病弱な幼馴染ばかりを優先する婚約者には、愛想が尽きましたので
「済まない、エルマ。また今日もルナの体調が」
そう言って、私の婚約者であるヴァルター・グレイシアム子爵令息は、王都で評判の焼き菓子の箱を差し出してきた。
急いで来たのか、外套のボタンが一つずれている。翠色の瞳は、早くここを立ち去りたいと語っていた。
「ありがとうございます」
「埋め合わせは必ずするから」
ヴァルターはそう言いながらすでに半歩引いていた。
背を向けた拍子に、馬車の扉が一瞬だけ開いた。私に渡した箱より一回り大きな、しかし同じ包装の箱が座席に置かれているのが見えた。
「それでは……」
扉が閉まった。馬の蹄の音が遠ざかっていく。
侍女のマリーが、怒り肩で小走りにやってくる。
「またですか、エルマ様。今月もう三度目ではないですか」
「ルナさんのお体が心配なのよ。仕方がないわ」
「それにしても限度というものが! だってエルマ様は……」
「いいから、これは皆で食べて」
ムッと口を尖らせながらも箱を受け取るマリーに休憩するよう告げて、私は一人部屋に戻った。あら、食べ物に罪はないのだから美味しく食べてね。
※※
ヴァルターと婚約したのは、私が十歳の頃だった。
二つ上の彼は背が高くて礼儀正しく、一緒に庭で追いかけっこをした。負けた方が相手の好きなお菓子を選ぶという遊びをよくした。あの頃は本当に楽しかった。
変わったのは三年前、私達が学園に入学する年のことだ。
ヴァルターの邸を訪ねると、玄関先で一人の少女が侍女に腕を支えられながら立っていた。白銀の髪に淡い紫の瞳。透けるほど色が白く、首には薄い布を巻いている。幼い頃からの幼馴染で、体が弱いのだ。
「エルマ様、ずっとお会いしたかったです。ヴァルターからたくさん伺っていましたの」
嘘のない声だった。悪意のない目をしていた。
(この子は、何も企んでいない…)
そう分かったからこそ、その後も何も言えなかった。
春の約束が流れた。夏の観劇が消えた。秋には、使いの者が運んできた菓子の箱が届いて、それで誕生日は終わった。
ヴァルターからの詫びの品だと思って受け取っていたあの菓子が、実はルナが食べてみたいと口にしたものを彼が買ってきただけだったと知るのは、もっと後のことになる。
※※
「ごめん、エルマ。ルナの体調がまた悪くて、今日はこれで帰るよ。埋め合わせは……」
もう何度目になるか分からないお決まりの言葉に、私は眉根を寄せた。
「埋め合わせはいつするの?今日は私の十八歳の誕生日なのよ」
先月新調したばかりの若草色のドレスの端を、ぎゅっと握りしめる。
浮かれながら選んだ自分を今は苦く思う。
「分かってる。でも朝から熱があって、放っておけない」
「私は放っておけるのに?」
「エルマ、そんな言い方をしないでくれ。ルナは本当に苦しんでいるんだ」
それからヴァルターは、薔薇とプレゼントと菓子の箱を流れ作業のように押し付けてきた。
「一つだけ聞かせてください。いつも持ってきてくださる菓子ですが、選んでいるのはどなたですか」
「あれか。ルナが甘いものが好きでね、食べてみたいと言ったものを俺が買ってきているんだ。エルマにも渡すようにって頼まれているから」
冷たい言葉を浴びたわけでもないのに、私は息ができないかのように立ち尽くした。贖罪のつもりで受け取っていた品が、そういうことだったのか。
ヴァルターが立ち去ってから、私は菓子の箱を開けた。中にあったのは、濃厚な生クリームがたっぷり使われた焼き菓子だった。いつもなら成分を確認してから口にする。
でもあの日は、腹が立っていた。珍しい見た目だし、まさかと思って食べてしまった。
翌朝、私の部屋から医師が出ていくと、マリーは心配そうに私の額の汗を拭ってくれた。
「大丈夫ですか」
「ええ、随分楽になったわ。情けないわね、腹が立って確認もせずに食べるなんて」
「私こそ、お止めすれば良かったのに。あまりの態度に腹が立って、一緒に食べようとしてしまいました。申し訳ありません」
がっくりと肩を落とすマリーの腕に優しく触れる。
今にも泣きそうな顔を見ながら、まだ苦しい息を悟られないように気をつけた。
喉が腫れて呼吸ができなくて、一晩中マリーと二人でいた。
「なんだ、倒れたと聞いたから来てやったのに、食い過ぎだったのか」
突然の声に扉を見れば、ヴァルターと執事の姿があった。
医師が部屋を出た時そこにいたようで、私達の話を聞いていたらしい。
苛立った顔でこちらに向かってくるヴァルターの肩越しに、申し訳なさそうに頭を下げる執事が見えた。
