お望み通り、地味に生きてきましたが?
★
『俺より成績がいいなんて許せない』『愛想のかけらもない地味女のくせに』
それが、婚約を破棄された理由だった。
★
(……し、信じられません。わたくしがこの三年間どんな思いで魔法局にいたと!)
イレーネは全身を震わせて、目の前の辞令を睨みつけた。
赤毛のまとめ髪が怒りで揺れる。男爵家の令嬢として夜会に出ていた頃の面影は微塵も感じさせない。まるで瓶底のような分厚いレンズの下、黒や藍の入り交じった瞳は燃えていた。
次の者に守護竜の『宮移し』の任を命ずる。
第一席 レオンハルト・シェーンベルク
第二席 イレーネ・ヘルダーリン
その下にも魔法使いの名前は続いているが、彼女の視界には入らない。
国王が閲覧し認証した証明である百合の紋章付き。どこからどう見ても公的文書。
(どうして、どうしてわたくしが第二席なのっ!)
局長室に乗り込んでやろうという思いはすぐに消えた。
この瞬間、最も聞きたくない声が近づいてきたからだ。イレーネはすばやく物陰に隠れるとじっと身を潜めた。
「レオンハルト様、すご~い」
「辞令、拝見しました。宮移しの統括に決まったんですねぇ!」
「当然の流れだ。エレガントに遂行してみせるとも」
イレーネと同じミルクティー色の制服姿の女たちが、中央の男を褒めそやす。
レオンハルト・シェーンベルク。
たった今、イレーネの上司に決まった男だ。
長身に広い肩幅という恵まれた体格。
黄金の前髪を後ろに撫でつけて、額が露わになっている。意志の強そうな太い眉。ブルーグレーの三白眼。バランスのとれた鼻と唇の形。
女に甘く男に厳しいという噂の絶えない男である。
イレーネの呪うような視線に気づくこともなく、一行は賑やかに去って行った。
ありふれた、というと語弊を招くかもしれないが、イレーネは魔法学院の卒業パーティーで婚約破棄された令嬢だ。
相手は幼なじみのクランツ・デューラー。
父親同士の決めた婚約だった。それでも幼なじみのクランツに対して、イレーネはそれなりの感情を抱いていた。
イレーネ、だけは。
『地味女のくせに』
今となっては初恋かどうかも分からない淡い感情は見事に打ち砕かれた。
その欠片は、彼女の心にずっと刺さったままだ。
それから言葉通り、イレーネは地味女として、仕事人間として生きてきた。雑用を黙々とこなし、数字を着実に積み上げてきた。
目標は守護竜の宮移しの指揮官。
百年に一度、北と南を行き来する守護竜のいわゆる『引っ越し』に携わることは、国の人間にとっては誉れとされるのだ。
(それが、ぽっと出の道楽貴族なんかに潰されるなんて!)
レオンハルトは身分こそ伯爵であるが、彼の母は王族出身である。
聖都の図書館長を務めていたはずで、この辞令により魔法局へ異動してきたのだ。
(地味に、真面目にやってきても、報われることなんてないのね)
のろのろとイレーネは立ち上がると、スカートについた埃を払った。
★
辞令の数時間後、イレーネは局長室に呼び出されていた。
先に待っていたのはレオンハルト。一応上司を待たせてしまったことに内心動揺したものの、咎められないのをいいことに口を噤んだ。
「レオンハルト・シェーンベルクだ。宜しく頼む」
低く、癖のある声。どことなく軽薄さが滲んでいる。
「イレーネ・ヘルダーリンですわ」
相手が貴族ということもあり、イレーネは忘れかけていたカーテシーを披露する。
しかしドレスではなく今は制服。広がらないスカートでは、かえって不格好になってしまった。
「君の話はよく聞いている。実直な魔法使いだそうだね。百年に一度の宮移しだ。エレガントに完遂させようじゃないか!」
「はぁ」
(話し方といい、不遜な態度といい、いちいち鼻につきますわね)
しかし上司に逆らうことはできないので、イレーネは曖昧な返事で濁した。
初対面のふたりが挨拶を終えたところで壮年の局長が話を切り出した。
「早速だが急ぎで魔法紙を用意してくれたまえ。明日までに五千枚、宜しく頼む」
「ごっ」
雑用も黙々とこなしてきたイレーネだから分かる。
魔法紙というのは魔法陣専用の土台であり、世界樹の枝を紙に加工したものだ。
それを、五千枚。
いくらなんでも無茶がすぎる。
イレーネは足元がぐらつくのを感じた。
一方でレオンハルトは冷静だった。
「理由を聞かせてくれませんか? 魔法紙五千枚を早急に用意しなければならないという相応の理由を」
上司に対してもどことなく偉そうなのは血筋のなせるわざか。
局長もレオンハルトを咎めず、代わりに苦虫を噛み潰したような表情になった。
「……盗まれたのだ。宮移しのための移動魔法が」
「!?」
とす。衝撃で倒れかけたイレーネを受け止めたのはレオンハルトだった。
彼女の両肩に手を置いたまま、レオンハルトは言う。
「それならば、盗まれた魔法陣を見つけた方が早いだろう」
(レオンハルト様!? 一体どういうつもりで……)
「できるのか?」
「当然。イレーネ嬢と共に、エレガントに見つけ出してみせますよ」
(えっ!?)
