10 罪悪の口付け
夢は見なかった。いい夢も、悪い夢も、オフィーリアの夢も。
目を覚ました時、昨日と同じように、ロザリーはベッドの上にいた。昨日と異なるのは、部屋にセオはおらず、ベッドの脇に椅子を置いて座るのがアルフォンスだけだということだ。
状況を察知したロザリーは飛び起きた。飛び起きた勢いで、再び目が回りそうになる。それでもなんとか声を絞り出した。
「陛下、申し訳ありません! 本当に、本当に、ごめんなさい!」
目の前の男に、必死で頭を下げ続ける。部屋が薄暗くて良かったかもしれない。ロザリーはひどく青ざめていただろうから。
アルフォンスは、ロザリーを静かに見つめる。
「君はよく倒れるな。あるいはそれも、私の気を引く手の内か?」
何を言われているのか分からずに、ロザリーは反応ができない。
「誰かが君を差し向けたのではないか。私の気を引き、妻にするために」
とんでもない誤解をしている。否定しなくては、と言葉を探しているうちに、再びアルフォンスが口を開いた。
「だがそれもおかしな話だ。差し向けるにしても、君のように後ろ盾がなく、どの勢力とも関わりがまるで見えない娘を連れてくるだろうか。年も離れているしな。だがそれさえも差し金なのか」
目はロザリーに向けられているにも関わらず、まるで独り言のようなつぶやきだった。
(疑り深い人だわ! 昔はもっと真っ直ぐな方だったのに)
と、思わずにはいられない。
だがそれも仕方のないことかもしれない。婚約者に裏切られ、意中の人は家族の謀反により追放された。十七年という時の流れがアルフォンスの心から光を奪ってしまったのかもしれない。
なおもアルフォンスはロザリーを凝視する。薄明かりの中でも、その輝くような瞳ははっきりと見て取れた。
「君は私を見てひどく怯えているのに、時折旧知の仲のような眼差しをする。迷い子のように瞳を揺らしたかと思えば、次の瞬間には一切の感情を伏せ、目を逸らす。そのたびに、私は戸惑う。君は一体、何者なんだ? どこから来た。なぜ、私の心に入り込む」
そんなつもりはまるでなかった。
「わたし、は」
答えようと彼を見た瞬間、唇が重ねられていた。
驚き身を引くが、彼の腕が体に回り、逃れることができない。
(わたし、キスをしているわ――)
この先に進んではならないと、頭のどこかで警鐘が鳴らされていた。それでもこの瞳に絡め取られては動くことができなかった。
長い口づけが終わり唇が離された時、やっと呼吸が許される。息を吸い込んだ後で、弱々しく、ロザリーは言った。
「だめ、これ以上は……」
言葉を遮るように、再びの口づけがあった。存在を確かめるかの如く、強い口づけが何度も何度も繰り返される。
ロザリーの両目から涙がこぼれる。彼に触れて嬉しくて堪らないのに、罪悪感が胸を締め付ける。歓喜と同時に、正体不明の闇が迫る。
(心が千切れてしまいそう)
これが自分の心なのかオフィーリアのものなのかさえも、ロザリーには分からなかった。
「泣くな」
ふいに体が自由になり、頬を流れる涙を、彼の手が拭い去ったのが分かった。
「泣かないでくれ」
ロザリーは、幼子のようにすすり泣いていた。アルフォンスは目を伏せる。
「無理強いをしてすまなかった。今日は帰りなさい。また馬車を用意させよう」
言うとアルフォンスは立ち上がる。ロザリーの混乱は頂点に達していた。彼を呼び止めなくてはとそればかりを考えていた。口付けに傷ついたわけでは決してないのだと、むしろとても嬉しかったのだと、伝えなくてはならない。
「アルフォンス、さま――。前世を、し、信じますか?」
泣きながら、ロザリーはベッドの上から半身を乗り出した。口を突いて出たのは、そんな台詞だった。目の前のアルフォンスが、不可解そうに眉を顰めたのが分かった。
このまま、一切を打ち明けてしまおうか。彼にすがって、自分はオフィーリアなのだと言ってしまえたら楽になるのだろうか。あなたを心から愛しているのだと、そう告げたら、この胸の内の苦しみも無くなるのだろうか。いつの間にかロザリーとオフィーリアの心は境界を無くし、溶け合っていた。
「いえ、忘れてください――」
だがそんな勝手が許されるはずがない。それだけ言い残すと、退席の挨拶さえできずに、ロザリーは逃げるようにその場を後にした。