「ルナの朝の具合がまだよくないから俺はすぐ帰る。つまらないことで呼ぶな」
立ち去る後ろ姿を見ながら、目の前の靄がスッキリと晴れたような気がした。
そうか、私は今までこの人に何かを求めていたのかもしれない。現実を受け入れる時が来たのかもしれない。
▲▲▲▲
「ルナ、気分はどうだい」
青白い顔で俺を見上げ、不安そうに瞳を潤ませるルナの頬に手を当てる。
「ごめんなさい、また心配させてしまって」
「いいんだ。俺がいるから」
冷たい手に触れてそう言ってやると、彼女の表情がほっとする。
この瞬間が好きだった。守るものがある、というのはこういうことなのだと思う。
ルナといる時、俺は必要とされている。
エルマといる時は違う。彼女は何でも自分でこなしてしまう。書類の整理も、社交の場での立ち振る舞いも。
俺が何かしようとすると、もう済んでいることが多い。そのたびに、自分が余分な存在のように感じた。
だからといって、エルマと婚約を解消するつもりはない。ベルモンド侯爵家との縁は、グレイシアム家にとって重要だ。財政的に厳しい今、手放せる話ではない。
それにエルマは賢くて美しい。侯爵令嬢として申し分ない。俺は彼女を愛している。だから、ルナとも仲良くしてもらいたいのに。
そこまで考えて、思い至った。
そうか、エルマは嫉妬していたのだと。
そう思ったとたん、胸にこみ上げてきた優越感に口元が緩む。
あんなに凛としていたがエルマが、俺の言動で感情を乱されていたのだと思うと、なんだか気分が良い。劣等感がなくなり自尊心が高まる。
だから俺は、ますます彼女と距離を置くようになった。ルナの体調が良い時でさえ約束をキャンセルした。残念そうなエルマを見る度に、俺は愛されているんだと自信が持てた。
そんな日々が続いた頃、父から分厚い手紙が届いた。ちょうどルナの看病をしている時で、付箋のある箇所だけ確認してサインをした。どうせ大したことではないだろう。
あれ以降、エルマから手紙も誘いもぴたりと止まった。試験で忙しいのだろうと思っていた。そして学園生活も、卒業パーティを残すだけとなった。
※※
卒業パーティの会場は、学園の大広間だった。白い大理石の柱が並び、天井には大きな燭台が下がっている。給仕が銀の盆を持って行き交い、床には弦楽の音が満ちていた。
私は友人達と話していた。
今日のドレスは白。
婚約者がいる場合は相手の色に因んだ服を身につけるのがこの国の習わしだが、翠色のドレスは一週間前にヴァルターから届いたもので、どういう意図なのか分からず、クローゼットの奥に押しやったままになっている。
代わりに、この三年ずっと髪につけていた翠色のリボンだけを、今日は外した。
ふと視界に映ったのは、ルナと一緒に入ってきたヴァルターだった。
ルナは薄桃色のドレスに白いショールを羽織り、侍女に手を添えられていた。
顔色は今日も優れないように見えた。だが、会場を横切るその足取りは、思ったよりずっとしっかりしていた。
長い間見ていると分かることがある。ヴァルターの目が向いている時、彼女の体調はいつも悪かった。
「ルナ、久しぶりね。今日は体調はいいの?」
などと、近づいてきたところで声をかける。するとルナが少し驚いた顔をして、それから柔らかく微笑んだ。
「ええ、エルマ様のお陰です。先日届いた薬がとてもよく効いて、こうして来られるようになりました」
「それは良かった」
和やかな雰囲気で私とルナが会話をしているのを見て、ヴァルターが意味が分からないというように目線を私達交互に動かす。
「エルマ君はルナと連絡を取っていたのか。知らなかった」
「手紙のやり取りを少し。薬のご相談もしていましたから」
「いつから」
「ヴァルターが初めてキャンセルをした頃から、手紙は書いていたわ」
「なんだって……」
そこへ、人混みをかき分けるように一人の青年が現れた。
茶色の短い髪に眼鏡。少し人ごみに戸惑った顔で、私の隣に立つと眉を下げた。
「こんなに人がいるとは思わなかった。どこへ行っても同じ顔ぶれだから、覚えられそうで覚えられない」
「この国の卒業式はいつもこうです、エリオット様」
「なるほど」
ヴァルターの視線が、エリオットと私の間を動いた。
「この方は」
「エリオット・フォンテーヌ男爵令息。隣国からの留学生で、ルナの薬を手配してくださった方でもあります。それから」
少し間を置いた。
「私の婚約者でもあります」
「は?」
