1 前世――オフィーリア姫
「白い薔薇が好きなのか」
オフィーリアが宮廷の庭に咲く見事な花を見ていた時、そう声をかけてきたのは、婚約者のアルフォンスだった。
一人で王宮の庭を歩いていたオフィーリアは、突然現れた彼に小さく驚嘆の声を漏らし、思わず一歩後ろに下がる。まさか彼がいたなんて、思いもよらなかった。
「花を見て笑っていたように思えたから――。驚かせてすまなかった」
そんな彼女の様子を気にかける風もなく、アルフォンスはさらに近づいた。確かに花は好きだった。とりわけ白い薔薇は、母が存命の頃によく部屋に飾っていた花だった。
「一人か。侍女はどこにいる」
一人でいることなど、自国では慣れたものだったが、この国では物珍しく映るらしい。
(わたくしに近寄ろうとする者はおりませんから)
そうは言えずに、浮かびかける憂いを表層に出さないように努めながら、オフィーリアは微笑み、本音とは別の答えを告げた。
「わたくしが一人でいたいと皆に伝えたのです」
「……そうか」
アルフォンスはそう言うと、わずかに目を伏せた。絵画でのみ見たことのある柔らかな海の色をした瞳を、密度の高い金色の睫が憂い深く覆っている。これほど美しい人間は、物語の中にさえいないだろうとオフィーリアは常々考えた。
「すまないと、思っている。貴女に窮屈な暮らしを強いていることも、望まぬ結婚を強いてしまったこともだ。せめて心安まる日々を過ごさせてやりたいが、しばらくはまた窮屈な思いをさせてしまうだろう」
にこりと、微笑みだけでオフィーリアは応じながら、胸の内では他のことを考えた。
望まぬ結婚と、窮屈な思いをしているのは――。
(それは、アルフォンス様の方なのでしょう……?)
彼の想い人が他にいるということを、オフィーリアは知っていた。
敵国から嫁いできた望まぬ姫の前では、人は驚くほど残酷で、いかにその人とアルフォンスが愛し合っていたかを語ってみせ、時には悲恋に涙を流すこともあった。
その人とは、公爵家の令嬢だった。
アルフォンスが幼い頃に世話になった家の娘と言われていて、だとすれば幼馴染みであり、器量も教養もあり、誰が見てもお似合いの二人で、国中が二人の恋を望んでいた。事実、オフィーリアが現れるまでの婚約者であったという。
仲睦まじく寄り添う二人は、誰しもの憧れの的だった。それを引き裂いたのが、敵国より嫁ぎにやってきたオフィーリアだった。
この国からすると、オフィーリアの祖国は数十年もの間断続的に争乱を繰り返してきた国だった。だが中立国の仲裁により先の戦争が終結した際、和平のため、オフィーリアの輿入れが決まった。アルフォンスの父王が取り決めたことだった。
(この国では、誰もわたくしを歓迎していない……。知っていたことなのに)
オフィーリアに価値などない。幸福など夢のまた夢だということは、幾度となく思い知らされて来た。夫となるアルフォンスさえも、他の女性に心を残したままだ。
オフィーリアは両手を小さく握りしめる。
(何を悲しんでいるの? 当たり前のことだわ)
婚約が嫌だと言ったところで、父はオフィーリアの意見など聞き入れはしなかっただろうし、道具のように過ごしてきた十五年間は、従順であることこそ唯一の生きる道だった。
敵国に嫁ぐことに内心怯え、恐怖を抱いていることを、悟られてはならなかった。
感情を抑え、改めて婚約者を見た。美しい人だと、オフィーリアは思う。
アルフォンスの肩まで伸びた金髪は陽光を浴びて透き通り、陶器のような肌に纏わり付いていた。高い鼻梁も、薄い唇も、宝玉のような瞳も、まるで幻想の世界から飛び出して来たかのように完璧に思えた。
この国は、最も優れた王子を和平の犠牲にしたのだ。
だが一方でオフィーリアの方は事情が異なっていた。
オフィーリアは、先の妃が産んだ娘だった。父と母の間に愛情はなく、母の死後すぐに、父は愛人を妻として迎え入れた。既に二人の間には、五人の娘と三人の息子が存在していた。
幼い頃から、半分だけ血の繋がったきょうだい達に召使いのように扱われ、いかなる祝賀の場にも、いかなる公の場にも、同席することは許されなかった。持っていた財産も土地も、現王妃の子供達のために取り上げられた。
アルフォンスが現れる前までのオフィーリアの嫁ぎ先は、三十も年の離れた異国の王族の後妻の予定だった。言ってしまえば、厄介者で、疎まれた姫だった。
見た目もそうだ。誰もが感嘆の声を漏らすほど美しいアルフォンスに、虐げられ痩せ細った醜く地味な自分が寄ることさえ、悍ましいことのように思えた。
釣り合わない婚約だ。
祖国は和平を望んでいないことを、オフィーリアを寄越すことで示していて、それをこの国はよく知っていた。アルフォンスも、言葉に出さないまでもそう思っているのだろう。
アルフォンスの指が、気遣わしげにオフィーリアの頬に触れかけた瞬間、弾かれたように彼の視線が遠目に向けられたことに気がついた。
目を向けると、庭園の奥に、件の公爵家令嬢の姿が見えた。
こちらに気付くと深々と儀礼通りの完璧な挨拶をしてみせる。
アルフォンスは彼女に小さく微笑みかける。その切なそうな笑みに、オフィーリアはどうしようもなく泣きたくなった。
――まだ、愛してらっしゃるのだわ。
いっそのこと、彼女を愛しているのだと告げられた方がましというものだ。だがアルフォンスは決してそのようなことをしなかった。オフィーリアを傷つけるようなことを言わない人だ。人格者であり、人の道理に背くことを決してよしとしないのだ。
その優しさが、オフィーリアをさらに追い詰めた。
(わたくしがいなければ、この方は幸せになれたのだわ。……わたくしは、必要とされていないのに、わたくしは、この方をお慕いしてしまった――)
明るい陽光の下でも心が晴れることはない。アルフォンスを前にして疼く胸の痛みも、孤独を感じる身勝手な心も、すべて忘れてしまいたかった。
自分は決して愛されないという事実が、オフィーリアの胸に重くのしかかっていた。
こんにちは、前世と今世の絡む物語を書いてみました。四万字ほどの予定で、それほど長くはならないです。お楽しみいただけますように!
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