手の届く範囲で
右側が誰かに掴まれている気がする。
細い指が小刻みに震えていて、掴む力は強まったり弱まったりした。
なにもない右側にわずかな温もりが残っている。
離れずそこにあるような、たまになくなって戻ってくるような、昔からずっとそこにあったような不思議な感覚だった。
「お金があっても幸せになりきれない」
真っ暗な視界の中にそんな声が落ちた。
その声が自分のものだと認識するまでに多少の時間を要した。
深海から引っ張り上げられるように意識が安定していく。
遅れて自分の身体の大きさを認識して、手足の長さや左胸の奥に潜んだ心臓の鼓動がはっきりしていった。
右腕を掴む力が強まった。
うまく身体を動かすことができず、眼球を右に向けてその力がどこからきているのか探った。
闇の中にじんわりと影が浮かび上がっている。
人だ。
その人の長い髪の先が右腕の表面を撫でる。
感嘆の声が高い。
女性だ。
すべての認知が遅れてやってくる。
しばらく闇を眺めていると、それが天井であるとわかった。
どこかに横たわっているらしい。
「良かった。本当に良かった。もうダメかと思った」
右腕にひんやりとした感覚が走った。
今まで感覚が曖昧だったのにそれが彼女の涙であることだけはすぐに理解できた。
ぼんやりとした意識の中でも、僕のそばにいる女性が大切な人であることはわかった。
声も匂いも間違いなく彼女のものだ。
長い旅を経て、やっとの思いで出会えたような感じがした。
彼女の反応から自分の置かれている状況を理解した。
ここは病院だ。
途切れ途切れの記憶を探ってもどうしてここにいるのかわからない。
ひどい怪我を負っているようで自由に身体を動かすことができなかった。
彼女は僕が数日間意識を失っていたと話した。
交通事故にあったのだという。
治療費は貯めていた結婚資金で賄ったらしい。
他にも不安で仕方がなかった夜の話や一人で見た映画の感想などを話していたが、ところどころ聞き取れない部分があって内容を完全に把握することはできなかった。
「とても怖い夢を見たんだ」
「どんな夢?」
こちらの顔を覗き込んで彼女が首を傾げる。
「五億円が手に入る夢だよ」
そう返答すると、彼女は目尻に涙を溜めたまま笑顔を見せて「なにそれ、幸せな夢じゃん」と言った。
彼女がいない世界で僕はたくさんの人と関わった。
様々な国に足を運び景色を見た。
誰もが僕の生活を羨み、ほとんどの人が態度を変えた。
お金に縛られない生活は悠々自適で寂しいものだった。
「今の方がよっぽど幸せだよ」
掬い上げた砂が指の隙間から溢れていくみたいに記憶が抜け落ちていく。
夢の中で誰とどこでなにをしていたのかもほとんどわからなくなった。
ふわっと情景が浮かび上がっては消える。
記憶の奥底に沈んでいく。
そんなに怖い夢だったのかと疑問に思った瞬間、彼女を失う夢だと思い出して再度恐怖に苛まれた。
「……クジだ」
そういえば悪夢の中で五億円を手に入れたきっかけはクジだった。
ふと思い出して声に出した。
五億円を手にする前の夢の内容はさっぱり覚えていない。
彼女と平凡な日常を過ごしていたような気もする。
長い間見ていた夢は穴だらけだ。
どこまでが現実でどこからが夢なのか判断がつかなくなった。
「一つだけ当たってたよ。あなたが買ったやつ。六等の三千円だけどね」
彼女が指を三本ピンと立てて笑みを浮かべる。
言われて、現実でも彼女とクジを購入していたことを思い出した。
「そっか。よかった」
「退院したらそのお金で映画でも行こうよ。ちょうど見たい作品があるんだ」
「いいね。そうしよう。楽しみだね」
三千円では二人分のチケット代にすらならない。
クジの購入代金の方が高い。
夢と比較したら雀の涙ほどの額だ。
それでも彼女と出かける姿を思い浮かべると不思議と得をしたような気分になった。
僕にとってはクジの一等なんかよりもこの三千円の方が何万倍も価値がある。
「夢でよかった」
目を覚ましてすぐそばに彼女がいることがどれほど幸せなことか。
僕には十分すぎるほどの幸福が視界いっぱいに広がっている。
僕にとっての最高の贅沢だ。
いくらお金を積んでもこの景色を見ることはきっとできない。
僕の顔を覗き込んで笑う彼女の姿を見てそう思った。