「二週間前に、父とグレイシアム子爵の間で婚約解消の書類が交わされました。写しはお手元に届いているはずですが」
「届いては……いたが。読んでいなかった」
「そうですか」
「そんな勝手なことを! 婚約破棄には正当な理由が必要だろう。俺はルナを優先していたが、それが理由なら……」
「ええ、それだけが理由ではないわ」
私は一歩だけ前に出た。声を荒げるつもりはなかった。もう、荒げるほどのものが残っていない。
「理由は、あなたのせいで私が死にかけたことよ」
「……死にかけ、だと」
「誕生日の翌日、私が倒れたのは、あなたが持ってきた菓子を食べたからです。婚約当初にお伝えしたはずです。乳製品のアレルギーがあることを」
「それは……」
「あの夜、喉が腫れて呼吸ができなくて、一晩中マリーと二人でいました。あなたは翌朝来てくれましたが、いたわりの言葉は一言もありませんでした」
「俺は……倒れたと聞いていたが、食い過ぎだと……」
「お菓子はルナが食べたいと言ったものを、あなたが買ってきていたのよね。ルナは私のアレルギーを知らなかったから悪意はない。でも、あなたは知っていたはずです。あるいは、忘れていたか」
周囲が静かになっているのに気づいた。近くにいた令嬢達が、扇の陰で目を伏せている。
ルナが静かに口を開いた。
「エルマ様のことは、後から伺いました。本当に申し訳ありませんでした」
「あなたは悪くないわ、ルナ。元気でいてね」
ルナはぎゅっと唇を結んだ後、少し目を細めてヴァルターに向いた。
「前からずっと思っていたのですが、ヴァルターはなぜ私を婚約者のエルマ様より優先したのですか。私はそんなことを一度も頼んでいません」
「それは、体が弱いから心配で……」
「本当にそれだけですか? 私には、体の弱い女の子のそばにいることで、ご自分を保っていたように見えました。必要とされることで、自信を得ていたのではないですか」
「それは……確かに、そういうことはあるかもしれないが」
「エルマ様はいつも私に対等に接してくださいました。体調の良い日に私が刺繍をすれば、本気で感想を言ってくれました。ヴァルターには感謝していますが、向けられていた哀れみの目は嫌でした」
キッと言い切るルナを見ながら、やっぱり素敵な方だと思う。私は彼女の友人であることが誇らしくなった。
「ルナ、私あなたに会えてすごく良かった」
「それは私の台詞ですわ、エルマ様」
ふふ、と笑う私達の前でヴァルターは愕然としている。そこへエリオットが静かに言葉を挟んだ。
「翠色のリボンを、今日は外しているね」
「ええ、婚約者の色ですから。もう必要ないと思って」
「ずっとつけていたのか」
「この三年、ずっと」
エリオットは少しだけ黙った後、「そうか」とだけ言った。ヴァルターがその言葉の意味を噛み砕いているような顔をしていたが、もう私には関係のないことだった。
「行きましょうか」
「ええ」
エリオットが私の手を取った。温かく、少しだけ大きな手だった。半歩遅れてついていきながら、私は一度も後ろを振り返らなかった。
※※
会場の隅で友人達と話していると、エリオットがふと私の髪に目を向けた。
「リボンを外したままでいいのか」
「婚約者の色をつけるものですから、今はつけるものがないわ」
「では」
彼が懐から取り出したのは、細い金のブレスレットだった。澄んだ茶色の石が一粒、はめ込まれている。
「俺の瞳の色だ。この国では婚約者の色に因んだ服を身につけるそうだが、隣国では婚約者に合わせた宝石を贈る習慣がある。意味は同じだろう」
「え、あの、これは」
「着けてくれるか」
人混みの中で、これを着けろというのか。困っていると、エリオットが少し首を傾けた。
「迷惑だったか」
「……迷惑では、ないですが」
「ならいい」
彼が私の手首にブレスレットをはめた。慣れない手つきで、その指先が少しだけ震えていることに気づいた。
あら、この人、緊張しているのかしら。
「似合うか」
「……まだ見ていません、着けたばかりですから」
「俺が見ているから、大丈夫だ」
「その理屈はおかしいですわ」
「大好きだよ、エルマ。早く俺の気持ちに追いついてくれ」
「……半分くらいは、追いついています」
真っ赤な顔で答えると、エリオットは少しだけ笑った。
「半分か。残りは」
「これから教えてください」
しばらく間があった。やがて彼が私の手を握り直した。温かく、さっきより少しだけ力が入っていた。
きっと近々、私は彼に夢中になる。そんな予感がした。
完。




