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新しい板間、道場の新しい木の香りが、心地良い。構えた薙刀の先が少し振れた瞬間、長巻を下段から逆袈裟に切り上げようとした。切り上げた長巻の先は空しく空を切り、上がり切ったところを薙刀で巻き落とされた。気が付いた時には目の前に切っ先が迫っていた。当たる寸前で、その刃、と言っても木剣ですが、ぴたりととまった、寸止めだ。フウと息をついて、構えを戻し納刀して、そろそろ上がろうか、とお姉様は、声を掛けてくれた。あの軌道エレベータの惑星での保養所で休んでいる間、この艦全体の修理、改造だけでなく、私たちの居室は、全面的に改装されていて、寝室、リビング、それに一人一部屋もあてがわれていた。キッチンも完備されていて、簡単な賄いもできるようになっている。いま、使っていた道場、そして湯殿も、増築改築していただいた、しかも、アノ時みたいにお湯の噴き出しはなさそうです。
お姉様の汗を拭くための手拭や、着替えなどを、イソイソと、湯殿に持って行ったり、稽古後の道場の掃除など、お姉様の身の回りの世話をすることは、従者としての立場は何ら変わっていない、やっぱりお姉様のお傍が一番幸せ。でも、最近は殿方、この艦の艦長のことが、ちらついて、お姉様一筋の私がぐらついてとっても不安です。
御姫様お一人で寂しくされているのでは。と、個室には居られなかったので、リビングを覗くと丁度お一人で暇を持て余されているようだったので、御姫様にお声を掛けてみました。新しくなった、このリビングや、居室全体の感想を、言い合ったり、そう言えば、と先の保養所での出来事を、御姫様と目が合うたび思い出し笑いしてクスクス笑っていた、お姉様や戦闘艦の艦長、当然胸のエラソーなAIアンドロイドは、何のことかさっぱり分からないと思う、あの露天風呂での出来事は今思い出しても笑いがこみあげてくる。素っ裸で、勝ち誇った態度で、それでいて、どこか抜けている。たぶん根っから悪い人ではない事は、何となく分かる。だから、年下の私みたいな少女に、注意されても何の疑いもなく、イソイソと着替え出すのでしょう。そのシーンを思い出し、また、目を合わせてクスクス笑っていた。御姫様のその笑顔を見た最後は、いつごろだろうか。そう、我が母星が侵略され、王国は解体され、御姫様の御父上、御母上もご消息は不明で、どこかの星に亡命されたとの、噂があるだけで何もわかっていない。そのうえ、弩級戦艦での裏切り。笑顔を作る暇もない、心中お察しいたします。そう思っていると、スッと、手を握って下さり、気遣いありがとうとお礼を言って下さった。いつかの、あの御前仕合の時のあの厳しい、私とほとんど御年が変わらないのに凛とした、そして厳しさは、一国を引き継がねばならないその強い気持ちの表れだったのかもしれない。ある意味、そのプレッシャーから解放されたと思うのは、不謹慎だろうか。そう思うと、私も、ぎゅっと握り返し、私こそ本当なら、ここにはいないはずでしたのに、受け入れて下さり感謝いたしますと、力を込めて申し上げた。
お姉様が湯殿から戻り、少し艦長と話をして来ると、でていって数刻が過ぎ、なかなか帰ってこない、お姉様を迎えに行きましょうか、と言う話となり、いつ帰ってきてもお茶ができるよう、用意をして廊下に出た。廊下の左はコクピットの方、右側の奥は行ったことが無かった。悪戯心にではないけれど、少し御姫様の気晴らしになればと少し冒険しませんかと、提案してみた、少し考えたご様子でそれでいて、少し悪戯っぽく笑顔になり、行きましょうと、笑顔でお答えになった。
少し薄暗かったので、紙片を二つ捩じって印と詠唱を奉りその蝶の式神は、光を放ちながら、私たちの進む前方方を照らし続けた。むき出しのパイプや、何かの配線が廊下と平行に這っていて、所々一つに纏まったボックスや、集中配電盤、計器類が順序良く並んでいる。空気や液体がその中に流れている音が、パイプを通して廊下中に小さく響き、耳を澄ませば何かしらの共鳴音が、小さな振動、金属音そして、遠くにその燃料を消費しその推進力を増している、エンジンの咆哮が絶え間なく響き、まるで生物の体内にいるような不思議な感覚。外気との差でできた結露が、雨の様に床のグレーチングの間を通り抜け、覗けば、眼の眩む様な漆黒の隙間、そのすきまから、得体のしれないものがヌッと出てきても不思議でないそんな漆黒を跨ぎながら、進んで行くと、格納庫、武器庫、弾薬庫、食糧庫や、まだ使われていない区画、以前、何かしら作業で使っていたと思われる部屋、得体のしれない、ガラクタが詰まった区画、見る人が見たら、それが何なのか分かる、そんな物品が所狭しと、詰め込まれた部屋、何世代も前の電子頭脳が、また日の目を見る日を待ちわびている部屋。