3 混濁する前世
だがパーティを楽しむ――なんてことは出来なかった。それどころではない混乱が、ロザリーを包んでいたからだ。
両手を胸の前で固く結ぶ。
アルフォンスを見て走馬灯のように蘇った記憶の一部は、確実に過去あった出来事なのではないかという疑念が拭い去れない。
言うならば、前世のように。思った瞬間、打ち消した。
(前世なんて! まさか、あり得ないわ、そんなこと。わたしは現実主義者でしょう?)
頭でそう否定しても、体は恐怖に震えていた。怯えるのもおかしな話だ。仮に前世だったとしても、今の記憶の中に恐怖させる思い出はなかったはずだ。
(なぜ怖がるの? わたし、本当にどうかしてしまったのかしら)
第一、今の記憶にはおかしな点がある。アルフォンスがオフィーリアを深く愛していたということは、国中の誰もが知るところで、だとすれば先程の記憶のように姫が孤独であっていいはずがない。
ならばやはり、妄想だ。
考えを振り払うように、頭を横に振った。ふと窓ガラスに映った自分が目に入り、オフィーリア姫とは似ても似つかない容姿を見た。
本の挿絵でも見たことがあったが、オフィーリア姫は類稀なる美貌を持っていた。彼女は夜を溶かしたような黒髪に、アメジストのような深紫の瞳をしていたが、ロザリーは薄ぼんやりとした桃色の髪に、これまた地味な栗色の瞳をしていた。スラリと背が高かったオフィーリアに比べると、ロザリーは背も低く、これといって人目を引く目立つ特徴は持ち合わせていないと自負していた。
だから、美貌の姫オフィーリアと自分を重ねることなど烏滸がましいことだ。先程の記憶はようやく遠ざかり、ロザリーは自分を恥じた。
きっと慣れないパーティで、疲れてしまったに違いない。そういう風に考えた。
(少し、外の風に当たって来よう)
声をかけると言ってくれたセオの姿も見つからず、この場にいても様子のおかしさを周囲に見せつけるだけだと思い、ふらふらと、ロザリーは広間を後にした。
王宮の庭は広く、そこかしこに手入れがなされた花が咲き誇っていた。夕闇をとうに越え、辺りは夜に包まれる。
時折、同じようにパーティを抜け出した人の姿があり、会場から漏れ聞こえる音楽を背景にして、穏やかな時間が流れていた。
歩いているとロザリーの心も落ち着き始め、振り返って会場を見た。
細長い窓ガラスの人々は、おもちゃのドールハウスの中にいる人形のようで、こうして遠目から眺めているとロザリーとは住む世界が異なる住人のように思える。
(実際にそうだわ。ドレスだって、常連の方から貸していただいたお下がりを少し直しただけだし、どう考えてもわたしは場違いなんだもの)
自然と、視線はアルフォンスを探していた。
(陛下はどなたと踊ってらっしゃるのかしら)
彼はすぐに見つけることができた。異国から招待された姫と踊っている姿が見える。あれは確か友好国の第二王女で、教養も身分も美貌も高く、穏やかな性格で、結婚相手は引く手数多だという女性だ。
なんだ――とロザリーはほっと息を吐いた。
「陛下のお相手はもう決まっていらっしゃるのね」
きっとこの舞踏会は、アルフォンスと彼女を引き合わせるために開催されたものに違いない。そう考えると、幾分心が楽になった。よもや自分が王の伴侶に選ばれるなどとは考えてもいなかったが、完全に候補者から外れると思えば幾ばくか足取りも軽くなる。
そのままロザリーは庭を歩き続け、ふとある場所で足を止めた。むせ返るような濃密な甘い香りがした。
「ここは……」
平民のロザリーは、当然ながら王宮に来たことなど一度もなかった。にもかかわらずこの場所を知っている。この場所は、この庭は――オフィーリアが心を慰められた庭ではなかったか。
一面に咲き誇るのは、純白の見事な薔薇だった。
(ああ、なに、この感情……)
胸が焦げ付くような懐かしさがロザリーを襲った。
吸い寄せられるように薔薇の一輪に顔を近づけ、匂いを吸い込む。瑞々しい香りが胸の中に広がった。
――あなたと話していると、時間が溶けていくようだ。もっと話を聞かせてくれ。
突如、耳に楽しげな男の声が響いた。
驚いて目を開くと、目前に、昼間の庭園の幻想が現れた。
オフィーリアの目線の先には、腕が触れそうなほどに近い距離で、仲睦まじく歩いている若いアルフォンスと頬を染めた公爵令嬢の姿がある。そんな二人を見て、オフィーリアはただ立ち尽くすことしかできなかった。
――わたくしだって彼を愛しているのに。
だがそのあまりにも身勝手な言葉を、口に出して言うことはできなかった。
ふいにアルフォンスがこちらを振り向きそうになり、オフィーリアは慌てて薔薇の木の陰にしゃがみ込んだ。彼の婚約者は自分だから、二人の逢瀬を見てしまったことに罪悪感を抱く必要などどこにもないのに。
オフィーリアの瞳から涙がこぼれ落ちそうになり、慌てて拭った。泣くなどと、はしたないことだ。
それでも胸が張り裂けそうなほど痛み、オフィーリアは両腕で自分を抱きしめた。孤独は、幼い頃から感じていた。親友のように、もう慣れ親しんだものと思っていたのに。
――どうしたんだい?
ふいに目の前に現れたその人は、オフィーリアに優しく声をかけた。
「白い薔薇が好きなのか」
聞こえた言葉に我に返ったロザリーは、ぎょっとして声のした方を振り返った。今の声は幻想ではなく、現実として聞こえた声だった。