5 警鐘を鳴らす過去の幻影
その穴に興味を引かれ立ち上がり、側に寄ろうとした時だ。
「そこに近づかない方がいいですよ。深い穴に落ちてしまいますから」
聞こえた声に驚いて振り返ると、セオの姿があった。見知った姿に安堵する。
「セオさん。会場にいらっしゃらないから出席されていないのかと思っていました」
「少し仕事を片付けていたものですから。ロザリーさん、いつも素敵ですが、今日は一段とお美しいですよ。良かったら俺と踊ってくださいませんか?」
言いながらセオはロザリーに片手を差し出した。
普段着ている魔術師が愛用するローブ姿ではなく、舞踏会らしく正装に身を包んだ姿は中々の貴公子ぶりであり、そう言えば彼もまたどこどこの貴族の血を引いているということをロザリーは思い出した。本当だったら、彼と会話することもあり得ない身分なのだ。
「本当にお世辞がお上手ですね」
そう言うと、「本気ですよ」と返事があった。
真面目に冗談を飛ばすいつもの姿に、ふふと微笑んだ時にはロザリーの手は彼に引かれていた。頬が熱くなるのを感じる。
「待って! わ、わたし、踊りなんてできません!」
町の人とのダンスとは訳が違う。正式な踊りなど、当然知るはずがなかった。だがセオは笑っただけだ。
「リードしますから、身を任せてください」
恐る恐る、ロザリーも彼に合わせて足を動かすが、もつれ踏みつけ、やはり上手くは踊れない。これではいけないと、無理やり腕を振りほどこうとする。
「やっぱり、今日は止めておきます……! このままじゃ、セオさんの足を踏みすぎて骨を折ってしまうかも!」
しかしセオはロザリーが離れるのを許してはくれなかった。
「あなたに折られるなら本望です」
そんなことを言われるものだから、思わず閉口してしまう。
じっと見つめられる目線が、今日はなぜだか居心地が悪く感じて、ロザリーは目を逸らした。しかし、まさか常連に対して、嫌な態度を取るわけにもいかない。
今日はいつもと違うことが起こりすぎて、自分が自分ではないようだ。ロザリーは話題を変えようと、先程見つけた穴に視線を移した。
「あの穴は、木を植えるつもりなんですか?」
セオは首をひねる。
「さあ、俺にも分かりかねます。気になりますか?」
「ええ――」
話題を変えようとしたのも事実ではあるが、妙に気にかかるのも本心だった。
頭に浮かんだのは、両親の葬式だ。墓石の前に、棺を入れるためのあのくらいの大きさの穴が掘ってあった。
(まるで人の遺体が収まるのに、ちょうどよい大きさの穴だわ……)
そこに棺が納められている想像までした時だ。
首筋に、冷気がかかったようなぞわりとした感覚があった。
――思い出して。
はっとして足を止めた。セオも怪訝な顔をして動きを止める。周囲の空気が突如として遠ざかったような気がした。
「どうされましたか?」
「今、誰かの声が――」
――あなたはまた、彼に殺されるわ。
耳のすぐ近くで聞こえた声に、驚いてロザリーは振り返る。
そこには青ざめた顔のオフィーリアの姿があった。
◇◆◇
アルフォンスはいい加減辟易していた。このところの己を取り巻く後継者問題についてである。
後継者ならば既に目処は立っていて、それを近しい者には伝えているにも関わらず、直系の子が必要だとしきりに主張を繰り返すばかりだ。それはアルフォンスの母方の血が、自国の貴族のものであるためだ。アルフォンスが後継にと考えた者は、異国の血の混じる者だった。
――王たる素質は、血によるものではなかろうに。
アルフォンスはそう考えていた。
ならば舞踏会を開いてはどうか――とある男が言い出した。そこで相応しい娘を選び妻とすればいいのだと。馬鹿げた話だと一蹴しようとしたが、アルフォンスは思い直す。いい考えかもしれない。それで周囲の溜飲も幾ばくか下がるだろう。
だが実際には后を選ぶつもりはなかった。
舞踏会は今回で五度目だが、そのいずれにも側近を自分に変装させ会場に送り込んでいたため、アルフォンス自身は出席したことはなく、妻など選ぶ気は初めからなかったのだ。ここまでして后を選ばないとなれば、皆も次第に諦めるだろうと、そんな風に考えた。
誰が招待されているか興味もなく、誰もが己に近しい者を后として推すことに躍起になり、めぼしい娘を擁立し参加させているだけのあの場には、ますます行くつもりはなかった。それは今宵も変わらない。そのはずだった。
だが――。
先程出会った少女が、妙に気にかかる。
(あの少女は、なぜ一人であの場にいたのだろう)
いつしか白薔薇庭園と呼ばれるようになったあの一角は、庭の中でも深部に当たり、外部からは高い垣根で隠されていたため、まず人が入っては来ない場所であり、だからこそアルフォンスもそこに身を隠したのだ。とはいえ完全に遮断されてはいないのだから、人が立ち入らない可能性が全くないわけでもなく、彼女がそこに不法に侵入したと疑ったわけではなかった。
アルフォンスが彼女のことを気にしたのは、以前、同じように薔薇を見ていた人がいたためだ。
――同じ仕草、同じ表情で、憂いを帯びて、淋しげで、美しく。
少しも似てはいないのに、なぜか彼女と少女の姿が重なり、誘われるように思わず声をかけた。
(我ながら未練がましい――)
庭を横切り自室へと向かいながら、アルフォンスは小さく苦笑した。“彼女”の面影を、今もまだ探しているとは。
彼女と過ごしたのは十七年も前の話で、言ってしまえば思い出だ。だが、ふとした瞬間に、今も彼女の姿を探してしまう。
十七年前に、彼女と交わした会話は多くはない。
あの人が何を思いあの薔薇を見つめていたのか、その胸中を、ついにアルフォンスは知らないままだった。
(オフィーリア――)
その名を唱えるだけで胸に広がる愛おしさは、いつしか後悔と重なり、執念となって渦巻いた。自分でも止めようがないほどに、未だ覚めぬ熱だった。
舞踏会はまだ続いているようで、音楽は止まない。だが広い王宮の中では、微かに遠くから聞こえてくるだけだ。
自室の手前の書斎に入ったところで、扉が叩かれた。側近の一人がやってきて、囁いた。
「陛下、招待客の一人が倒れたようです。部屋を使っても構いませんか?」
アルフォンスは眉を顰める。
「勝手に使えばいいだろう。いちいち許可を求める話でもあるまい」
平素、かような催しの際にはいくつか部屋は開かれており、皆自由に使用していた。側近は返事をする。
「ええ――しかしワイルズ様がお伝えして欲しいとおっしゃったので」
アルフォンスは宮廷魔術師の顔を思い浮かべた。あの男がわざわざ伝言を頼むとは、言外の意図があるのだろうか、と思いながら。
「彼が? ――構わないと伝えてくれ」
アルフォンスの返事を聞いた側近は、最後にこう付け加えた。
「それから伝言がもう一つ。その招待客が倒れたのは、白薔薇庭園の一角とのことです」