イレーネはレオンハルトを振り払い、勢いよく彼へ振り返った。
するとレオンハルトは優雅に片目を瞑ってみせるのだった。
★
「それで、当てはあるんですの?」
「ん? さぁ、どうだろうね」
「はぁぁぁあ!?」
声を荒らげてしまったことを恥じるももう遅い。
イレーネは気まずさを前面に押し出して口を噤んだ。
「一応目星はついている。宮移しに反対する派閥があるだろう」
「派閥……」
前回の宮移しは百年前のことだ。
ゆえに、今回の宮移しに対して異議を唱える勢力は穏健派から過激派まで存在する。
現在、守護竜は南の世界樹のうろに建てられた神殿にいる。
今回の宮移しでは北の山脈に居を構えることとなる。
南側の人間にとっては、加護が減るのではという懸念が生じているのだ。
「噂をすれば、だ」
レオンハルトの視線の先に現れた人物を見て、イレーネの足は硬直した。
金髪碧眼、少し神経質そうに眉根を寄せながら、細身の青年が廊下の向こうから歩いてきたのだ。
どきん、どころじゃなく、イレーネの心臓が跳ねた。
急に指先が冷えていくのが分かる。
(クランツ……!)
クランツ・デューラー。
南のヴェステンに領地のあるデューラー家こそ、反対派の筆頭であった。
まるでイレーネを隠すようにさっとレオンハルトがクランツの前に立つ。
「ヴェステン卿、ごきげんよう」
「……ご無沙汰しております、閣下」
クランツは氷のような眼差しでレオンハルトを見上げた。
「この度は閑職にまわされたようで、心中お察しします」
「いやいや。歴史に残る名誉な職位さ。エレガントに全うさせてもらうよ」
「徒労に終わらぬよう願っております」
すれ違いざま、クランツはイレーネを一瞥してきた。
「地味女は地味女らしく大人しくしてろよ」
「……!」
ずきん。欠片が、痛む。息が苦しい……。
「そういえば、君の元婚約者だったか」
血の気が引いていたイレーネだったが、第三者の声に我に返る。
「つまり今は赤の他人ということだ!」
ぎゅっとイレーネはスカートを握りしめた。
動揺に気づかれたくなくて、顔を上げる。
(……そうですわね。今は、無関係の人間です)
「ええ。そのとき以来ですわ。しかし何故、魔法局にいらしたのかしら?」
「つまりはそういうことさ」
★
魔法局の局員の大半は、国が用意した寮に居を構えている。
イレーネが自室の扉の前に立つのを見計らったかのように、隣の扉が開いた。
「お疲れ様。レオンハルトが上司になったんだって?」
「イザベラ様!」
イレーネの表情が明るくなる。
イザベラ。平民の出でありながらこの国有数の魔法使いである。
レオンハルト派かイザベラ派かという論争もあるくらいだ。勿論、イレーネはイザベラ派。
「わたくし、自信がありません。レオンハルト様はパワハラだって噂も聞きますもの」
「噂は噂だよ。あいつの人柄はあたしが保証する」
「直属の上司がつくのであれば、せめてイザベラ様がよかったです……」
「あはは。そんな大役、ごめんだね~」
イザベラは半泣きのイレーネを抱きしめて、あやすように頭を撫でてくれた。
★
魔法とは生活の利便性を向上させる手段だ。
この国は、他国と違って守護竜の加護のおかげで戦いを必要とせず、攻撃魔法が退化したという歴史がある。
生活魔法は『色』から生み出される。
基本は赤、青、緑の三色。
多くの魔法使いが、赤は炎、青は水などのイメージを込め、混色し、操る。
「前庭では緑の濃度を変えながら存在を認識させづらくするっていうのはどうだろう。さながらカメレオンのように」
「は?」
レオンハルトからの提案が一瞬理解できず、イレーネはぽかんと口を開けた。
徐々に理解が追いついてくると、今いるのがデューラー家の邸宅の裏手だというのを忘れて大声を上げた。
