白くツモル結晶体について
本当はこんなところに来たくはなかった。
この冬一番の寒気は、雑多な町の色を白一色に染め上げた。膝まで積もった雪を掻き分けやっと辿りついた文化ホール。モノクロの外景とは対照的に、目が痛いほどに鮮やかな晴れ着の人垣。白い立て看板に赤い文字でこう記されている。
『成人式会場』
成人式を行う意味がよくわからないと、優輝は常々思っている。成人イコール大人になるということなら、大人の定義とは一体なんだろう。童貞を捨てたときか、自由にお金を使えるようになったときか、仕事で人に認められたときか――。きっと人それぞれ「大人」の形は違うはずだし、そうであれば大人になる時期も違うはずだ。それを福袋のように一つの大きな袋に詰め込んで、一括りにおんなじラベルを貼る。ペタリ、『大人』
そんな優輝を半ば強引に式へと引きずり出したのは、小中学時代の同級生昌広だった。
「お前さ、もし来なかったら、手紙は俺が読むからな」
「手紙?」
「何、お前招待状読んでないの?」少しあきれたように彼は言った。「憶えてないか?小学校の卒業式の時、手紙書いたろ。『未来の自分に出す手紙』、きっとアンジェラ・アキのパクリだと思うんだけどな。それを成人式後のパーティーで配るらしいんだ」
全く記憶にない。たかだか八年前のことなのに。
「でも、まぁ仕方ない。お前が来ないのなら、その手紙は俺が預かっとくよ。もちろん封を開けて、中身はその場で確認する。間違って他人のが入ってる可能性もあるからな。場合によっちゃ複数の目で確認するかもしれない」
その頃の自分が何を考えていたのか、今の自分に何を言いたいのか、正直それほど興味はない。所詮先生に書かされたものだ。読まなくたってわかる。母親が淹れるお茶くらいに薄い文章だろう。価値なんてない。だからといってそれが昌広の手に渡って良いかと言えば、それは別問題である。こいつのことだ、朗読とまではいかなくても、回し読みくらいはするだろう。そして暫くは事あるごとに穿り返して、酒の肴にするのだ。やれやれ。
そして今日、僕はここにいる。
*
晴れ着の着付けに戸惑ったせいで、式典ぎりぎりの時間になってしまった。円香は慌てながらも不思議な気分でいた。久しぶりにこの街に来たせいで、少し緊張している。珍しいことだと円香は思った。カメラの前に立つようになって、今年で七年目。名前のつかないようなドラマや映画の端役がほとんどだけれど、同年代の他の女の子と違って、カメラが回っても緊張することはあまりない。自分にはプロ意識が少し足りないかもしれないと、円香は少し悩んだことさえあった。そんな自分が、平場の生活の中で緊張をしている。いや、平場なんかではない。円香は自分に言い聞かせた。今日は特別な日なのだ。この成人式に出るために、市外に住む彼女は市に出席の承諾を得て、八年ぶりに帰ってきたのだから。そう、同学年が一堂に会する今日、この成人式こそが最大で最後のチャンスなのだ。
円香は会場の入り口で待ち合わせをしている、小学校時代から続く唯一の友人である仁美の姿を認めた。久しぶりの旧友の姿に心がじんわりと温かくなるのがわかる。なつかしい面々との再会は、円香がながらく楽しみにしていたことだった。
しかし、今日の本当の目的は別のところにある。円香はそのことを強く意識して気を引き締めると友人の下へ歩を早めた。
*
立ち話をするのもなんなので、優輝と昌広は早々に会場の席に着いた。二つの中学校区約五〇〇人の新成人がこの会場で式典に参加することになっている。つまり約半数とは同じ学校に通っていたことになる。中には小学校時代も含めて九年間同じだった人もいるわけだが、不思議なことにほとんどの人間の顔を認識することが、優輝には出来なかった。あいつは誰々であいつは誰それでといった具合に、昌広に言われて初めて、記憶と名前が呼び起こされていくという状況だった。そういえば昌広は昔から顔が広くて、男女問わず人気があった。どうしてそんな昌広が、さえない僕なんかとつるんでるんだろう。すぐ傍の通路を通る人たちから、次々と声をかけられる彼を見て、優輝は何となく居心地の悪いざらついた感情を抱いた。
会場の人ごみに知り合いを探す昌広の視線が、一点で止まる。そして少し低いトーンで優輝に耳打ちをする。
「おい、今入ってきた二人組の右側、花柄のほう。あれ女優さんじゃないか。」
「女優?」優輝もつられて声を潜める。