など、どれだけ部屋や、格納庫があるのか、まだまだ、奥の方に続くようだったので、御姫様と目配せして、もういいかしら。と、引き返そうとした時、視界の隅を何かが通り過ぎたのを見逃さなかった。御姫様もそれを見たらしく、過ぎ去った方を、四つの目で見た。目を凝らしながら、懐から、紙片を取り出し捩じって式神をいつでも放てる準備をして、印を結び、詠唱の最後の部分で止め、そのタイミングを計っていた。すると白い靄みたいな、確かに人型をした、それが現れたと同時にその方向に式神を放った。が、放った式神はその靄の中に獲り込まれてしまった。その時、これはヤバいと、御姫様の手を取り一目散に走り出した。心の中で、ヤバい、ヤバい、と思いながら、どこまで、来たのだろう、来た廊下を戻ったつもりでしたが、ある部屋に迷い込んでしまい、帰り道が分からなく成ってしまいました、光が漏れていたので、思わずその部屋に吸い寄せられるように入ってしまったのです。古い、何世代も前のラボのようで、開けっ放しの端末や、電子計算機、今は使わないような器具が床に机にと散らばっていた。光の発生源の近くまで寄って覗き込むと、液体に満たされた巨大な透明な管があり、その中には裸の女性が胎児の様に液体の中を漂っていました。それだけでも驚きなのに、よく見るとその女性の顔はあのAIアンドロイドそのものでした。瞬間背中に悪寒が走り、振り向くと、あの白い靄が音もなく近寄ってきたではないですか。今、明かりを灯している式神を結界変換させ、靄が近寄らないよう結界を張った。結界を破られるまでにその部屋を走り抜けようとした際に、待って、と音ではなく、直接頭に響いた、気のせいかと思い御姫様に確認すると、わらわも確かに聞いたとおっしゃっていた。その声の主と思われる、靄は、やすやすと結界を破り近づいてきた。
長年人が生活していると、人の残留思念が、その場所で、または物に、人の生死に関係なく、ずっと残るという。その場所で、人が暮らしの中で、嘆いたり、喜んだり、怒ったり、喜怒哀楽、が、そのまま、その場に、物に、貼りつき人が去っても一種の霊魂やエネルギーの溜まり場となり小さい雨垂れが石を穿つように少しずつ穴をあけ、その穴に吸い込まれるようにどんどん残留思念が集まり、やがて魂が宿っていき付喪神となる、と式神を使えるようになった年、父上や、母上から教わった。
こうなったら、と、数枚の紙片で式神を放ちつつ、とある部屋におびき寄せ、ここは、御札とのコンビネーションで封じ込めようと筆を取りだし、部屋に入ってきたところを、もう一度複数の式神を放ち結界変換で足止めをして床、壁、扉に護符文字を書き部屋の外に出て扉を閉め、御札を貼り封印を完了した。あの、靄の付喪神は何だったのか、なぜ、呼び止めようとしたのか、一度、艦長に聞いてみないと何も分からないし、あのAIアンドロイドに似た、培養液のなかにいた女性はいったい何。関係は。そう考えると、もっと調べる必要があるかもしれない、と。でもとっても疲れました、お姉様とのお稽古並みに疲れました。帰り道は、御姫様の式神に導かれ、ようやく、帰ってきました。秘密を共有したことが複雑に絡み合って、怖さから解放されてほっとした反動で、顔を見合わせて笑いがこみあげてきて、二人同じタイミングで笑い出し、思いもかけず御姫様の笑顔が見ることができ、また一段と距離が縮んだ気がしました。
お部屋にはまだ、お姉様は戻って無い様です、コクピットの方かもと、コクピットに近付くと、お姉様と、胸のエラソーなAIアンドロイドの声、というか、言い合っている声が聞こえてきました。お姉さまが、私こそ艦長の妻にふさわしい、アンドロイドは所詮アンドロイドだ、妻にはなれないといった趣旨の事をおっしゃっていた。その様子をみて、取っ組み合いの喧嘩になりそうだったので、用意していたお茶を理由に、お茶のお時間ですと言って、何とか間に割って入ることができました。お姉様をその場から引き離し、コクピットから、居室に戻る際に艦長に、あの白い靄と、培養液に漬かっていた女性の事を聞こうと、思ったけれど、何か聞いてはいけないことのようで、聞くのをためらったのです。
でも、この時、その残留思念、付喪神が、培養液の女性がこの艦の存亡の危機に導くことになるとは、思いもしなかったのです。
この物語に目を通していただき、ありがとうございます。