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 ――そして。

 重苦しい空気にそぐわない、伸びやかな声が室内に響き始めた。

 少年が青年に成長するまでの揺らぎのような時間にしか聞くことのできない、少年聖歌団の声。その奇跡のような歌声は、天使の声とも称されている。

 硝子ガラス細工のように透明で、すぐ壊れてしまいそうなほど繊細な高音。この声が、セレナのヴィロをいろどる最後の歌となるのだ。


 最後の、と胸中で呟いたところでサリュートの心臓にチリリとした痛みが走った。――自分が望んだことなのに、今になって一体何を躊躇うというのか。

 後悔に揺れる己の心を叱咤しったする。この時間さえ耐えきることができれば、私は……私の音楽は、救われるのだ。これからはもう彼女の影に脅かされることはない。

 だから、恐れるな、迷うな、立ち止まるな――腹の中に重石が沈んでいくような吐き気になんて、誰が気づいてやるものか。


 頬を強張らせたまま、ちらりとサリュートはヴィロを構えたセレナに一瞥いちべつを向けた。サリュートとは対照的に、落ち着き払った様子で少年の歌に耳を傾けているセレナ。歌の様子を見てから伴奏を始めたいと、その手にあるヴィロはまだ奏でられていない。

 こうしている間にも彼女に残された時間は刻々と削られているというのに、何をそんなに悠長に構えているのか。その旋律を待つサリュートの神経の方が焼き切れそうだ。


 静かに少年の様子を見ていたセレナが、一番が終わったところでとうとう弓を挙げた。少年とセレナの視線が一瞬交差し、ヴィロがリズムをとったところで二人の協奏が始まる。


 ――その瞬間。

 その場に居た者たち全員の目の前に、天へと架かる天使の梯子の幻が見えた。


 ヴィロは少年の声に寄り添い、重なり、そして変幻自在な音を響かせていく。メロディーと一体ユニゾンになったかと思えば、主旋律と離れてハーモニーを奏で、そして追いかけるようフーガにその声にじゃれつく。

 空へと駆け上がっていく輝く音の粒。そこにいるのは歌い手である少年一人とヴィロしかないはずなのに、そのハンデをものともせず旋律は幾重にも重なって教会の中へ響き渡っていく。


 セレナのヴィロのは――これは決してサリュートの負け惜しみではなく――史上最高というものではなかった。ヴィロの腕前だけでいうのなら、彼女の父親であるルドルフの方がよっぽど上だし、さらに言えば表現力においてもサリュートに及んでいるかも怪しい。そんなこと、サリュートはとっくの昔から見抜いていた。


 しかし、如何いかなる奇跡か。

 それが歌い手の声と結びついたとき、二つの旋律は本来以上の魅力を生じさせるのだ。セレナは歌手の表現したいことを的確に見抜き、それがもっとも美しく輝く背景を用意する。


「Ah〜、Ahh〜〜〜♪」

 歌のラストとなるヴィロと少年のコーラスが硝子を震わせる。魂を根こそぎ攫っていくかのような、暴力的とまで言える旋律の奔流。




(……なるほど、負けたよ)

 苦々しい敗北感を噛み締めながら、サリュートは曲が終わるのを予見してゆっくりと手を叩いた。

(これが君の、命を賭した最後の音楽か。その姿勢は確かに天晴あっぱれと言うほかない――だが)

 己には成し遂げられない音楽に打ちのめされながらも、じわじわと制御できない歪んだ笑いがその顔に広がっていく。


()()()()()。君の最後の音楽は僅かな人間にしか届かず、そして忘れられる。これで良い、これで……)


 ――もし、彼女がこの決死の音楽をもってサリュートの気を変えようと考えていたのなら。

 まったくもって愚かというよりほかない。サリュートは、彼女の才能を知ったうえで結論を出しているのだから。

 確かにセレナが命と引き換えにしてまで音楽を選んだことはサリュートの心に(うず)くような傷を与えたが……今日のこの日のことをすべて無かったことにして忘れてしまえば、それでおしまいだ。


