王子「血筋が大事とか言ってるけど、この婚約、遺伝子多様性的に詰んでね……?」 婚約者令嬢「やめろ! 皆が薄々感じていた事を言うな!?」
「……君との婚約を解消したい」
夜会の喧騒より、分厚い扉一枚を隔てただけの部屋で、一人の男が口を開いた。
王宮東宮、小応接室。
普段なら王族や高位貴族が密談に使うその部屋で、第一王子レオンハルト・アルヴァインは、婚約者である公爵令嬢セレスティア・フォン・グランフェルトに言った。
「……正気ですか? 王命で結ばれた婚姻ですよ?」
「むしろ正気だからこそ言っている」
長机いっぱいに広げた羊皮紙を前に、彼は真剣な顔をしていた。
それは、家系図だった。
王家アルヴァイン。
公爵家グランフェルト。
王国創建以来、幾度となく婚姻を結んできた、由緒正しき二つの血筋。
赤い線はグランフェルト家。
青い線はアルヴァイン王家。
金の印は王族。
銀の印は公爵家。
そして、レオンハルトが震える指で示した場所には、同じ人物名が三度出ていた。
「……セレスティア。この人物、君の曾祖母だな」
「ええ」
「そして、私の高祖母でもある」
「ええ」
「さらに、こちらの分家筋では君の祖父の叔母にもあたる」
「ええ」
「……ええ、では済まないだろう」
レオンハルトは両手で顔を覆った。
「やべぇぞ!? これ!!」
「殿下。言葉遣い」
「今それどころではない!」
「それは……まあ、そうですわね」
「見ろ! この前衛芸術めいた線を! まだ王都の裏道の方が整理されているぞ!」
セレスティアは扇を開きかけ、やめた。扇で顔を隠して優雅に微笑む場面ではない。全く笑えない。
彼女は王国随一の公爵家令嬢である。
血筋、家格、教養、魔力。
どれを取っても王子の婚約者に相応しい。そう育てられ、そう信じてきた。むしろ、それを疑う方が不敬ですらある。
だが、机の上の家系図は、彼女の誇りを静かに殴っていた。
彼女の血筋は由緒正しい。
確かに由緒正しい。
由緒正しすぎて、さながら絡み合ったスパゲッティの様になっている。
「殿下」
「何だ」
「念のため確認しますけれど、この婚約は、王家とグランフェルト家の絆をより強固にするためのものですわよね」
「ああ」
「……これを見ると、その絆、もう十分すぎるほど強固ではありませんこと?」
「強固というか、絡まっている」
「言い方!」
「では、衝突事故」
「改善されておりません」
セレスティアはこめかみを押さえた。
夜会の大広間では、今頃きっと彼女を探す者たちがいるだろう。王子と公爵令嬢が揃って姿を消したのだ。噂好きの令嬢たちは、恋の密会だの、婚約破棄の前触れだの、勝手な話を膨らませているに違いない。
色っぽい話どころではない。この小部屋では、王国上位貴族社会の遺伝子プールが静かに、だが確かに断末魔の悲鳴を上げていた。
「そもそも、なぜ急に家系図など持ち出しましたの?」
「君と結婚するにあたって、将来生まれる子の継承順位や後見関係を整理しておこうと思った」
「真面目ですわね。婚約破棄を切り出す王子とは思えぬ殊勝さです」
「婚約破棄ではない。婚約解消だ。言葉は正確に使え。ついでに、母方と父方の近縁関係も確認した。軍馬の血統表を見ていて気になった」
「婚約者を軍馬から連想しないでくださいませ。私が馬面と言いたいのですか?」
「違う! 馬はな、近い血を重ねすぎると弱くなる。なら人間もそうではないかと思っただけだ」
レオンハルトは悪びれずに言った。
顔だけなら、彼は物語に出てくる白馬の王子そのものだった。淡い銀髪に青い瞳。整いすぎた容貌。微笑めば令嬢たちがため息をつく。
しかし、その中身は少し厄介だった。妙に現実主義で、割と変人。
そして、気づかなくていい地雷を踏み抜く。
「殿下。つまりあなたは、わたくしとの婚約を、軍馬の繁殖計画に照らして疑問視したと」
「言い方に悪意がある」
「そちらの方が先に失礼な事言ったんですよ」
「だが、結果として問題は見つかった」
「それは……そうですけれど」
腹が立つ。とても腹が立つ。
腹が立つのに、レオンハルトの言い分が正論なのが一番腹が立つ。正論は時に怒りを生む。
セレスティアは家系図に視線を戻した。
赤と青の線は、百年、二百年という歳月の中で何度も交わっている。
王女が公爵家へ嫁ぎ、公爵家の令嬢が王家へ嫁ぐ。
その子がまた、分家の令嬢と婚約し、さらに王家の血筋へ戻る。
それは美しい歴史のはずだった。王国を支えてきた、忠誠と信頼の証の図のはずだった。
