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 エイリーンの透き通るような声がどんどん高く高く、昇り詰めていく。大気を震わせ、世界を動かす力強さを持った歌声。


 ――今日のエイリーン、随分ノっているわね。

 その声に共鳴するようにヴィロの弦を震わせながら、セレナは脳内で冷静に呟いた。


 伴奏者がそれに引きずられては、いけない。

 走りがちなテンポを抑えるように低音を正確に刻んで促しながら、エイリーンの歌声を引き立てるようにそっとその声に寄り添う。伴奏者は前に出過ぎても、歌姫(ディーヴァ)を暴走させてもならないのだ。


 セレナが演奏する弦楽器のヴィロは、十本の弦と音程キーにより、バスの厚みのある重低音からソプラノの繊細な高音までカバーできる優秀な楽器だ。

 しかしそのぶん扱いも難しく、右手で一定の力で弓を引きながら左手で繊細な音の調整を行うには、熟練の繊細な演奏技術が必要となる。

 また、鎖骨と顎で本体を支えるその姿勢は不安定で、慣れないうちは一定の音程を取ることすら不可能に近い。

 しかし、そんな難しい仕事をセレナは難なくこなして、エイリーンの歌を美しく飾り立てていた。


 その機能性の高さゆえに、かなりの重量感があるヴィロ。

 しかし彼女が手にしているそれは、吸い付くようにセレナの左顎と鎖骨に支えられ、その重さを一切感じさせずに小柄な彼女の身体にしっくりと収まっている。それはまるで、ヴィロが彼女の身体の一部であるかのように自然な姿だ。

 そうして誇らしげにヴィロはその音を響かせる。

 その伴奏に支えられて、エイリーンの声がどんどん彼方へと伸びていく。


 競い合うように絡み合い、駆け上がっていく二種の音。

 ――もうすぐ終盤のクライマックスだ。セレナは右手の弓を力強く引き、リズムが走らないように注意しながら観客の期待を煽っていく。


 最高潮の音は、外したのかと思われかねないほどピッチを高めに取った。歌姫(ディーヴァ)がこれだけノってる状態だと、本来の音より高く音を設定した方が声が伸びて盛り上がるのだ。