「信じられませんわ。ほんっとうに、信じられません!」
「声を荒げるなんてエレガントじゃないな。もう少し落ち着いたらどうだい」
推測では、家宅捜索をすることなどできない。
ということでレオンハルトが取った選択肢は『不法侵入』だった。
「レオンハルト様こそどこがエレガントですの。れっきとした犯罪ですわよ」
頬を膨らませ口を尖らせるイレーネ。
くくく、とレオンハルトは笑いを噛み殺しているようだ。
「イレーネ嬢」
ふと視線に気づいた次の瞬間、眼鏡を外されていた。
「なっ、何をするんですの! セクハラ!」
「この眼鏡、度が入っていないよね? 裸眼の方が美人なのに、何故エレガントじゃない選択をしているんだ」
「どうして美しいかそうでないかで物事を判断しなければならないんですか?」
イレーネはまっすぐにレオンハルトを見つめた。
まるでブラックオパールの遊色のごとき、複雑な闇色が混じりあったイレーネの瞳。
はっ、とレオンハルトが虚を衝かれたような表情になった。
イレーネは奪い返した眼鏡をかけ直しす。
「カメレオンだなんてまどろっこしい。不法侵入者なら、もっと堂々と不法に侵入しましょう」
イレーネは右の人差し指と左の人差し指を立て、さながら、マッチを擦るように指同士をぶつけた。
一回、二回、三回。
指先から生まれるのは、赤と青を混ぜた紫色と、赤と緑を混ぜた黄色だ。
ばんっ! ……ぱぁんっ! 空に、次々と大輪の花が咲く。
にわかに辺りが騒がしくなる。警備兵たちがこぞって花火の発射元を探し始めたのだ。
「参りましょう、閣下」
「いいねぇ。エレガントだ」
結局目くらまし風の魔法も使いつつ、ふたりはデューラー家へと不法侵入を果たした。
★
(三色を均一に混ぜ合わせると透明になるだなんて!)
イレーネは密かに驚いていた。
すべての色を均一に出力するのは卓越した技術がいる。しかも不安定で長持ちしない。
それは、魔法学院では習わなかった技術だ。
「私の代で流行ったが、悪用されてはいけないと禁止されたんだよ」
彼の実力を知ったイレーネは評価を改める。
整いすぎた横顔。その輪郭をじっと眺めた。
(……この方、見た目だけではないのですね。多少、強引で乱暴ですが)
そして、シャンデリアが煌々と照らす廊下を、レオンハルトは突き進む。
その後ろを恐る恐るイレーネはついて行く。
「おかしいな」
「えぇ。人の気配がまったくしませんわ」
ひとつひとつ扉を開けて確認するも、やはり、誰もいないのだ。
先に応接間に入ったレオンハルトが、腕だけを廊下へ伸ばした。
「当たりだよ」
イレーネも部屋を覗き込む。
古時計から、ばさばさっと大量の魔法紙が雪崩れてきた。
★
会議室には山積みの魔法紙。その数、ざっと五千枚。
デューラー家から回収した、宮移しのための大事な道具だ。
「早速始めちゃう?」
「はいっ」
向かいに座るイザベラの声に、イレーネは勢いよく応じた。
今から魔法紙を一枚一枚点検しなければならない。書き換えられていないか、悪意が差し込まれていないかどうか。
確実に、骨の折れる作業だ。
「……」
「……」
黙々と、ふたりは作業を続ける。
「……?」
イレーネは指先に違和感を覚えた。しかし、魔法紙に異常は見当たらない。
目の前の大先輩へ質問しようとしたとき。
がちゃ。
扉が開いて、レオンハルトが入ってきた。
「お疲れ様です」
「困ったことになったよ」
「珍しい。疲れてるんじゃない?」
イザベラが指摘すると、レオンハルトはわざとらしく肩を竦めてみせた。
「デューラー一族が行方をくらました。魔法の痕跡もない」
せっかく不法侵入までして証拠を押さえたのに、とレオンハルトは嘆く。
「それから……山脈神殿が完成したそうだ。もしかしたら一族総出で神殿を破壊しにくるかもしれない。ということで、遠征命令が下った。しかも日帰り」
