19 愛しい人へ、さよならを
命には命を――その文面が、頭の中をかき乱す。
嘘だ、と思いたかった。自分の命に、そんな価値はない。だがアルフォンスは、ロザリーの疑念を確信に変えた。
「一人が死にかけていて、一人は命を差し出し死んだ。二人を生きながらえさせるためには、もう一つの命が必要だった。
セオのことも君のことも、諦めることはできなかった。あの時、君の命はまだ完全に消えていない状態で、セオが反魂の魔術を実行していた。そこに私は希望を見た。セオの肉体を修復し、彼の魂を戻した。反魂の術ではない、単純な医療魔術だ。結果として、ジルヴァの魂を引き剥がされ、セオは完全な状態で命を繋ぐことができたが――そうなると、君を生かす命が足りない。
……対価は、私の命だ。といっても今は生きているのだから、削られたのは残量の方だろう。君は死にかけてはいたものの、まだかろうじて生きてはいたからな。
だから、元々どれほど生きるはずだったのかは知らないが、私の寿命を君に渡した」
ロザリーは言葉も無く立ち尽くした。ドレスや靴の贈り物とは訳が違う。もっと遥かに大切なものを、アルフォンスはロザリーにくれたのだ。
心が事実を受け入れがたく、両目から涙が溢れた。
様子に気がついたアルフォンスは目を見張り、躊躇いがちにロザリーの頬に触れ、涙を拭う。
「驚かせてすまない、どうか泣かないでくれ。君に泣かれると、どうしていいのか分からなくなる」
自分の寿命を渡したという告白はあれほど平然と行ったにも関わらず、涙を流すロザリーを前にして、アルフォンスは動揺していた。
次いでアルフォンスの指先が、気遣わしげにロザリーの胸元に触れた。セオの剣が貫いた場所だった。
ロザリーの涙が、彼の手を追うようにしてその場所に落ちた。一雫が彼の手に落ち、彼はそれを口に含んだ。
「彼女がなぜ死んだのかを知った時、まるで自分が無価値な空洞になったように感じた。憎むままに、彼女に呪いをかけた彼女の祖国を滅ぼした。憎悪だけを糧に生きていて、その生き方が間違っているとは少しも思っていなかった。だが君が私の前に飛び出した時――私は己の生き方の間違いを知った」
「わたしは、ただ、ただ……あなたに生きていてほしくて」
「ああ、分かっている。それは私も同じだ。私が選んだことだ。
愛する者達が掌からこぼれ落ちていくのを、ただ黙って見ていることはできなかった。二度と失いたくはなかった。それは君も同じだったのだろう? だから君は、あの時、割って入ったんじゃないのか」
その通りだった。言い返す言葉もなく、両手で自分の涙を拭った。
「君が私を救ってくれた。二度と見ることはないと思っていた光で、君が私を照らしてくれた」
光をくれたのは、アルフォンスの方だとロザリーは思った。
「取り乱して、ごめんなさい」
ロザリーはなんとかそれだけを言った。頭ではまるで別のことを考えていたが、それだけが今この場で言うべき最良の言葉に思えたからだ。
ようやくアルフォンスは笑った。悲痛な笑みではなく、幼い頃のような屈託のない笑顔で。
愛する人を失いたくないという願望は、オフィーリアもロザリーも持っていた。彼も同じだったのだ。
(オフィーリアの記憶が断片的で曖昧だったのは、ジルヴァに壊されていたまま転生してしまったから……。それでもアルフォンス様に伝えたくて、自力で思い出したんだ。アルフォンス様を、とても深く愛していたことを、どうしても伝えたくて)
不規則な呼吸を整えてから、ロザリーはアルフォンスに向かい合った。
「オフィーリアは、あなたを愛していました。あなたと過ごしたあの日々は、彼女の人生で、最も幸福な時間でした。それをあなたに、どうしても伝えたかった。
そうして伝える幸運を得ました。だからもう、彼女に囚われなくていい。あなたの時間を、生きて欲しい」
ロザリーの目線では、オフィーリアとして並んでいたときよりも更に、アルフォンスとの背の高さの違いが目立つ。だがロザリーは精一杯背筋を伸ばして、アルフォンスの前に立った。少しでも彼に近づくために。