「最期の演奏、見事だった。……では、処刑人を呼べ」

 さあ、終止符を打つときが来た。淡々とサリュートは告げ、周囲に緊張が走る。


 ――そのときだった。


 少年の歌が吸い込まれていった空から、静かに光の粒子が降り出した。太陽の光よりも明るく、けれど決して眩しくはない光。思わず空を見上げた人々の顔が、その光によって明るく照らされる。

 輝きはどんどん増していき、天窓から差し込む黄金色のリボンのような光は幾重にも重なっていく。音のない、光のオーケストラ。


 ――それは、間違いなく神々による奇跡の(あかし)であった。


「そんな……馬鹿な」

 その場にいる者全員の思いを代表するように、サリュートが小さく呻いた。目の前の景色を信じることができない。


 ――サリュートは、子供の頃からセレナのヴィロを見てきていた。彼女のそれが父親の才能を受け継いでいるのではないかと期待して。

 しかし、彼女はどこまでも凡庸であった。努力を積み重ね、着実な成長を遂げてはいたものの、音楽家として光るものは持たなかった。

 いくら伴奏役として歌手を盛り立てることが上手くとも。そしてそれがサリュートには叶わない才能であったとしても、その腕前が聖女の水準に達していないことは明らかなのに。


「どうして……」

 ――この凡庸な女に、聖女の力などないはずなのに。目の前のこの光景は、何なのか。




「聖女の奇跡は、その方が秀でている部門において発現します」

 混乱する場でおもむろに口火を切ったのは、ヴィロを持ってきた神官であった。こうなることを予期していたかのように落ち着いた声で、彼は淡々と説明を始める。

「歌声が美しければその歌に、描く絵が素晴らしければその絵に。……ですが」

 スゥッと息を吸い、神官は眩しいものを見るような表情でセレナに目をやった。

「特定の限られた条件でないと発現しない奇跡というものもあるのです。たとえば、ただ音楽に秀でているのではなく、誰かの音楽を支え、それを飾ることに秀でている場合などその最たる例でしょう」


「…………っ!」

 驚愕に目を見開くサリュートに注意を払う者はいない。皆が呑まれたように、その声に耳を傾ける。

「今までそれが発覚していなかったのも、無理はありません。彼女一人では奇跡は発現しないし、共に歌を歌うのが聖女であるために奇跡の光が現れてもそれは歌によるものだと思われてしまう。……しかし、今回のことでおわかりいただけたと思います。彼女は、断じて異端者ではありません。彼女は伴奏に特化した――歌い手の声を届けるヴェントの聖女なのです」


ヴェントの、聖女……」

 誰のものかもわからない呟きが、異端審問を見守る見物人の間から洩れた。

 もたらされた情報を頭で理解するまでに、しばらくの沈黙が訪れる。そんな中でやがて、パチ、パチと(まば)らな拍手が起こった。静かに佇んでいたセレナが、その音にゆっくりと礼をする。呆然としていた者たちも、その姿を見てハッとしたようにその手を鳴らしはじめる。

 そして最後には、雪崩(なだれ)のような拍手がセレナに降り注いだ。「聖女様、万歳!」と誰かが叫ぶ声に、吠えるような万歳三唱が響く。


 ――異端審問の場であったはずの室内は、まるでお祭りのような騒ぎとなった。




「困ったことをしてくれたものだね、サリュート君」

「エラキ司教……」

 そんな周囲にウロウロと視線を彷徨さまよわせながらも何もできずにいるサリュートに、エラキ司教はつかつかと歩み寄る。

「よりにもよって、聖女となるお方を異端審問で裁こうとするとは。いくら公爵家であっても処分は免れないよ、君」

「はは、ははははは……」

 乾いた笑いがこみ上げてくる。膝の力が抜け、サリュートは地面に崩れ落ちていく。


 自分の音楽を守りたかった。あいつの音楽を否定したかった。

 ――ただ、それだけだったのに。それが、どうしてこんなことになったのだろう。

 結局自分は……至高の音楽を目指すことはおろか、良き音楽を見抜く才能にすら恵まれていなかったということか。


「大聖堂まで同行してもらえるね? 君の処分も含め、今後のことについて相談をしなくては」

 促されて、のろのろと立ち上がる。見物人の間では新たな聖女誕生を祝う歌が始まっていたが、サリュートの耳にその音が届くことはなかった……




次回、最終回となります。

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