移動魔法を使えばなんとか日帰りはできなくない距離ではあるが、なかなか厳しい内容である。
しかしイレーネはためらわなかった。
「わっ、わたくしも行きます!」
イレーネは、前のめりに手を挙げた。
★
青と緑を混ぜた爽やかな薄水色は、風をもたらす。
風を使った移動魔法で、イレーネとレオンハルトはあっという間に北の山脈へと降り立った。
「寒っ」
乾燥した風の吹きすさぶ地だ。
ここで守護竜は次の百年を過ごす。
主を迎える前の大神殿は乳白色に煌めいている。
イレーネは高い天井を見上げた。
神聖で、静謐で、空虚……。
「閣下」
「ん?」
「宮移しの前に、ここにたくさんの花を植えてもよいでしょうか」
「エレガントな提案だ。しかし、何故?」
「この場所はとても寂しいです。守護竜が移ってきたときに、少しでも穏やかな気持ちになってもらいたいのです」
イレーネは隣に立つレオンハルトを見上げた。
「君という人は……本当に」
レオンハルトがイレーネへ手を伸ばしかける。
ところが、続く言葉は突風と共に遮られた。
「頼む。冤罪を証明してくれないか!」
「クランツ!?」
衣服が破れてぼろぼろとなったクランツが目の前に現れたのだ。
「我が一族は何者かに嵌められたんだ。たしかに宮移しには反対していたが、だからといって分かりやすく魔法紙なんて盗むものか。やるならもっと上手く立ち回る!」
立て板に水のごとくまくしたてるクランツは、両膝をつき、ふたりに向かって懇願する。
「イレーネ。幼なじみのよしみで俺を助けろ!!」
ぎょろりと焦る目玉。
見るに堪えない姿、とはまさにこのことだった。
ぱりん、とイレーネのなかで、何かが割れる音がした。
何かではない。自身を苦しめてきた言葉の欠片だ。
「……こんな男のせいで、三年も悩んでいたのね」
「イレーネ嬢?」
レオンハルトがイレーネの顔を覗き込もうとしたとき。
イレーネはしゃがみこむと、ぺち、とクランツの右頬をはたいた。
「地味女で悪かったですわね」
ぽかん、としたのは、クランツだけでなくレオンハルトもだった。
すっと立ち上がったイレーネは勢いよくレオンハルトへ振り返る。
「わたくしたちで黒幕を見つけましょう。宮移しは誰にも邪魔させません」
「あ、あぁ」
珍しく、イレーネにレオンハルトは気圧されていた。
★
「おかえり。山脈神殿はどうだった?」
イレーネが寮に戻ってきたところで、またもやイザベラが声をかけてきた。
魔法騎士の制服姿。つまり、彼女も仕事から帰ってきたばかり。
イザベラは労わりの眼差しをイレーネへ向けた。
「疲れてるね。たまには外でごはんでも食べる?」
「いいですね。支度してきます」
あたしも着替えてくるから待ってて、とイザベラが自室へ入っていく。
閉じられた扉をイレーネは黙って見つめた。
★
「何が食べたい? 肉でもなんでもおごってあげるよ」
夜の闇に染まりはじめた舗道をイザベラが先導する。
ぴたり、とイレーネは立ち止まった。
「……イザベラ様」
「ん?」
「赤と青と緑を均一に出力して混ぜ合わせると透明になるってご存じでしたか?」
「何、それ。面白い」
軽やかな否定に、ざわ、とイレーネの背筋が粟立った。
「レオンハルト様は、自分の代で流行したとおっしゃっていました。つまり、イザベラ様が知らない筈ありません。成績を常に一位と二位で争っていたのは、はるか後輩のわたくしでも存じ上げていますもの」
背中を向けていたイザベラが振り返ったところで、イレーネは、拳を握る。
「魔法紙に細工をするためにデューラー家を利用したのは、あなたですね」
「……」
ぱちんっ。
イザベラが指を鳴らした瞬間、指先の青から生み出された大量の水がイレーネへ襲いかかった。
(避けられないっ)
ごぽっ!