 歌姫(ディーヴァ)のエイリーンは彼方の向こうへその声を届けようとするように全霊を込め、最後の一音を高く高く歌い上げる。


 ――完璧だ。

 セレナの調整した音程は、エイリーンの最後のフレーズを導くのに一片のズレもなかった。

 ぴんと張った、一本のガラスの糸のような繊細で張り詰めた声が響き渡る。


 その美しい声を後押しすべく、聞こえるか聞こえないかのギリギリのところでセレナは薄く、細くヴィブラートを掛けながら和音の音を震わせる。


 ――永遠に続くようにも思われたその美しい協奏は、やがて空に吸い込まれて消えていった。




 その後に残る、しん、と妙に耳につく静寂。

 呼吸の音ひとつすら浮き彫りにするような偏執的な静けさに、時が止まったように会場中が息を詰めた。


 やがて、教会の天窓から眩ゆい光が何重にも重なって差し込み始める。そしてゆっくりと、黄金色の粒子が光と舞い遊ぶように降り出した。

 ――音のない、光の芸術。

 その美しい光はゆったりと回りながら、薄暗かった教会のコンサートホールの隅々を舐めるように明るく照らし出していく。


 見る者に呼吸すら忘れさせてしまうほどの荘厳な美しさ。

 奇跡そのものであるその景色を前に、人々はただただ見惚れることしかできない。

 やがて周囲をゆっくりと巡っていた光は、時間と共に徐々に薄れていき……そして、会場は静かに元通りの姿に戻った。


 途端、緊張の糸が切れたように、わっ、と客席から歓声が上がった。

 それと同時に、轟くような拍手がエイリーンに向けて降り注ぐ。

 その反応を受け、満面の笑みで観客に応えるエイリーン。その脇で、セレナは静かに顔を伏せて観客の熱が冷めるのを待つ。


 彼らの興奮は、なかなか止まなかった。

 やがて痺れを切らしたように、観客と演奏者を遮る幕が降りる。そうしてようやく、彼らの熱気は少しずつ引いていく。


 ――この日のコンサートも、そうして盛況のうちに幕を閉じたのだった。




○   ○   ○   ○   ○   ○   ○




「今日の私、すごく調子が良かったわ!」


 楽屋に戻ったエイリーンは、額に汗を光らせながらも晴れやかな顔でセレナを振り返った。

 興奮冷めやらぬ表情の彼女は、声も普段より5/4トーンほど高くなっている。その明るい姿は音楽用語で言うなれば、快活に、陽気な調子で(アッレグラメンテ)といった表現がぴったりだろう。

 エイリーンはその日のテンションで、声の調子がガラリと変わってしまう。自分の感情を歌に合わせることが苦手なのだ。そのため、その日の状態によって彼女の感情に沿った適切な曲を見極めることが重要となる。

 今回は静粛な聖歌ではなく流行のラブソングを中心に選んで良かった、とセレナは本日の選曲を振り返って頷いた。


 そんなセレナの満足げな反応を見て、ゆったりと唇を吊り上げるエイリーン。

 身体のラインに沿ったオフショルダーのマーメイドドレスに身を包んだ彼女が浮かべるその笑みは、同性のセレナから見てもドキッとするような美しく蠱惑的な表情だ。

 ゆるくウェーブの掛かった金髪は薄暗い楽屋内でも光を放ち、新雪のような白く汚れのない肌の上にはすっと通った鼻梁と、濡れるような大きなサファイアの瞳が完璧な配置で位置している。

 「神に選ばれた聖女」という言葉が、彼女ほど相応しい人間はそうそう居ないだろう。何度見ても眩しい彼女の美貌を前にして、セレナは静かに微笑む。

 エイリーンにかかれば、額に浮かぶ汗ですら彼女を飾る宝石になっていた。

 適当にひとつにまとめたくすんだ茶色い髪と、昏い深緑(ふかみどり)の瞳をした自分とは大違いである。それでも妬ましいという感情はまったく感じられず、セレナはただ眩しそうに目を細めた。


「昨日、()()にもらった蜂蜜レモンのおかげね! あんなに風邪をひきそうな違和感があったのに、もう全然そんな感じしないもの! 完・全・復・活、よ!」

 完全復活、の言葉に合わせて不可思議な踊りを踊りながら、エイリーンは得意満面の表情を浮かべる。


 その奇妙な動きに思わず吹き出したセレナは、目の端に滲んだ涙を拭いながら首を振った。

()()()ったら……! 貴女それ、絶対に殿方の前でやっちゃダメよ? 貴方の妖艶な美女のイメージが台無し! それじゃコメディアンじゃない。……まぁそれはともかく、貴女の体調が戻って良かったわ。絶対、そうだと思ったの。今日の選曲、完璧だったでしょう?」

