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「サイモン司教、お呼びでしょうか」

「ああ、セレナ。待っていたよ」

 急いで司教室へと向かうと、ゆったりと笑いながらサイモンがセレナを出迎えた。促されるままに椅子へと腰を下ろした彼女に、サイモンは柔和な表情で卓上の焼き菓子を勧める。


 小柄で少し猫背な彼は、見るからに穏やかで丁寧な人物だ。柔らかなシルバーの髪といつも笑っているような顔の深い皺は、彼の人となりを知らなくても確かな信頼感を呼び起こさせる。

 聖女だけでなくその伴奏者に過ぎない自分にも一定の敬意を払ってくれるこの上司を、セレナは慕っていた。

 教会の内部にいると、神職に就く彼らに対して幻想は抱けなくなる。嫉妬、権利欲、足の引っ張り合い……結局、人間社会である以上、どこも同じだ。

 しかし、サイモン司教はその中でも数少ない、尊敬のできる存在であった。


「これは後ほど皆にも伝える話なんだけれどね……」

 穏やかな声で、サイモンは話を切り出す。まるで春の陽気のような暖かい声色。

 男性にしては少し高めのテノールの声は、激情に左右されることなくいつも一定の控えめな速さ(モデラート)のテンポ。聞き手の気持ちを落ち着かせる柔らかなものだ。

 きっと子守唄(ララバイ)を歌わせたら、皆ぐっすりと眠りに就くことだろう。温かで、ゆったりとした揺籠(ゆりかご)の中に揺蕩うような心地。彼の人柄を表すような優しい響き。


 そんなことをぼんやりと考えるセレナの耳に、するりと次の言葉が飛び込んでくる。

「急な話だけれど、私の異動が決まったんだ」

「えぇえ、こんな中途半端なタイミングでですか⁉︎」

 何気ない調子で口にされた思いがけない言葉に、セレナは思わず驚きを露わにしてしまった。

 そんな彼女を諌めるでもなく、サイモンはゆっくりと頷く。

「それも、三日ほど前に一方的に通知が来ただけでね。ようやく公表できるようになったんだけれど……、週明けには新しい体制になるそうだ」


「そんな、突然……本当に残念です……サイモン司教の率直な感想はとても励みになりました。エイリーンも司教がいらっしゃる際には、普段以上の力を発揮していましたのに」

 教会関係者は芸術を奉じるというその仕事柄、音楽に通じていることが珍しくない。しかし、その中でもサイモンは際立って音楽を愛する姿勢を見せており、エイリーンやセレナとも積極的な交流を図っていた。

 その時に交わされた意見はセレナにとっても大いに貴重で、演奏の改善へと繋がることもしばしば。

 二人にとって、サイモン司教はただの上役ではない。僭越ながらも、彼は戦友のような……仲間意識すら感じる身近な相手であった。


「……でも、なんでそんな重要な話を私に?」

 驚きからふと立ち返って、疑問に思う。ただのイチ伴奏者である自分をわざわざ呼びつけて、彼は何を伝えようとしているのだろう。


 その質問にすぐには答えず、サイモンは手の中のカップに口をつけてひと呼吸おく。そして、ぽつりと呟くように言った。

「新任の司教はね、サリュート・アドラーというんだ」

 ぎくりと身体を強張らせたセレナをまっすぐに見て、サイモンは言葉を続ける。


「……君の、婚約者だよね」




「彼が、新しい司教に……? そんな、なんで……」

 動揺から覚めないセレナは、呆然と驚きの言葉を洩らした。

 婚約者であるサリュート・アドラーは、公爵家の三男だ。まだ三十代になったばかりで司教になるには若いが、確かにそれだけの地位に就任するに相応しいだけの家柄の男ではある。

 ……しかし、セレナは彼が司教職に就くことを決めたことが、どうしても信じられなかった。

 彼は音楽に魂を捧げ、王立楽団の一員に就任したことを何よりも誇りにしていた男だから。


「……どうやら、何も聞いていなかったようだね」

 サイモンの声に、はっと意識が引き戻される。

「すみません! 彼とはしばらく連絡が途絶えていて……何も聞いていなくて」

「そうか。婚約者なら何か聞いているのかと思ったんだけれど……急に呼び出してすまなかったね」

「いえ……お役に立てなくて申し訳ないです」


 身を縮めて謝ると、サイモンはいやいや、と首を振る。

「君が謝ることじゃないさ。……それにしても今回のことがあるまで、セレナ君がアドラー家と縁続きだとは知らなかったよ。貴族出身の職員はひと通り確認していたんだけれど……」

「ああ、私は別に貴族ではなくてただの平民ですから」

 さらりと答えれば、困惑を深めたようにサイモンの眉根に皺が寄る。

「平民で、公爵家の三男と婚約かい? しかし、身分を超えた愛というわけでもなさそうだし……」

 なにしろ婚約者の職場にやって来るというのに、それを知らせなかったのだ。仲睦まじい関係だとは到底思えない。


 セレナは困ったような顔で、顎に手を当てる。

「そうですね、彼はもともと私というより私の父に執心でして……」

「お父上に?」

「ええ。……音楽家ルドルフ・ミュラーという男をご存知ですか」

「もちろん。有名じゃないか! 当時の僕にはツテがなくて彼の演奏会に一度行くのがやっとだったけれど、それでもあの魂の震えるような素晴らしい演奏は今でも忘れられない! まだ若かったというのに、訃報を聞いた時は愕然としたものだよ……」


 悲しげに首を振って、サイモンはもう十年以上前となる彼の死を新鮮な感情で嘆く。

 そんな彼の反応を前に、セレナは気まずそうな顔で言葉を続けた。

「……実は、そのルドルフが私の父なんです」



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