(息がっ……)
水に文字通り包み込まれて、イレーネは死を覚悟する。
(まさか本当にイザベラ様が犯人だったなんて)
せめて、レオンハルトには伝えなければ。
なけなしの力を振り絞ってイレーネが指先に力を込めたとき。
「イレーネ嬢っ!!」
ばしゃんっ!
水の中で窒息しかけたイレーネを引き上げたのは――レオンハルトだった。
整っていた前髪が、ぺたりと額に張り付いて、ぽたぽたと水滴が落ちる。
「よかった……間に合った」
イレーネをきつく抱きしめたレオンハルトの呟きが、イレーネの耳に落ちる。
見たことのない、似つかわしくない焦燥が滲んでいた。
「ごほっ、ごほっ……」
地面に腰を下ろして、イレーネは思い切り咳き込んだ。
レオンハルトがしゃがんだままイザベラを睨みつける。
「嫌な予感というのは当たるものだな」
「それがあなたをその地位へと引き上げたんでしょ」
「聞かせてもらおうか。宮移しを妨害しようとした理由を」
すると、イザベラの口角が歪んだ。
「正確には妨害じゃない。移し先をあたしに書き換える予定だった」
「……は?」
「夢を見たの。あたしが守護竜になってこの国を永遠に護るって……」
およそ支離滅裂な回答だった。
しかし同時に自白でもある。もはや、イザベラは魔法使いではなく黒魔女だった。
「ふふふ、捕らえるなら捕らえてちょうだい。また百年後に挑戦するだけのことよ」
魔法紙の盗難騒動の、実にあっけない幕切れだった。
★
イレーネは山脈神殿の前に立っていた。
『無理せず帰ってきてもいいんだよ、私のかわいいイレーネ』
父からの手紙を黙読すると、そっと折りたたんでポケットにしまう。
(お父様は、わたくしがまだクランツを好きだと思っているのでしょうね)
魔法局に就職したときのことを思い出す。
失恋の穴を埋めるために仕事はぴったりだった。雑用でも何でもよかった。
評価されるうちに目標ができた。それが宮移しの指揮官だ。
そして、今は――
「花よ」
大きく両腕を広げた。
イレーネ以外の魔法使いも同様に後に続く。
ぶわっと、すべての指先から色を纏った光が溢れ出した。
たちまち光は花となって辺り一面に咲き誇る。
――灰色の世界は一変して、色とりどりの花畑に変わった。
ばさっ……
大きな羽音がして空を見上げると、薄茶色のドラゴンが姿を現した。
雄大な姿にイレーネの目頭はじんわりと熱くなる。
宙に浮いているレオンハルトや他の魔法使いも見えた。移動魔法は無事に成功したようだ。
「……」
イレーネは、守護竜よりもレオンハルトの姿に釘付けになっていた。
大きく両手を広げた、宮移しの指揮官。
「ようこそ、守護竜様。どうぞこの地にて、次の百年を穏やかにお過ごしください!」
レオンハルトが拡声魔法で語りかける。
まるで呼びかけに応じるかのようにぐるりと守護竜は旋回すると、山脈神殿の中へと降り立った。
宮移しは無事に成功したのだ。
全員が拍手を送り、抱き合う者もいる。
「イレーネ嬢!」
レオンハルトが地上に降り立った。
そしてイレーネに駆け寄ってくる。ふたりは自然と向かい合った。
「実にエレガントな宮移しとなった。君のおかげだ」
「恐れ入ります」
周りは宮移しの喜びで沸き上がっていて、誰もふたりに気づかない。
「……眼鏡は取らなくていいんですの?」
「どんな姿でも君は君だ」
「そうですわね」
すると、眼鏡を外したのはイレーネ自身だった。
「ですが、わたくしがあなたのお顔をもっとはっきり見たいんですの」
レオンハルトが虚を衝かれたような表情になるも束の間。
「奇遇だな。私もだ」
破顔すると、イレーネの両肩に手を置き、その額へそっと口づけた。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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