 うんうん、と力強く頷くエイリーン。――その無邪気で少し幼い所作は、お互いを愛称で呼び合う二人の関係の中でしか彼女が見せない本質だ。


「すっごく歌っていて、気持ちが良かった! どこまででも高い声を出せそうな気がしたもの」

「ええ。神々の評価も高かったわね。伴奏者として、私も鼻が高いわ。さすが、聖女様!」

「もう……その呼び方はやめてって何度も言ってるじゃない、セラ」

 決まり悪そうにエイリーンは苦笑する。




 ――この国アルベルトの神々は、殊更に芸術を愛している。

 これは、国の内外に広く知られる事実であった。


 とはいうものの、神々の喜ぶ芸術を生み出せる者はほんの僅かしか存在しない。

 選ばれるのは芸術家の中でもごく一握り、真に才能に恵まれた女性だけ。その選ばれた者たちの為した芸術だけを、神々は愛するのだ。

 神々に選ばれた彼女たちは『聖女』と呼ばれ、教会の保護下に置かれる。そして、聖女たちは定期的に教会にて自らの作品を奉納し、神々を喜ばせる役目を負うことになる。


 なぜ芸術の奉納が女性に限られるのか。その謎は、いまだに明かされていない。

 一説には、生命を生み出す出産という奇跡を為す女性はより神秘に近い存在だから、とも言われているが……実際のところ定かではない。


 とにかく、それらの芸術に満足すれば、神々は光をもってその喜びを表現すると共に、国を豊かにする加護を施してくれる。

 ――そうして、この国は成長を続けてきた。


 芸術の範囲は、音楽、絵画、詩、文芸……と、多岐にわたっており、またその内容も高尚なものに限らず大衆向けのものまで多種多様だ。

 そのため、教会は神々に芸術を奉納するための様々な施設を有している。劇場、コンサートホール、アトリエ、書架台……神々の好む芸術に合わせて、その施設も多彩だ。

 また、神々の歓心を得るために、国を挙げて芸術の啓蒙活動も熱心に行われている。

 その甲斐あって、周辺諸国からもアルベルトは『文化芸術の国』として受け止められていた。


 ーー現在、この国にいる聖女は九人。

 その中でエイリーンは類稀(たぐいまれ)な美しい声を持って神々を慰めることから、『歌姫ディーヴァの聖女』と呼ばれていた。

 セレナは、そんな彼女の歌を支える伴奏役だ。もう五年以上前から、セレナは音楽だけでなく彼女の生活にまで寄り添い、サポートを続けてきた。

 今ではお互い家族よりも近い、無二の親友となっている。


「この調子なら、『黄金の雄鶏亭』でも良いコンサートができそう! ……それじゃ、そろそろ行ってくるわね、セラ」

「調子に乗って、明日の体調に響くような真似をしないでよ? 上層部は、貴女が市井に出るのを良く思っていないんだから」

 セレナの言葉に、エイリーンはやや苦い笑みを浮かべで肩をすくめる。

「貴族の方が見に来る教会の高尚なコンサートも決して嫌いではないけど、私、本当は盛り上がったら周囲も一緒に歌い始めちゃうような、気の置けない音楽がやりたいのよ。もともと小さな食堂の娘だったしね」

「そう言って……お目当ては、それだけじゃないくせに。……どうなの、貴女が最近気にかかるって言ってた鍛冶屋の息子さんとの関係は? 少しは言葉を交わせた?」

 少し意地悪く質問すれば、真っ赤になりながらもエイリーンははにかんで笑う。

「この前、歌が終わったあと小さな花束をくれたわ。彼、アンディって名前なんですって」

「っ! ちょっと、そんな進展があったなんて、聞いてないわよ⁉︎」


 ――恋バナは、女性の間では絶対に盛り上がる定番の話題だ。

 特にそれが大親友のかねてからの想い人の話であれば、食いつかないわけがない。

 次の予定が迫っているというのに、しばらく二人はその話できゃいきゃいと花を咲かせる。

「あっ、もうこんな時間! じゃあセラ、行ってくるわね! 明日もよろしく!」

「ええ、リーン。あんまり護衛騎士の方を困らせないように、時間には余裕をもってね? また明日!」


 あんなお転婆な彼女が世間では『妖艶な美女』と名高いのだから、世の中とはわからないものだ。ファンの方にこの性格がバレたら、幻滅されるのではないだろうか。

 そんなことを思いながら残されたセレナが片付けを進めていると、なぜか遠ざかったはずの足音がバタバタと戻ってくる音が聞こえてくる。

 何事かとセレナが顔を上げるのと同時に、バンッと勢いよく扉が開いた。そして、立ち去ったはずのエイリーンが突進するかのような勢いで楽屋に飛び込んでくる。

「セラ、ごめん! 忘れてたんだけど、そういえばコンサート終わったら自分の元に来るようにって、サイモン司教様がおっしゃっていたわよ!」

「っ、そういうことは先に言いなさい!」

 抜けの多い大親友の伝言に、セレナは慌てて楽屋を飛び出したのだった――




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