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その姿に見惚れてそんなことを考えてから、セレナはかぁっと頬が熱くなるのを感じた。心臓がキュゥっと締め付けられるこの感覚は、初めて味わうのにどこか懐かしいもの……。苦しいのに不快ではなく、多幸感と共に不安がせり上がってくる。
「くそっ……元はと言えば、聖女の質を落とした教会側の責任じゃねぇか。覚えてろよ……!」
小物らしい捨て台詞を吐いて、酔っ払いはその場を去っていく。その背中を見つめながら、セレナは恐怖に強張っていた身体がようやく弛むのを感じた。あまりの安堵感に腰が抜けて立ち上がれない。
「セレナさん、大丈夫ですか?」
心配そうに差し出された手をありがたく握りしめて、セレナはなんとか立ち上がって礼を述べる。
「ありがとうございます。私の所為で、危険な目に遭わせてしまって、すみません……」
「いえ、セレナさんが謝ることではありませんよ」
――あれ? どうしてだろう、何故かライネルの顔を真っ直ぐに見られない。
「さっきは……」
格好良かったです、と言おうとして口籠もってしまった。……何故だろう、今まで口にできていたことが突然言葉にできなくなっている。熱も上がったようで、頭の中がぐるぐるする。自分は一体、どうしてしまったのか。
「さっき……? ああ、お話の途中でしたね。酒場の件、喜んでご一緒させていただきます。プライベートでセレナさんと出掛けられるなんて、嬉しいなぁ」
よくある、ライネルの軽口だ。それなのにセレナの心は、そんな簡単なひと言でたちまち舞い上がるよう に浮き立つ。
熱に浮かされたような心地で、え、とも、あう、ともつかない返事をなんとか口にした。
セレナのおかしな様子に気づく様子もなく、ライネルは男の去って行った方向を見て首を傾げた。
「それにしても……今の方はどうして、伴奏役をセレナさんのままだと思い込んでいたんでしょう? いえ、そういえば……」
話題が変わったことで少し落ち着きを取り戻したセレナは、ライネルの言葉に頷いてみせる。
「ええ。思い返してみると、今日の舞台はエイリーンにばかり照明が当たっていて、伴奏者の姿は見えないようになってましたね」
確かに主役は歌姫なので、伴奏役が目立たない位置に居ること自体はおかしなことではない。セレナもかつては、スポットライトの当たらない脇に控えて音を奏でるのが常であった。
しかし、先程の舞台はまるでサリュートの存在を隠しているかのよう。徹底して、彼の姿を出さないようにしていたのである。
「新司教によるヴィロ伴奏、というのを一時は大々的に喧伝していたはずですが……どうしてしまったのでしょう」
何やら不穏な気配を感じて、ライネルの声がワントーン低くなる。
「でも、確かにヴィロは、サリュート様の奏でる音でした。ただサリュート様の性格から考えると、己の功績を隠すということは考えにくいのですが……」
そう言って、セレナは首を傾げる。
――彼らは、知らなかった。
伴奏役が交代した時から、神々の奇跡に翳りが生じ始めていたことを。それが明るみになることで責任を自分に被せられることを恐れたサリュートが、エイリーンの歌が元の力を取り戻すまで伴奏役の交代を秘匿する方針に転換したことを。それ故に限られた者以外は、伴奏役が代わっていることを知ることができなかったのである。
顔を見合わせて少し沈黙してから、ライネルがゆっくりと首を振る。
「まぁ新司教のお考えはわかりませんが……もしかすると、今後もこのようなことが起こるかもしれません。セレナさん、これからはなるべく単独でのお仕事は控えて、僕と一緒に行動してください。仕事後のご帰宅や出仕もしばらくの間、僕に送り迎えを任せていただけませんか」
「そんな、そこまで甘えるわけには……」
「ご迷惑ですか?」
慌てて断ろうとするが、ライネルは引かない。正面から問いかけられて、セレナは断りの言葉を失う。
「いえ、迷惑じゃなくてライネル様の手をそこまで煩わせてしまうことが申し訳ないので……」
す、とセレナの右手を取ると、ライネルはまっすぐにセレナを見つめて静かに口を開いた。
「僕の居ないところでセレナさんが危険な目に遭うよりは、よっぽど良いです。ご迷惑でないなら――僕に、貴女を守らせてほしい」
「〜〜〜っ!」
さらにボッと顔が赤くなるのを感じた。その視線が、口調が、彼女の身体にどんどん火をつけていく。まるで魔法にかかってしまったかのようだ。
「あ、ありがとうございます……」
辛うじてお礼を述べると、これ以上顔を上げていられずセレナは俯いてしまう。
……だから、彼女は気づくことができなかった。彼女を見つめるライネルの、その愛情に満ちた眼差しに。
「それでは片付けを済ませて、『黄金の雄鶏亭』へと向かいましょう。エイリーン様に会えると良いですね」
「はい! 楽しみです!」
――きっと、何もかも上手くいく。
ソワソワと浮き立つ心に、セレナは根拠のない自信を覚え始める。エイリーンと会って、話をして、できるなら一緒に歌を歌って……明るい未来予想は、妄想となって彼女の頭の中でどんどん膨れ上がっていく。
――それがその夜には裏切られることになるなど、その時のセレナは予想もしていなかったのであった。




