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「今年の収穫はどうだい? ウチんとこは……それで……」
「息子が最近反抗期で困っていて……そういえば……」
「ねぇねぇお宅のところのお嫁さん、最近聞いたんだけれど……」
――週末に開かれる、教会でのミサ。もうすぐ神官による説教が始まるというのに、礼拝所の賑わいは鎮まる気配がなかった。
しかし、それも無理はない。民衆は神官のつまらない話よりも、五感で奇跡を感じられる聖女の方を信奉しているのだから。
取り敢えずミサに参加はしてはいるものの、その目的はあくまで礼拝だけ。小難しい説教なんてなくても良いとすら、彼らは考えている。
実のところ、この事態は教会としてはあまり喜ばしいものではなかった。教会の役割は神への信仰心を高めることも勿論だが、民衆に共通の道徳心を与えることも求められているのだから。
説教とは、啓蒙である。神々をただ「ありがたいものだから」と崇めて終わるのではなく、神の教えを知りそれに従った道徳的で清貧な生活を過ごすこと……それこそが、教会の求める民衆のあるべき姿であった。
皮肉なことに、聖女を擁する教会の教徒の方が、その求める姿とはかけ離れているのが実情ではあったけれど。
――突然、そんな楽しげなやり取りを続ける人々の喧騒を切り裂くように、悲鳴のような高音が鳴り響いた。思わず周囲が静まり返る。その唐突な沈黙を埋めるように、続いて不吉な低音の和音が細かくリズムを刻み始めた。
突如始まった、ヴィロの演奏。それが奏でる旋律の愛憎劇に、人々は戸惑いながらもついつい耳を傾け始める……。
嘆きの声にも似た高音のメロディーが、半音ずつじわじわと音程を下げていく。偏執的な半音階のステップは、理由もなく聞く者の心をざわつかせるものだ。
寄せては返す波のように、旋律は何度も高音から半音階を辿って転落していく。そのスピードは徐々に坂を転げ落ちるように早まっていき――そして聴衆の緊張感が一層高まったところで、オクターブの激しい移動を繰り返す跳躍のようなメロディーが始まった。
変幻自在でどこまでも高く軽やかに伸びる、悪戯好きの子供のようなメロディー。しかしその無邪気で自由な音は、徐々に低音に捉えられていく……それは、破滅に囚われた主旋律の運命のようで。
やがて、その音は低音の響きと完全に重なってしまう。呑み込まれぬようにもがいていたのも束の間、メロディーラインはそこでぱたりとその声を絶えさせてしまった。
身動きひとつできずにその音色の行く末を見守っていた聴衆は、やがてその禍々しい静寂の中で遠くに響く低音の足音に気がついた。極めて弱い調子で始まったそれは少しずつ大きくなっていき、大きなうねりとなって聴衆を呑み込んでいく。重厚な短調の和音で踏み荒らしていく、屍者の軍勢の足音。
その足音が再び遠ざかっていくまで、聴衆は息を詰めて固まることしかできない。死を引き連れた彼らの気配は、緊張の糸を手繰り寄せながら少しずつ薄れていって……そして、再び静寂が訪れた。
「おはようございます、皆さん。今日のミサでは死後の世界、冥界についてお話しいたします」
おもむろに切り出された神官の優しい声に、泣きそうなほどに張り詰めていた空気がほっと緩んだ。温かく、包み込むようなその声色。人々はごく自然に、縋りつくように神官の言葉に耳を傾ける。
「創世記の第二章。舞台は悪戯好きの春の神、プラエが姿を晦ませたところから始まります……」
朗々と響き渡る声は、そのまま神話の物語を紡いでいく。
『半狂乱で息子である春の神の行方を求める愛の女神、ヴィーチェ。やがて彼女は冥界へと足を踏み入れて……』という誰もが知っている有名な神話のひと幕。しかしそれは先ほどまでのヴィロの音楽に妙にリンクしていて、人々は素直にその心情を辿っていく。
物語が静かに終わると、話の内容は死後の世界の恐ろしさ、そこから救われるために必要な信仰、そして子を想う母の愛や親の忠告がいかに重要かといった教訓へと移った。
聴衆はしんと静まり返ったまま、感じ入ったようにそうした神官のお言葉をいただく。
――本日のミサは、そうしてかつてないほどの真剣なものとなったのであった。
「セレナさん、おかげさまで非常に理想的なミサを行うことができました! こんなにも耳を傾けていただけるなんて、初めてのことで……やはり、貴女のヴィロは素晴らしいですね」
「とんでもない、私はただ少し、皆さんの注目を集めただけです。聴衆をお話に引き込んだのは、ひとえにライネルさまのお力。ライネルさまのお話、大変興味深かったです」
セレナの手を握って、ライネルは会心の喜びを見せる。その手の温もりを何故か落ち着かなく感じながら、セレナは困ったように眉を下げて微笑んだ。
その日に話す内容に合わせて、待ち時間にヴィロを演奏する――この新たな試みは、そうして順調に始まった。
明るく軽やかな音楽の時は恋人たちの話を、壮大な音楽の時は神々による創世を、荒々しい音楽の時は神の怒りによる神罰を……音楽に続くライネルの話し方は非常に巧みで、聴衆を引き込んでいく。
『民衆相手の説教は寄付も少なく、反応も薄い。やるだけ虚しい仕事だ』――教会内部ではそんな評判が公然と囁やかれており、週末の一般向けのミサは神官たちの中で押し付け合う厄介仕事と認識されていた。
ライネルはそんな誰もが嫌がる仕事を一手に引き受けていたのだ。その他にも孤児院の教師役、民間の診療所への支援など、彼が担当しているのは評価されにくく地味で雑務の多い仕事ばかり。
それでも彼は不満を持つ様子もなく、使命感をもって熱心に仕事に取り組んでいる。真剣にまっすぐな視線で職務に当たるその姿に、セレナの目は自然と惹きつけられた。
市井の人々のことを本気で考えて行動する彼の姿勢と、真面目で誠実な人柄。そんなライネルとの距離は、共に仕事をするようになって徐々に近づいていく。
そしてそれに伴い、セレナの彼に対する好感度もどんどん上がっていったのだった。
――もっとも、彼女は。
(ライネルさまは、本当に信頼できるパートナーね。彼の仕事は、間違いなく世の人の役に立つもの。彼のために、私も頑張らなければ)
と、その好意を仕事上のものと捉えていたのだけれど。
そうして、新しい仕事を始めたセレナ。
彼の仕事があまりにも忙しいために、補佐役のセレナも毎日がてんやわんやだ。ヴィロの練習時間こそなんとか確保していたものの、慣れない雑務に彼女の時間はどんどん削られていた。
――そうして気がつけば、サリュートが新司教に就任してひと月あまりが過ぎていたのだった。