「そ、庄司円香。テレビとかにたまに出てるじゃん」
庄司円香。その名前を聞いて、胸の中をちくりと刺す懐かしい痛みを優輝は感じた。ありふれた言い方をすれば『初恋の人』という事になるのだろう。しかし、優輝には初恋特有の甘酸っぱい思い出がほとんどない。彼女とは特に親しかったわけではないし、ほとんど話しさえしなかった。今も昔も内気な優輝は、遠くからただ眺めているだけだった。そうこうしている内に、彼女は両親が離婚したとなんかで小学校卒業と同時に転校していった。そんな彼女が芸能活動をしていると教えてくれたのも、昌広だった。
「小学校の頃は、特に可愛いって感じじゃなかったけどな。今見ると確かにオーラみたいなのはあるなぁ」
それはお前に見る目がないからだよ、と心の中でつぶやく。彼女の真価を見抜いていた自分に、誇らしさを感じながら、優輝は八年ぶりの円香を目で追いかけた。
*
退屈な式典と新成人の記念撮影が終わると、別室でパーティーが行われた。パーティーといっても自治体が主催するもので、軽食とジュース類が並び、七・八年前に流行った曲がBGMで流される程度のものだ。
数百人もの若者が歓談にふける喧騒の中、円香は、ポーチの中に収められた紙片にそっと触れる。紙に書かれた文言、文字の形、すべて頭に入っている。私が今日までやってこれたのは、この「手紙」のおかげなのだから。
『拝けい 庄司さん
庄司さんは、今日で引っこししてしまうので、もう会えなくなるのがさびしいです。最近、庄司さんがすごくつらそうにしているのが、悲しいです。ぼくは、庄司さんの文化さいのときにやったげきがとてもいいと思いました。みんな、げきの中のかぐやひめをすごいと言っていました。庄司さんには人を喜ばせる才能があると思います。その才能で、庄司さんが幸せになってったらいいなと思います。
それではお元気で さようなら』
卒業式の朝、机の中に入っていた方眼ノートを破って書かれたこの手紙には、差出人の名前がなかった。けれど読んだ瞬間、円香は分厚い灰色の雲が割れて、陽が差してくるような温もりと安心感を憶えた。まさに三月、長い冬が終わりを告げ、春がゆっくりとした足取りで訪れたような柔らかくて優しい感覚。あの時、うれしくて笑いそうになるのを、必死にこらえた覚えがある。書いた人はこの瞬間にも、円香を秘かに観察しているかもしれない。平静さを装いながら、円香は差出人のことを考えた。文面からは親しげな印象を受けるけど、心当たりは全くない。少しお話もしたかったけれど、相手を探し出し言葉を交わすには、一日はあまりにも短すぎた。
二十年も生きてくると、人生に色々な分岐点があったことがわかる。今にして思えばだけど、あの時ああしてたから今があるんだね、って思える時、場所がいくつかある。もちろんいいことも悪いことも含めて。手紙をもらったことは、人生で初めてといっていいポジティブな分岐点だった。
ずっと子ども時代のことを思い出さないようにしてきた。それは家の中がうまくいってなかったからだ。小さい頃からお父さんはほとんど家にいなくて、そのことに苛立っていたお母さんは、何かにつけ私にあたった。理由は何でもよかったみたいだ。部屋にほこりが落ちていたり、少し帰りが遅れたり、洗濯物の乾きが悪いのを私のせいにされたこともあった。さすがに手を上げることはなかったけど、それ以上に、痛く突き刺さる言葉を浴びせられた。思い出したくないそんな言葉たちは、少しずつだけど確実に私を傷つけていった。傷ついた心からは、細かい灰色の塵みたいなのが噴きだして、火山灰みたいに私の中に積もっていった。火山灰に埋まった、どこかの国にある遺跡の冷たい風景を図書館で見たとき、私みたいだと思った。そのうち高学年くらいになると、お母さんも家にいない時が多くなっていった。きっと二人ともよそに好きな人が出来たんだって、小学生の私にもわかった。古い冷蔵庫のモーターが唸るだけの暗い一人きりの家。それが私の原風景だ。そして、小学校最後の冬、両親が離婚することを告げられた。私は雪のように積もった灰の中で、ただただ蹲っていた。
そんな私に、他人の、しかも男の子が優しい手紙をくれたのだ。しかも、無理を言ってやらしてもらったかぐや姫のことを誉めてくれた。こんな私をちゃんと見てくれてる人がいるんだ。そしてそれを伝えてくれる人がいるんだ。そう思うと、周りの空気が少し暖かくなるような気がした。
