12 死人の帰還
――来るべきではなかったのかもしれない。
再び馬車に揺られながら、ロザリーはぼんやりとそう思った。前世のことを知りたいという一方的な思いで、またしてもアルフォンスの心を踏み躙ったのだ。
ロザリーは疲弊していた。馬車のガラス窓に映る、青ざめた顔の赤い目をした自分の姿は、生きていながらも、さながら亡霊のようだった。
見送りを申し出てくれたセオが沈黙を貫いてくれているのをいいことに、目を閉じる。
(もう、前世ごっこは終わりにしよう。明日の舞踏会には行かない)
そうして忘れてしまうのだ。オフィーリアのことも、アルフォンスのことも、記憶の奥に封じ込めて、ロザリーはただの町娘に戻るのだ。
――思い出すのよ。守るために。
「何を……? 何を守るというの」
セオが隣にいるのも忘れて、頭に響く自分の声に、ロザリーはそう呟いた。限界のように感じていた。
心が疲弊し、思わず目を閉じた。すると瞼の奥に風景が浮かんだ。
(いや……。見たくないわ)
わずかばかりの抵抗はなんの意味もなく。ロザリーの目前には、またしても現実とは異なる世界が現れた。
遠い山脈にはうっすらと雪が積り、草原がどこまでも広がっていた。幼い自分は、両手に見事な白い薔薇の花束を抱えている。庭で咲いたものを、母と一緒に摘み取ったのだ。棘を抜いて、花束に仕立てた。
ロザリーは思う。
(わたしは、この景色を知っているわ)
王都での生活よりも遥か昔――まだオフィーリアの母が存命だった頃の思い出だった。
当時、父は愛人を后にしようと画策していて、母とオフィーリアを遠地へと追いやった。既に父と愛人には子供がおり、待望の男児もいたことから、母は遠からず離縁されるのだろうと、幼心にオフィーリアにも分かっていた。
それでも、生き延びるために自分の感情を押し込めるしかなかった城での暮らしよりも、この田舎で美しい自然に囲まれた生活の方がオフィーリアの心に馴染む。
(それに、この地には大好きな人がいたんだもの)
オフィーリアはその彼に渡すために、花束を作ったのだ。
領地内に建てられた別宅に、いつの頃からか彼は住んでいて、年も近く仲良くなった。
名前は知らない。彼自身も、母も、使用人の誰も教えてくれなかったからだ。だが名前など些細な問題で、オフィーリアにとっては彼がそこにいてくれさえすれば良かった。
別宅の門を叩くと、少年が笑顔で出てくる。花束を渡すと、少年は嬉しそうにオフィーリアの額に口付けをしてくれた。
柔らかな海の色をした瞳と、太陽の光のような金色の髪がオフィーリアはとても好きだった。
ロザリーは目を開いた。
始め、それはオフィーリアが度々見せる過去の幻影かと思われた。だがそうではないと、ロザリーは思った。
いうなれば彼女の見せる過去が遠因で引きずり出された、単なる記憶だ。ロザリーの魂が覚えているだけの思い出だった。
面影がある。あの少年は。
彼は幼少期、遠地へと退避していたと聞く。
オフィーリアの母は、我が身と我が子を守るために、後ろ盾を欲していた。
愛していた。幼い頃から、寸分も変わらずに。
ロザリーの中で、無意識に解が出来上がっていく。
(オフィーリア……)
ロザリーは、過去の自分に問いかけた。
(愛していたのなら、何故裏切ったの? 何故彼を、殺そうとしたの)
ナイフを握りしめ、震えながら決意を固めていた彼女の記憶を思い出す。殺さなくてはならないと、そればかりを考えていた。
疑問の投げかけに返事はない。だが一方で、ロザリーの胸の中で引っかかる何かがあった。
これで終わりにして、本当にいいのだろうか。
そもそもオフィーリアは、どうして現れたのだろう。ロザリーに、何を知らせるつもりだったのだろう。
(何かを見落としているというの? ……前世のことを考えるのは、とても辛い。だけど)
だけど、考えることを放棄しては、たちまち闇に飲まれてしまう。またしても、大切なものを不幸にしてしまうのでは。
オフィーリアは、何を守れと言っているのだろう。今世で生まれ変わった自分の命か? それとも――。
そこまで思案していた時、唇に何かが触れたような気がして、ロザリーは薄目を開いた。そしてあり得ないほど至近距離にあるセオの顔にぎょっとして体を逸らした。
まさか今、キスをされた?
(嘘でしょう?)
セオの体はロザリーの方に大きく乗り出していて、馬乗りに近い体勢だ。危険を感じ身を捩るが、のしかかられては動けない。
狭い馬車の中では逃げ場がない。いくら女性に慣れている人だからといって、セオがロザリーの体に無断で触れたことなどなかったというのに。
身じろぎひとつ、ロザリーはできなかった。それでも冷静を装って、彼に尋ねる。
「……セオさん? 何をしているんですか。どういうつもり?」
セオの目はロザリーを見つめながらも虚空を見つめているかのように朧げだ。そうして発した声は、彼のものではなかった。
「知っているかいロザリー。前世を信じる者達の中には、衣を変えて再び巡り会えると盲目的に思う奴がいるのさ。君の魂を転生させたのは私だが、こうしてまた見つけられることを信じていたよ。私の方も、君とやり方は違うがまた復活することができた。完全なる同化を遂げたよ」
暗く、低く、地の底から響いてくる声のように思えた。
(――セオさんじゃない!)
ロザリーは目を見開いた。寒気が体を覆う。
「セオ・ワイルズは才能溢れる男だが、気性が柔い。だから力を望み――そうして得た。私の野心とこの男の才があれば、不可能なことなどなにもない」
「あなた、誰なの?」
目の前でセオの形をした人物は、口の中でくっくと笑った。
「分かっているだろう? また、口づけをしてくれないか?」
逃げなくては! そう思い、動く馬車の扉を開こうとするが錠は外したのにビクともしない。
セオの口から吐息が漏れ、首筋に唇が当てられた。ぞっと背筋が凍りつき、嫌悪にロザリーは泣き叫んだ。
「助けて! 馬車を止めて!」
言葉は馬の手綱を握る御者に言ったが、馬車が止まることはない。
「無駄だロザリー。聞こえていないさ」
顎を捕まれ、強制的に唇が重ねられた。愛のある口付けとは程遠く、支配と暴力しか感じない。
(ふざけないで!)
怒りと羞恥を覚え、渾身の力を込めてセオの唇をガリリと噛んだ。口の中に、たちまち血の味が広がった。
だがこの抵抗はわずかながらも効果はあった。セオはロザリーから体を離し、口元を舌でぺろりと舐めた後、冷酷な目で見下ろす。
「残念だよ、昔のあなたは純真無垢そのもので、私の術に簡単に嵌る、従順で素直な可愛い少女だったのに。
まあ、問題ないさ。初めはオフィーリアも、泣いて嫌がったものだが、すぐに私のものになってくれた。彼女はとても孤独だったから、精神介入は容易い。美しく、哀れで、愛おしい駒だった。私とまた、新たな愛を育もうじゃないか?」
この男が、誰であるか気がついていた。だが信じたくはなかった。とうの昔に死人となった男が、今再び現れたなど。
「あなたは、ジルヴァ様……!」
理由も方法も少しも分からないが、目の前にいる男はあの優しいセオではなく――信じ難いことにあの邪悪な魔術師ジルヴァの魂だった。




