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買えないもの

「最近はどうだい?」

 

席に座ると同時に彼女の父親がそう言った。


平日とはいえ夕食時のレストランは混雑している。

入店するのに十五分ほど待った。


席は九十分制だったが料理の提供が遅れているらしい。

入り口付近に設置されたウェイティングリストにその旨の張り紙がされていた。


「寂しいですけど、どうにか生きてます」


「それなら良かったよ」

 

柔らかな笑みを浮かべて彼女の父親が言う。


笑った時にできるシワが彼女そっくりだ。


いつの日だったか、父親似なのだと彼女が話していた。

高い鼻や目に彼女の面影が残っている。

だからこそ自分の顔が好きだとも彼女は言っていた。


「そういえば映画代、いくらですか?」

 

財布を取り出して問う。

チケットは事前に用意されたものだった。


「いいよ、あのぐらい。そもそも誘ったのは私の方なんだから」


「でも」


「本当は三人で見かったんだけどね。でも一人で来るよりよっぽど良かったよ。だから私に払わせてほしい。君には感謝してるんだ」


「……ありがとうございます」

 

小さく頭を下げてピスポケットに財布を押し込む。


こんな時どんな表情をすればいいのか忘れてしまった。

どれだけ感謝の言葉を口にしても薄っぺらく感じてしまうのは、短期間で施しを受ける人を見過ぎたせいだろうか。


「あの子がいたら、泣きながら良かったって言ってただろうね」


「そうですね」

 

王道の青春映画だったがラストに向かうまでの演出や主題曲、主人公の葛藤が良かった。


もともと評判のいい作品だったがこれほどまでとは思いもしなかった。

今まで見てきた青春映画の中でもそうとう好きな作品だった。

 

幸せになった主人公に「良かったね」と目尻を赤くしながら言う彼女の姿が目に浮かぶ。


彼女は登場人物に感情移入をするタイプだった。

時には悪役に怒りを覚え、時には声を出して主人公を応援した。

そんなふうに映画を楽しむ姿が好きで僕も映画をより好きになった。


「公開されるのを楽しみにしてましたからね。絶対に映画館で見るって言ってました」

 

SNSや映画で予告が流れるたびに、彼女は早く見たいと言っていた。


そんな待ち遠しくする姿が可愛くて僕も映画の広告が好きになった。


公開日に二人で行く約束だってしていた。

それなのにいつしか映画のことは忘れてしまっていて、気がつけば数ヶ月経過していた。


「君があの子の恋人で本当に良かったよ」

 

テーブルの端に視線をやって彼女の父親が呟く。

 

彼女の後ろ姿に語りかけているようだった。


「あの子はああ見えて不器用だったんだ。それを自覚してたからこそ明るく生きていた。自分の感情に素直に生きていた。だから傷つくことも誰かから痛みを引き受けることもあった。あの子にとって、上手く生きる術はそれしかなかったんだ」


「それが彼女の優しさでしたからね。そんなところが好きでした」

 

二人でいた頃は好きだと言えなかったのに、こんな状況では言えてしまう自分が嫌いだ。


何度も彼女の明るさに救われてきた。


あの時に好意を伝えておけばと思うほど、抱えた罪悪感は育っていく。


「優しさにつけ込まず、素直に受け入れて好きだと言える君は立派だよ」


「そんなことないです」


「よく君の話をしていたよ。ほとんどが楽しそうに話していたけど、たまには不満そうにもしていたかな。気を遣いすぎとか私を優先しすぎとか、そんなことを言っていた」


「すみません」

 

彼女の口からそんな言葉を聞いたことは一度もない。


「いいんだよ。あの子が愚痴を言うことなんて滅多になかったからね。その姿を見てここまで必死に育ててきて良かったって思えたんだ。それだけ君はあの子にとって特別で大切な存在だった」

 

僕は一度も彼女に不満を抱いたことはなかった。


振る舞いも物の好みも表情もすべてが好きだった。

だからこそ彼女を優先してきた。

そうすることが僕にとって一番の幸せだった。


「私自身と……あとはあの子の気持ちを代弁して言うよ。あの子の恋人でいてくれて本当にありがとう」

 

彼女の父親が小さく頭を下げて笑みを浮かべた。


その笑顔が彼女にそっくりでハッと息を呑む。


彼女と過ごした日々がエンドロールのように脳裏をよぎった。


ファミレスで食べたパスタの味や三時間も電車に乗って向かった海の景色、予算を切り詰めるために泊まった安いホテルと埃の匂い。


いくらお金があっても二度と経験することができない景色がそこにはあった。

あの匂いや感触が生きている感覚がして好きだった。

 

どうしてプロポーズをしなかったのか。


後悔が募る。

お金が足りず、自信がなかった。

いずれその日が来たら切り出す予定だった。

結婚資金が貯まって指輪を購入できたら最高の場所で気持ちを伝えようと思っていた。


どれも詭弁だ。先延ばしにするための言い訳でしかない。

 

ただ怯えていただけだった。


大切な人を自分の人生に取り込む勇気がなかった。

あれほど彼女に肯定してもらったはずなのに、自分に自信を持つことができなかった。

 

僕は豪邸に住みたかったわけでも世界中を旅したかったわけでもない。


ただ彼女と笑い合ったり価値観を共有したりしていたかった。


思い描く理想の中には必ず彼女がいた。

豪邸も海外旅行も同じ景色に映る人がいるからこそ幸福なものになる。


「どうしたんだい?」


「いや……」

 

気がつけば視界は歪んでいて、喉の奥はカッと熱くなっていた。


もう一度だけ彼女に会いたい。


お金も評価も人望もいらない。


何千万分の一の確率が的中したところで一人になってしまったら意味がない。

彼女を失ってから得た五億円に対した価値なんてなかった。

 

両肘をテーブルの上につき、交差する親指に祈るように額を乗せる。


「もう君は十分後悔したよ」

 

彼女の父親が言う。

僕が顔を上げると彼女の父親は再び笑みを見せた。


「だからこれからは真っ直ぐに生きるといい。後悔しないように素直に生きればいい。あの子がそうしたように、自分の不器用さを受け入れて生きていけばいいんだ」

 

僕の背中を押すようにそう話す彼女の父親の目には、かすかに涙が浮かんでいた。

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