サジタリウス未来商会と「感情のリモコン」
高梨という男がいた。
年齢は40歳。中堅企業の課長職に就いているが、どこか人生に物足りなさを感じていた。
「怒りっぽい」「冷たい」「喜怒哀楽が薄い」――そう周囲から言われることが多かった。
感情を上手く表現できず、会社でも家でも誤解されることが多い。
子供からは「お父さんってロボットみたい」と言われ、部下からは「話しかけにくい」と陰口を叩かれている。
自分でもどうにかしたいとは思うが、感情をコントロールする術が分からないまま、日々を過ごしていた。
そんなある夜、彼は奇妙な屋台を見つけた。
商店街の裏通り、薄暗い路地にぽつんと佇む屋台。
手書きの看板にはこう書かれている。
「サジタリウス未来商会」
高梨は興味を引かれ、足を止めた。
屋台には痩せた初老の男が座っていた。
長い顎ひげと鋭い目が特徴的で、不思議な威厳を漂わせている。
「ようこそ、サジタリウス未来商会へ」
男――ドクトル・サジタリウスは、穏やかな笑みを浮かべながら高梨に声をかけた。
「今日はどんな未来をお求めですか?」
「未来を、か。いや、正直、何が欲しいのかも分からないんだが……」
「お悩みがあるのではありませんか?たとえば、自分の感情が上手く扱えないといったことは」
高梨は驚いた。
「どうしてそれを……?」
「それが私の仕事ですから」と、サジタリウスは微笑みながら、懐から小さなリモコンのような装置を取り出した。
「これは『感情リモコン』です」
サジタリウスが差し出したのは、シンプルなデザインの小型リモコンだった。
ボタンには「喜」「怒」「哀」「楽」と書かれており、それぞれの感情を示しているようだった。
「これを使えば、あなたの感情を自由自在に調整できます。たとえば、もっと喜びを感じたいときには『喜』を押せばいいのです」
「感情を調整する……そんなことが本当にできるのか?」
「もちろんです。試してみますか?」
高梨はリモコンを受け取り、試しに「喜」と書かれたボタンを押してみた。
瞬間、胸の内がふわっと温かくなり、自然と笑顔がこぼれた。
「すごい……本当に気分が良くなってきた」
「それがこのリモコンの力です。これで、感情をコントロールすることの難しさから解放されますよ」
それ以来、高梨はリモコンを頻繁に使うようになった。
会社で部下に指示を出すとき、「楽」を押して穏やかな雰囲気を作る。
家庭では、子供と遊ぶときに「喜」を押して心から笑い合う。
感情を調整できることで、彼の生活は劇的に改善された。
「これなら、俺も普通の人間らしく振る舞える……いや、それ以上かもしれない」
だが、次第に彼は感情リモコンに依存するようになった。
少しでもイライラすると「怒」を抑えるために「楽」を押し、悲しいことがあれば「哀」を消すために「喜」を押す。
リモコンがなければ感情を表現することができなくなり、自分の心がどんどん空虚になっていくような感覚を抱き始めた。
さらに奇妙なことに、感情の強さを上げるたびに、現実がどこか遠のいていくように感じる瞬間が増えていった。
ある日、会社で大きなトラブルが起きた。
部下が重大なミスを犯し、プロジェクトが一時中断せざるを得なくなったのだ。
だが、高梨はその場でリモコンを使い「楽」を最大に設定した。
「まあ、大したことじゃないさ。焦らず対処すればいい」
その場は平静を保てたが、翌日、上司から厳しい叱責を受けた。
「何を悠長なことを言っているんだ!あの場ではすぐに対応策を指示すべきだっただろう!」
高梨は言葉を失った。
「俺は……ただ冷静でいたかっただけなのに」
さらに家庭でも問題が起きた。
子供が学校でいじめに遭っていることが発覚したが、リモコンで「哀」を抑え込んでいた高梨は、状況を深刻に捉えることができなかった。
「大丈夫、大丈夫。学校なんてそんなもんだ」
だが、妻からは「あなたには父親としての責任感がないの?」と激しく責められた。
リモコンを使い続けることで、確かに感情は平穏を保てた。
だが、それと引き換えに現実から目を背けることが増えていったのだ。
ついに高梨は、再びサジタリウスの屋台を訪れた。
「このリモコン、返したい。これがあるせいで、俺は本当に大事なものを失いそうなんだ」
サジタリウスは静かに頷いた。
「感情というのは、喜びも怒りも悲しみも、すべて人間が持つべきものです。それを消し去れば、確かに楽になるかもしれませんが、本当の意味で生きているとは言えません」
「じゃあ、どうすればいい?」
「簡単です。リモコンを手放し、あなた自身の心に向き合うことです。感情を制御するのではなく、受け入れるのです」
その日以降、高梨はリモコンを手放し、自分の感情と向き合う生活を始めた。
最初は難しかったが、次第に感情の波を受け入れる方法を学び、自然な形で喜怒哀楽を表現できるようになっていった。
職場でも家庭でも、彼の周囲には穏やかな空気が流れるようになり、高梨は少しずつ自分自身を取り戻していった。
ある日、彼はふと気づいた。
「感情は抑えるものではなく、生きるために必要なものだ」
その言葉を胸に、高梨は自分の歩むべき道を進み始めた。
【完】