていない。
考えようとはした。
マリアンヌの仏頂面を思い浮かべ、笑顔に変換しようとすると強烈な頭痛に見舞われる。
医師によると毒で高熱が出た影響らしい。耐えがたいほどの苦痛だ。
アベル自身も、周囲に何度も言われている。親しい友人にも忠告された。
歓迎された覚えがないスプーナー伯爵家には行きたくなくても、マリアンヌに会うべきだと思った。
ただ矛盾だらけだ。
マリアンヌはアベルが倒れたと聞いて、自分の元に向かおうとしたらしい。
しかし会っていない。
意識が戻って数日後、家人からマリアンヌは出発したあと馬車の事故にあったと聞いた。
幸いに頭や肩の外傷は治ったと報告はあった。なのに、王都の屋敷から出てこないということだった。
交流といえば家を通じたお見舞いが送られてくるのみ。マリアンヌ本人から音沙汰がないと両親も困惑していた。
アベルは、マリアンヌと自分は、何かの目的があり、仲がいいふりをしていたのではないかと疑っている。
王都からアベルが療養していた領地の医療院まで馬車で3日もかからない。
両親が言うほどに睦まじい仲なら、必ず会いにきてくれたはずだ。
そもそも4日後に茶会で再会する予定だけど、お互いに目と鼻の先にいる。
会いに来ないのはおかしい。
自分から会いにいくべきかと思ったアベルだけど、頑固な性格が足止めになった。マリアンヌと、その家族にいい思い出はない。
向こうもそうだろう。だから2ヶ月間会えなくてもなんともないのだと。
会いに来ない、非常識な婚約者に腹が立っていた。
こちらから譲歩すべきではないと断じた。
◆◆◆
そして4日後の晴れた日。マリアンヌの家で2人は約3か月ぶりに再会した。
アベルは怒りを抱えたままだ。
温室にお茶のセットが用意してあった。そしてテーブルには本のような物も置いてあった。
ただ静かに座る美しい女性がいる。
少し見惚れてしまったあと、それが19歳になったマリアンヌだと気付いた。美しいと思った自分に腹を立て、どかっと音を立てて椅子に座った。
再会したマリアンヌには、両親や友人が言うようなアベルを愛している雰囲気がない。
「本当に、お久しぶりでございます、アベル様」
「…ああ」
「お体も回復されたそうで何よりです」
「…そうだな」
まかりなりにも、婚約者が2か月も療養するような目にあったというのに単なる社交辞令のような言葉。
お茶にも手を付けず、黙ったままのマリアンヌは、やがて意を決したようにテーブルに置かれた冊子をアベルに渡した。
ブックカバーが付いた、分厚い日記帳だった。
「なんだこれは」
「婚約してから、お会いした日の記録を残しておりました。その冊子は一番新しいもの。ここ10か月分があります」
「いや、先に話がしたい…」
「申し訳ございません。先にお読みください」
それから沈黙が続いた。マリアンヌはただアベルを見ている。愛している者への温度を感じない。
空気に耐え切れなくなったアベルが日記帳を開いた。最初の日付は、アベルの記憶から消えている日だ。
『×月×日
ようやくアベル様の言葉で素直に笑えるようになった。
アベル様の笑顔も優しくなった』
そんな文章から始まっていた。
そうして増えていく、好意的な自分の言葉。
『本当の伴侶になりたい』
『君と私の間に生まれる子供には、なんという名前を付けようか』
『愛してる』
『早く君と暮らしたい』
1時間ほどかけて、自分が吐いたらしき言葉を拾って読んだ。
自分が本当に、こんな言葉をささやいたのか、信じられない気持ちだ。
けれど何かを期待している自分もいる。
「こんなことを私が言ったのか、マリアンヌ」
しかし、アベルの期待に反して乾いた声が返ってきた。
「さぁ…、どうなのでしょうか」
アベルは思わず激高した。
「どうなのでしょう、とは何だ! 私は記憶をなくしているのだぞ。からかっているのか」
「からかってなどおりません…ただ」
「だいたい見舞いにも来ず、婚約者の責任も果たしていない。この2か月は何をしていた!」
「私も怪我で…」
「しかし怪我は治ったのだろう。たとえ身体の不調があったとしても、私の両親が同じ王都にいただろう。家に来て話をすればいいだろう」
「お待ちください、あなたのご両親とは…」
「なんだ、私の両親も君のことを心配していた。私の記憶にはないが、最近は君と私の両親の関係は良好だったのだろう」