(わたしは死んだ。アルフォンス様を縛り付ける権利なんてどこにもない。だから、なんの憂いも不幸もなく、自由に、そうして幸福になってほしい――)
覚悟を決めて、ロザリーは言った。
「陛下……。陛下にとっては、残酷なことかもしれません。けれどわたしは、彼女ではありません。魂が同じだったとしても、彼女にはなりえないのです。わたしはオフィーリアという、美しく可憐なお姫様ではなくて、ロザリー・ベルトレードという名前の、単なる町の書店の娘です」
それはある意味で真実だった。オフィーリアとロザリーは、自分の両親と、自分の友人たちを持つ、別の人間だ。
温かい家族と親切を知っている。別の思い出を持っている。そうして別の生き方を選ぶ、別の人間だった。
だがこの時こうして口にしたのは、オフィーリアが十七年前にかけた呪縛からアルフォンスの心を解き放ちたかったからだ。
「オフィーリアには、なれません」
そうか――とアルフォンスは言った。
ロザリーは言葉を重ねなかったが、そうか、と再び彼は言った。自分を納得させるかのように。
別れの時が来たと、互いに感じていた。どれほど美しかったとしても、夢はいつかは覚めていく。
アルフォンスはロザリーに尋ねた。
「君は今、幸せか」
「はい」と、ロザリーは答えた。
「家族には恵まれているか」
「はい」と、ロザリーは答えた。
「生活に困ることはないだろうか」
「はい」と、ロザリーは答えた。
「日々を楽しめているのか」
「はい」と、ロザリーは答えた。
答えを聞いたアルフォンスは、ほっとしたように笑った。
「そうか。なら良かった」
その切なげな笑みから、ロザリーは目を離せない。
「分かっては、いた。彼女はもう、死んでしまったのだから。
それでも私は、君に惹かれていた」
「はい、わたしもです」
素直な気持ちを、ロザリーは答えた。
「君を愛している」
掠れる声で、ロザリーは答えた。
「……はい、わたしも、です」
そうしてオフィーリアも、アルフォンスを愛している。
「君の幸せを、いつまでも願っている」
ロザリーの声は、喉に詰まる。
「はい……わたしも、です」
アルフォンスは幸せにならなくてはいけない人だ。もう不幸は十分に与えられたのだから。
「さようなら、愛しい人。どうか幸せに――」
それが別れの言葉だった。
いつかの記憶のように、アルフォンスの唇が、ロザリーの額に触れた。
温かく、愛おしく、大切なキスを、ロザリーは生涯忘れない。
◇◆◇
数日後、ロザリーの元に一通の手紙が届いた。
差出人は、セオ・ワイルズ。あの夜以来、彼はロザリーの前に姿を現していなかった。
中を開くと文面は、アルフォンスが語ったことと相違ない事実が羅列され、己の弱さの謝罪と後悔と、それから詫びと、詫びと、ただひたすらの詫びが続き、最後にひと言、遠地へ行くと書いてあった。
返事を書いたが、それに対する返答はなく、また日々は過ぎていった。
そうして数週間が経ったある日、ロザリーの営む魔導書店に、今度は差出人不明の花束が届いた。
「――彼女への弔いに」
その言葉だけが添えられていた。
それはとても見事な白い薔薇の花束だったため、書店を訪れた者は皆、ロザリーに尋ねた。
“あんなに綺麗な薔薇を、誰があなたに贈ってくれたの?”
ロザリーはただ微笑むばかりで、送り主を答えることはなかった。その実、誰から届いたものかは、きちんと知っていた。
ロザリーはその白い花束を太陽の日差しが一番よく当たる窓辺に置いて、時折眺めては微笑みかけた。
愛しい人へ伝える、愛の言葉に代えるように。
ロザリーは、その白い薔薇が枯れるまで、世話をし続けた。花が朽ち、葉が落ち、茎がへたり窓枠に垂れるまで、いつまでも大切に世話を焼き続けた。
そうして最後の一本が枯れ果てた時、再び花束が届けられた。
ロザリーは同じように世話をして、そうしてそれが枯れる頃、また花束が届けられた。
またロザリーは同じように世話をして――また枯れる頃に、以前と同じように花束が届けられた。
そうしてそれを、また同じように世話をしようとした瞬間、耐えきれず、ロザリーは外へと飛び出した。