だが、少し離れて見れば、同じ名前が何度も現れる狂気の図である。
「……殿下」
「何だ」
「この婚約を進めた場合、わたくしたちの子はどうなりますの?」
「……分からん」
「分からない?」
「分からんが、王国の未来を背負わせるには不安だ。……本人的にもあまりに重い荷物を背負わせるかも」
「それを婚約者に言いますの?」
「言わずに進める方が不誠実だろう」
「それはそうですが、もう少し情緒というものを!」
「情緒で遺伝的多様性は増えないんだよ」
「最低の正論を言わないでくださいませ!」
セレスティアは扇で机を叩いた。
ぱしん、という軽い音だけが虚しく響く。
その程度で血の濃さが薄まるなら、いくらでも叩くのだが。
「そもそもですわ。王族と高位貴族の婚姻など、どこの国でも似たようなものでは?」
「そうだろうな」
「なら、なぜ今さら我々だけが問題に?」
「今さらだからだ。今まで誰も触れずに見て見ぬふりしてきたから、ここまで積み上がった」
「……」
「それに、君の家だけではない。王国上位十家を軽く見たが、だいたい危ない」
「だいたい?」
「だいたい危ない」
「……もう少し希望のある言い方は?」
「王国貴族社会は、長年にわたり家格と血統を守り抜いた結果、見事に遺伝的袋小路へ入りつつある。……このままでは全滅も時間の問題」
「希望が一滴もありませんわ」
「……将来的にはこの国、共和制になるかもな。王に子が出来ずに王族が全滅したから、という理由で」
「皮肉を言わないでくださいまし」
セレスティアは椅子の背にもたれた。
天井を見上げる。
壁に掲げられているのは見事な装飾。王家の紋章。国の領土を踏む鷲の紋。
幼い頃から、この宮殿は憧れだった。
いつか自分は王太子妃となり、この王宮の中心に立つ。グランフェルトの血と誇りを背負い、王国を支える。そう信じていた。
なのに今、彼女の目の前にあるのは、王妃教育ではなく婚姻事故の現場検証だった。
「……婚約は、解消すべきですわね」
自分で口にして、胸が少し痛んだ。元より愛だの恋だのを語る関係ではなかった。
だが、レオンハルトは確かに婚約者だったのだ。
顔はいい。頭もいい。変人ではあるが誠実ではある。
隣に立つ未来を、まったく想像していなかったわけではない。
レオンハルトも、しばらく沈黙した。
「ああ。解消すべきだ」
「もう少し未練とか……無いんですか?」
「君に失礼なことを言っている自覚はある。だが、このまま流れに身を任せて、ダラダラ進めた方がもっと失礼だ」
「……本当に、そういうところですわ」
「どこだ」
「腹立たしいのに、誠実なところです」
セレスティアはため息をつき、家系図を丁寧に丸めた。
ぐしゃぐしゃにしたかった。だが、この紙は証拠だ。証拠を乱暴に扱う者は、改革者にはなれない。
「殿下。婚約解消の理由はどうしますの?」
「遺伝子多様性」
「却下」
「なぜだ。事実だろうに」
「事実をそのまま夜会で発表したら、陛下以下、王国上位貴族の半分が卒倒しますわ」
「では、性格の不一致」
「それも癪ですわね。わたくしたち、性格の相性は悪くありませんもの」
「そうか?」
「悪くありません。少なくとも、こうして一緒に頭を抱えられる程度には」
レオンハルトは少し意外そうに瞬いた。
その顔を見て、セレスティアは案外可愛い顔をするものだと、思わず笑いそうになる。
彼は空気を読まない。良くも悪くも。それでいて、根は真面目。厄介な男だ。
「では、何と言う?」
「互いの将来と王国の未来を慎重に協議した結果、円満に解消する。これでよろしいでしょう」
「嘘ではないな」
「ええ。真実をかなり厚めのカーテンで覆っただけです」
「君は優秀だな」
「淑女教育の賜物ですわ。こういう能力だけは高くなる」
軽く皮肉を言って、笑い飛ばした。だが、問題は婚約解消では終わらない。
むしろ、始まりだった。
「それで、殿下」
「何だ」
「この問題を見つけたのはあなたです」
「ああ」
「逃げられるとは思わないでくださいませ」
「逃げる?」
「責任から。禁忌に触れた代償。と言うのは少し大袈裟かもしれませんが」
セレスティアは丸めた家系図で自身の肩を軽く叩く。
「わたくしたちで調査しますわ」
「何を?」
「王国上位貴族の婚姻関係です。そして問題提起する」
「大騒ぎになるぞ」
「大騒ぎにするしかありません。静かに放置した結果がこれですもの。人間、少し痛くなければ改善する気が起こりません」