「本当に、あの方々が私に友好的に接してくれたのでしょうか…」
「私の両親が嘘を吐いていると言うのか!」
「け、決してそういう意味ではないのです。お聞き下さい」
「うるさい、君のような女と一緒に過ごせるか。婚約解消だ。王家が絡むから婚姻せざるをえないときは、白い結婚だ。3年したら離婚だ!」
大きな声に、控えていたメイドが足早に近付いてきた。
マリアンヌが立ち上がってメイドを制しようとすると、膝ががくっと落ちた。
「お嬢様!」
「大丈夫よ、ハンナ」
「大丈夫ではございません。外傷は治っても首や頭には重度の後遺症が残っていると、お医者様に言われたではないですか」
「今のは立ちくらみだけ。アベル様には、ここで話しておかねばならないことが…」
「…分かりました。けれどお医者様がいらっしゃるまでですからね」
メイドは医者の手配をしにいく前にアベルに言った。
「ヒュープナー伯爵令息様。問題を抱えているのはあなた様だけではございません。お嬢様の話をお聞き下さい」
射るような目で見られ、アベルは困惑している。
「マリアンヌ、君になにが起こった…」
「お見苦しいところをお見せしました」
「いや…」
「実は私は、馬車の横転事故に遭ったらしいのです。その時に頭部を打ったせいで何も覚えていないそうです。その日記帳に書いてあることが自分の経験だという覚えがないのです」
「……え」
「あなた様だけでなく、私もここ2年間ほどの記憶がすっぽり抜け落ちております」
マリアンヌの言葉に熱はない。ただ平坦に、事実を述べている。マリアンヌを好きだった記憶はないけれど、嘘は言っていないとすんなり信じられた。
「お見舞いにも、会いにも行かず申し訳ありませんでした。けれどヒュープナー伯爵家に行こうとすると足がすくんでしまったのです。さらに事故の後遺症らしき頭痛も収まらず…。療養しているうちに時間が過ぎてしまいました…」
肩が小さく震えている。
なぜ、と言おうとしてアベルは、これだけは理解できた。マリアンヌが今日初めて辛そうな顔を見せている。
自分も記憶障害。自分の両親とマリアンヌが友好的だった記憶なんてない。
自分がマリアンヌの両親を避けていたのと同じだ。記憶障害を抱えて不安なマリアンヌが、全員が敵でしかないと感じる家を訪ねるはずもない。
考えてみればマリアンヌも怪我をした。スプーナー伯爵家が嫌いだからといって、自分の両親も息子の婚約者の見舞いに来ていない。
マリアンヌは息を吸った。
「アベル様、先ほどの婚約解消の件、前向きに検討させていただきたいと思います」
「君は、本当に…なにも覚えて…」
「今日は何を話していいか分からず、日記帳をお見せしました。あれを書いた幸せだった私、そこに書かれた優しいアベル様。何か感じるものがあれば奇跡が起こるなど、幻想でした…」
「奇跡?」
「…そう、奇跡を願っておりました」
マリアンヌが寂しそうに笑った。アベルは目を奪われた。
このあと、医者と一緒にマリアンヌの両親も駆けつけ、両者の希望通り婚約を解消する方向に持っていくと言われた。
別れ際、アベルはマリアンヌに日記帳を持たされた。『もしも記憶が戻ったときはブックカバーをよく見て下さい』
それが別れの言葉だった。
念のために両家で一定期間の様子を見たが、どちらも記憶は戻らなかった。
そうして3か月後、王家に申し出て婚約者双方の記憶障害という極めて珍しい事例により、ふたりの婚約は白紙撤回なった。
◆◆◆
半年が経過した。
アベルの周辺も落ち着きを取り戻した。1年以内に記憶が戻れば再び次期当主として仕事を再開する。
戻らなければ弟に地位を譲り、自分は勉強し直して弟の補佐に徹することに決めた。
マリアンヌに言ってしまった言葉は、少しずつ後悔となって膨れ上がってきている。
さらに最近、マリアンヌが後遺症の治療のため、医療技術が発達した隣国の親戚の家に移り住んだと聞いて動揺した。
薄ぼんやりとした夢を見るようになった。周囲の人間も、記憶の断片が戻ってきたと感じることがあった。
夕べ、夢の中に笑顔のマリアンヌが出てきた。差し出されたマリアンヌの手を取ろうとした。
目覚めると、虚空に手を伸ばしていた。そして記憶を取り戻していたた。
呆然とした。
