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「セレナさん、顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」

「ライネル様……ご心配ありがとうございます」

 そっと会場を離れたセレナは、ライネルの優しい声に力なく微笑んでみせる。


「少し……リーンの様子がいつもと違っていたものですから、色々考えちゃいました。せっかく彼女の様子を見て癒されて安心しようと思っていたのに、今日の歌を聞いたら却って……」

 途中まで口にして、セレナは慌てて言葉を切った。今日のコンサートへの潜入は、ライネルが尽力して手配してくれたものなのだ。それなのに不満を述べるなんて、恩知らずにも程がある。

「いえ、なんでもないんです。今日はありがとうございました」


 言葉を誤魔化したセレナを前に、ライネルはすべて察しているように頷いてみせる。

「セレナさんの気持ち、わかります。聖女様はどうされたのでしょう……あんなに哀しげな歌ばかり歌うような方ではなかったのに」

 心配ですね、とため息と共に吐き出される気遣いの言葉。それがセレナの思っていたことと同じで、思わず共感の強い頷きを返す。

 ――自分の気持ちをわかってくれる。そんな彼の存在に、セレナの心に新たな勇気が湧いてくる。


「私……リーンに会いに行ってみようと思います。彼女、コンサートの後は『黄金の雄鶏亭』に歌いに行っているはずだから」

 それで、と深呼吸して言葉を続けた。胸に灯った勇気が、セレナの背をそっと押す。

「ご存知の通り、教会の教えで酒場に女性一人で入ることは禁じられているので……ライネル様、我儘をお願いするようですが、もしよろしければ今夜、『黄金の雄鶏亭』にご一緒していただけないでしょうか」

「それは……」




 ライネルの返事を口を固唾を飲んで待っていたところで、どん、とセレナにぶつかって来る者があった。その衝撃に、勢いよく尻餅をついてしまう。ラウンジから出てきたその男は、中で随分と酒を聞こし召してきたらしい。酒臭い息が頭上から降ってくる。

「失礼しました……!」

 ぶつかられた側ではあるが、慌てて立ち上がって頭を下げた。相手の身なりを見るに、男はコンサートに来ていた客……しかも恐らくは貴族であろう。酔いの所為か崩れた雰囲気こそあるものの、身につけている衣装は随分と立派なものだ。

 セレナを胡乱げに見下ろしていた酔っ払いは、少し考える時間を置いてから「おいアンタ」と、柄の悪い口調で話しかけてきた。


「アンタ、聖女様の歌の伴奏を担当してた女だろ」

「え? ……ええ、そうですね。と言っても、先月までで……っ!?」

 セレナの返答は、最後を待たずに唐突に途切れた。セレナが頷いたのを見た男が、まだ答えている途中だというのに突然、彼女の胸元を掴み上げたのだ。

 上背の差に、セレナの踵は完全に浮き上がってしまう。襟口が詰まって息ができなくなる。


「なんだ、今日の演奏は……! あんな暗い歌ばかり聴かせやがって……高い金払ってせっかく久々に聖女様の声を聞きに来たってのに、こんなの詐欺じゃねぇか! 俺たちに音楽なんてわからないとでも思ってんのか、ふざけんなっ!」

「っ……、っ!」

 男の言葉に反駁しようとするが、声が出ない。脳が酸素を求めて喘ぎ出す。視界が徐々に暗くなっていく。

 それは僅か数秒の出来事であったが、永遠にも感じられる責め苦であった。




「その手を離しなさい」

 冷え冷えとした声が、二人の間に割って入った。

 セレナを掴んだまま、気怠げに男は振り返る。彼の視界に映る、あまりにも凡庸で軟弱そうな丸眼鏡の神官。……それが弁えることもしないで、一丁前に自分に口を挟んできている。その態度が、男のかんに触る。

「ああん? なんだ、貴様は」

 外野は引っ込んでいろと視線で脅すが、神官に怯む様子はない。

「その手を離せと言ったんです、聞こえませんでしたか?」


 ――それはセレナが初めて聞く、ライネルの冷酷な声であった。

 それに怒号を上げようとする男よりも、ライネルの方が早かった。男に話を聞く気がないと見てとるや、彼は男の手首を掴み、セレナの襟元から叩き落とす。そして流れるような動作で、その腕を捻り上げた。

 身体が自由になり、セレナはどさりと地面に投げ出される。堰き止められた新鮮な空気が身体の中に一気に流入してくる。咳き込みながら必死で呼吸をしつつ、セレナは涙の滲む視界で頭上のライネルの姿を見上げた。


「くそっ、何をしやがる……痛ぇ……離せ……!」

 ライネルに腕を固められ、必死に身をよじろうとする男。しかし、ライネルはその手を離さない。

 ――ああ、そうだ。色んな仕事に携わっているライネルは、優しげな見かけの割に力が強いのだ。


「この野郎……馬鹿にしやがって……! 俺は貴族だぞ、こんなことしてタダで済むと思っているのか……!」

 酒臭い息を吹きかけるようにして男は恫喝するが、ライネルは怯まない。

「貴族であろうが、か弱い女性に暴力を振るう免罪符にはなりません。神々はご覧になっていますよ?」

 ――穏やかだけれど、いざというときは毅然とした対応の取れる頼れる人なのだ。


「うるせぇ!」

 無理矢理ライネルの腕を振り払うと、男は拳を勢いよく振りかぶる。


 その拳を。

「わからない方ですね」

 正面から受け止めて、ライネルは静かに言う。

「お引き取りくださいと言っているんです」


 ――嗚呼。彼は隅から隅まで、格好良い男なのだ。



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