彼女は机に置かれた別の紙を引き寄せた。
白紙。
そこにペンを走らせる。
「まずは王家、グランフェルト公爵家、ヴァルモント侯爵家、セイレーン公爵家、オルブライト伯爵家。この五家を優先的に洗います」
「洗う、という言い方が犯罪捜査のようだ」
「似たようなものですわ」
「婚姻は犯罪ではないぞ」
「事故です。それも人災」
「人災?」
「ええ。これは長年にわたる慣習、家格への執着、プライド、政治的圧力、そして誰も家系図を直視しなかった怠慢。それらが積み重なった、王国貴族社会の大規模連鎖事故ですわ」
レオンハルトは数秒黙り、それから口元を押さえた。
「……婚姻事故」
「笑わないでくださいませ」
「いや、いい言葉だ」
「いい言葉ではありません。ひどい言葉です。ですが、正確です」
「では、組織が必要だな」
「ええ。表向きは王国貴族婚姻慣習研究会」
「裏の名は?」
セレスティアは白紙の上部に、大きく書いた。
婚姻事故調査委員会
レオンハルトが吹き出した。
「真面目に書きましたのよ」
「分かっている。分かっているが、字面が強い」
「現実の方が強いので問題ありません」
「それもそうだ」
二人はしばし、その文字を見つめた。
婚姻事故調査委員会。
あまりにも不名誉で、あまりにも必要な名前だった。
「委員長は君だな」
「なぜですの?」
「君の方が貴族社会に顔が利く」
「殿下は王子でしょう」
「こういうのは、王子が直接やると反発が大きい。公爵令嬢が家格を守るための調査と言えば、まだ飲み込みやすい」
「なるほど。わたくしを盾にするおつもりですのね」
「不満そうだな。ならこう言おう。君は盾ではなく、正面から切り込める剣だ」
「……そういう言い方はずるいですわ」
だが、悪い気はしなかった。
「では、殿下は副委員長です」
「俺が副なのか」
「ええ。婚約破棄を切り出した責任を取っていただきます」
「婚約破棄ではなく、婚約解消だ」
「細かいですわね」
「重要だ。君に瑕疵がある形にはしたくない」
その一言で、セレスティアは黙った。
この男は本当に、腹立たしい。
言うべきでないことを言う。触れなくていい場所に触れる。
だが、大事なところでケジメはつける。
「……副委員長で許して差し上げます」
「光栄だ」
レオンハルトは肩をすくめた。
「婚約者ではなくなるのに、厄介な関係になったな」
「ええ。恋人には向きませんでしたが、共犯者には向いていたようです」
「共犯か」
「改革など、だいたい最初は犯罪めいた行為から始まるのが常です」
小応接室の外では、夜会の音楽がまた一段と華やかになった。
誰も知らない。
今この部屋で、王子と公爵令嬢の婚約が静かに終わったことを。
そして同時に、王国貴族社会の家系図に赤ペンを入れる、世にも恐ろしい委員会が発足したことを。
セレスティアは立ち上がり、丸めた家系図を抱えた。
「では、殿下。大広間へ戻りましょう」
「ああ」
「今夜は円満な婚約解消を発表します」
「うむ」
「そして明日から、上位貴族の家系図を片っ端から取り寄せます」
「拒否した家は?」
「怪しいですわ」
「怪しい。監査しなければ、将来的な大事故を招く可能性がある」
二人は顔を見合わせた。
それから、同時に笑った。
恋ではない。
甘い未来でもない。
だが、これはこれで悪くない。
レオンハルトが扉へ向かいながら言った。
「セレスティア」
「何でしょう」
「君と結婚しなくてよかった」
「喧嘩を売っていますの?」
「違う。君とは結婚するより、王国を動揺させる方が向いている」
セレスティアは一瞬だけ目を丸くした。そして、優雅に扇を開いた。
「その評価、受け取っておきますわ」
扉が開く。光と音楽と、何も知らない貴族たちの世界が、二人を迎えた。
第一王子レオンハルトと公爵令嬢セレスティア。
その夜、二人は婚約を解いた。
そして翌朝、王宮の片隅に一枚の覚書が提出された。
表題は、こうだった。
『王国貴族婚姻慣習研究会・設立趣意書』
ただし、その余白には小さく、セレスティアの筆跡でこう書かれていた。
『婚姻事故調査委員会、活動開始』
その日から、王国の由緒正しき家系図たちは、眠れぬ夜を迎えることになったのであった。
読了、お疲れさまでした。これにて、本作は完結です。
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