「マリアンヌ…。やっぱり私たちは…。私はなんてことを言ったんだ…」
あの最後に会った日、見せられた日記に書いてあることは本当だった。
マリアンヌとの別れ際の言葉を思い出した。
『もしも記憶が戻ったときはブックカバーをよく見て下さい』
「そ、そうだ、あの日記を調べないと」
焦る気持ちの中で、再びマリアンヌの愛を取り戻せる鍵がほしかった。
縋るものは、それしかない。
机の中から日記帳を取り出し、周囲を調べた。裏表紙にポケットになっている部分がある。手紙が入っていた。
アベルは一度だけ深呼吸をして手紙に視線を落とした。
『アベル様へ。
この手紙は再会予定日の2日前に書いております。
あなたがこの手紙を読んでおられるということは、記憶を取り戻したということでしょう。
同時に、私とあなたの婚約は解消されているのでしょうね。
だから私は死んだと思って下さい。
もう私は、日記を書いた幸せな私とは別人なのです。
私は運良く生き残っておりますが、記憶は取り戻せません。
お医者様は、可能性はゼロに近いとおっしゃいました。
馬車から投げ出されてしまい頭を打ちました。外傷はわずかなものでしたが深刻だったのは打撲でした。血液が頭の中の一か所にたまり、それを溶かす強いお薬が必要で頭の中に不具合が起こったようです。
そうやって2年分の記憶を命と引き替えにしました。
アベル様が愛してくれた幸せな日記を書いていた私がいなくなりました。申し訳なく思います。
お互いを愛おしく想い合っていたようです。その感情をアベル様が取り戻したとしても、私には無理なようです。
再会するなら断片的でもいいから、幸せな記憶を戻してからと思い、会う日を引き延ばしてしまいました。
そんな私を見かねた両親が、今日になって医者様を連れてきて説明してくださいました。
お医者様によりますと、アベル様と私は同じ記憶障害に見えて、症状が違うそうです。
アベル様の記憶は、毒によって思い出すことを阻まれており、取り戻せる可能性があるとお聞きしました。
私の記憶はそれを留めておく部分が壊れて完全に喪失してしまったようです。
頭部の深い部分と首を痛めた影響から体の不具合が残りました。数年単位の治療が必要となります。
伯爵夫人の務めを果たせるまで回復するのか、それとも無理なのか、見通しが立っていません。
アベル様を愛した記憶が残っていたとしても、再会の日にどんな流れになったとしても、婚約は解消するしかないでしょう。
記憶喪失のことを明かせず再会の場に臨んだであろう私を許してくれとは言えません。
アベル様とご両親にご報告しなかったこと、深くお詫び申し上げます。
ただ、記憶がなくなったのは、神様の温情だったのかもしれません。
幸せな日記を書いた私を消すことで、後遺症でアベル様と縁が切れる私に未練を残さないようにしてくださったのでしょう。
生き残っているのは薄情になってしまった私だけです。このような女などお忘れ下さい。
マリアンヌ』
アベルは、大切な人を絶対に取り戻せないことを知った。
押し寄せる後悔と悲しみ。最後のチャンスだっただろう再会の茶会で、最愛の彼女を罵倒した。
さっきまで、会って謝ろうと思っていた。
真摯に向き合えば、マリアンヌも記憶を取り戻してくれるのではないかと思った。それほど愛し合っていた。
そんな希望が粉々に打ち砕かれた。
胸が張り裂けそうだ。
元々が敵対派閥だったアベルとマリアンヌの両伯爵家。2人の婚約が白紙になってから完全に没交渉になってしまった。
駆け出して会いに行っても、会わせてもらえないだろう。
最後に会った日でさえ、何もいい思い出を残してあげられなかった。
むしろ、記憶を失った彼女に悪い態度で悪い言葉をぶつけてしまった。
自分との空白の2年間を取り戻せないことを、それでいいと思わせてしまっただろう。
激しく後悔する日々が始まった。
アベルは次期伯爵として多くを学ぶ中、マリアンヌにぶつけた言葉を思い出しては憔悴していった。
再び婚約者を探すべき立場だけど乗り気になれなかった。
仕事をして疲れ切って泥のように眠るだけ。周囲も心配するほど、何かに取り憑かれたように仕事に没頭した。
◆◆
そうした苦悶の日々を1年間ほど過ごした頃、一通の手紙が届いた。
マリアンヌがくれたものだった。
マリアンヌと長く付き合いがある女性が直接届けてくれた。アベルが記憶を取り戻したが苦悩していると教えると、手紙を託されたそうだ。
手紙は最初は普通の社交辞令から始まった。
拝啓アベル様、から始まる挨拶。次は近況報告。
時間はかかるが、確実に事故の後遺症が改善の方向に向かっていると綴ってあった。
それから最後に会った日の事に触れてあった。
アベルは読むのが怖かった。
記憶を取り戻した自分にマリアンヌは、あの日の愚かさ、失ったものの大きさを自覚させようとしているのかと思った。
一旦は手紙をテーブルの上に置いた。
目を閉じ、頭をかきむしり、ソファーから立ち上がって部屋の中を歩き回った。
そうして30分も過ぎた頃、意を決して読み始めた。
驚きの言葉が目に入ってきた。
『あなたは何も悪くありません』
「………」
『あなたは何も悪くありません。
あの日の言葉は16歳の心に戻ってしまったアベル様に、私が寄り添えなかったから仕方がないものです。
決して自分を責めないで下さい。あなたも運命のいたずらの被害者なのです。
悔やまないで下さい。あの日のアベル様の真摯な言葉は当然のものだと思っております。
自分を否定しないでください。あなたは正しくあるため地道に努力を続けてきた人です。
幸せになることを放棄しないで下さい。あなたが大切なものを守れる人だと、あなたが愛した人も、今の私も知っています。
あなたが愛した人は知っていました。あなたが貴族として厳しい判断を下すこともあるけれど、根は優しい人であることを。
アベル様を心から信頼してくれる女性は必ず現れます。だって私の日記には、園遊会で私を助けてくれたあとも、何度も助けられたと喜びを持って綴ってあります。
きっとアベル様は誰かを幸せにできます。日記を書いた私は一緒いるだけで幸せだと、何度も何度も嬉しい気持ちを表しています。
きっとアベル様は幸せになれます。
日記帳の中の私が伝えてくれました。
アベル様を信頼していたと。
幸せにしてもらっていたと。
生涯をかけて幸せにしたいほど好きですと。
今の私は日記を付けた幸せな彼女と切り離されてしまいました。もうアベル様のお心に寄り添う術を持ちません。
だから、あなたを深く愛した女が残した日記帳は、あなたの手元に置いてあげてください。
あなたは何も悪くありません。
どうぞ幸せになって下さい。
それが今の私と、私の中にかつて存在していた女性からの願いです。
異国の空を見上げながらアベル様の幸せを祈っております。
マリアンヌ』
アベルはマリアンヌの日記帳を出して読み返した。
そこには愛があった。
「君だって苦しんで、辛い日々を送っているのだろう…。僕は君には嫌な思い出しか残していないはずなのに…。
マリアンヌ、今でも君は本当に優しい人なのだな。
励ましてくれてありがとう
本当にありがとう」
その日からアベルは穏やかに眠ることができるようになった。
◆◆◆
やがてアベルは立ち直った。
王家の勧めもあり敵対派閥の伯爵家から妻を娶ることになった。
その女性もマリアンヌのことは知っていたし、何が起こったのか包み隠さず打ち明けた。
それを知って女性はアベルを支えてくれた。その気持ちに応えるように、一生懸命に彼女を守った。
そうして信頼関係を築けるパートナーを得ることができた。
夫婦で話し、マリアンヌに何かあれば手助けするつもりでもいた。
それは杞憂に終わった。
マリアンヌも4年かかったが身体を治し、いい出会いに恵まれた。
貴族としては遅くても十分に若い。
マリアンヌは異国の地で夫となった穏やかな性格の男性に、自分が辿ってきた道を知ってもらっている。
2年間の記憶が抜け落ち、その中で霧散した愛の記録があることも。
休日の午後、一緒にお茶を飲みながら談笑していると、ふと夫に尋ねられた。
口調は柔らかい。
「だったら…。君の初恋は、前の婚約者になるのかな」
「いいえ」
マリアンヌは夫の目を見ながら微笑んだ。
「私の初恋は間違いなくあなたです。
ただ、彼を愛した女性が…存在したことも確かです」
「それなら一緒に幸せを祈ろう」
夫はマリアンヌの手に自分の手を重ねた。
「誰のために祈りましょうか」
「その彼のため。
優しい君によく似ていた、双子の片割れのような人の代わりに」