私は両親が離婚する時、どちらにもついていきたくはなかった。付け加えると、二人とも積極的に私を引き取ろうとはしなかった。結局、親戚の中で唯一といっていいほど私を可愛がってくれた東京の叔母の所へ行き、そこで本格的な子どもの劇団に入った。いくつかやってきたハードルもあの手紙を支えになんとか乗り越えてきた。
そして私はここにいる。そう、八年前の男の子を探しに。
*
「南小の人―!手紙を配りますので、こっちに来てくださーい」
幹事の新成人が、いくつかの封筒を手に大きく振りながら、呼びかけをしている。優輝のとって成人式にやってきたほとんど唯一の理由が、始まろうとしていた。
名前の呼び出しは、当時の出席番号順のようだ。そんなものとうの昔に忘れてしまっているから、いつ名前が呼ばれるか集中しなければならない。もし聞き逃して、手紙が昌広の手に渡る事態だけは避けたい。
「杉浦くーん、杉浦優輝くんいますかー」
呼ばれるや否や、ひったくるように受け取り、部屋の隅っこで壁を背にして封書を確認する。表面には右肩上がりの汚い文字で『杉浦優輝様へ』、裏面にはこれまた汚い文字で『杉浦優輝より』と書かれてあった。
それを手に優輝はしばらく考え込んだ。どうしよう、今ここで読むべきか…。それとも読まずに持って帰り、机の奥にでもしまっておくべきか。自分のことは自分がよくわかっている。どうせ碌な事は書かれていない。僕が思うに小学六年生の男というものは、全ての年齢構成、性別の中で最も馬鹿な生き物だ。しかも人物は杉浦優輝、推して知るべし、というやつである。
そうやって、自分で自分を馬鹿にしていると、また別の欲求が湧いてきた。当時の僕はどこまで馬鹿なのか。馬鹿は馬鹿なりに何を考えていたのか。それによくよく考えてみれば、これは今の自分に当てたメッセージである。きちんと受け取る責務が今の僕にはあるんじゃないか。
手近なテーブルに置いてあった鋏で慎重に端を切り、中の紙片をゆっくりと広げた。
『拝けい 杉浦優輝様
お元気ですか。ぼくは元気です。ぼくは今サッカーをがんばっています。ポジションはフォワードで、こないだも練習試合で点を取りました。しょう来の夢はプロのサッカー選手になることです。できれば近くのツエーゲンに入って、できれば日本代表にもなって、ワールドカップで活躍したいです。……』
サッカー、か。優輝はぼんやりと視線を天井付近に移した。確かにあの頃はサッカーにのめり込んでいた。それなりに自信もあったけれど、サッカー日本代表とは随分大きく出たもんだな。優輝は苦笑いした。
しかし……と、僕はここで八年前の僕に報告しなければならない。その夢は叶わなかったよ、と。中学二年のとき、試合中の接触プレーで、膝の前十字靭帯を断裂した。手術とリハビリを経て、再びピッチに戻ったのは怪我から八ヵ月後だった。頑張ったけれど、その間に奪われたポジションを後輩から取り返すことが出来ず、サッカー部を辞めた。苦い思い出だったけど、かえって良かったと思うようにしている。どうせあのまま続けていても、サッカーで飯を食っていくまではならなかっただろう。
『……あと、ぼくは英語が好きなので、外国にも行きたいです。出来ればイギリスがいいです。もしプロサッカー選手になれたら、イングランドでプレーしてみたいです。だからこれからも、いっぱい勉強したいと思います。……』
そういえば英語の塾にも通ってたな。再び優輝は遠い目をする。けれども英語が得意だった記憶は少しもない。高校に入る頃には、英語は模擬試験の足を引っ張る教科にさえなっていた。当然、海外に行ったこともない。
しかし、サッカーといい英語といい、つくづく欲張りな子どもだったんだな、と優輝は思った。だが、そこには読む前に抱いていた嘲りの気持ちはなかった。むしろ可能性を疑うことのない強い直線な光に心が痛んだ。なんだか今の自分が、八年前の自分を裏切っているように感じたからだ。
サッカーも本当に納得するまでやったか?必死になってしがみつくように続ける選択肢はなかったのか?英語だってそうだ。ちゃんと勉強したのか?海外に行きたい気持ちはもう捨ててしまったのか?
自戒の問いが次から次へと生まれてくる。もしタイムマシンがあったとして、八年前の自分が目の前に現れた時、僕は胸を張って彼と会えるだろうか。サッカー選手ではないけれど、英語も出来ないけれど、頑張ってるよと今の夢を語れるだろうか。
それは、きっと僕だけじゃないはずだと優輝は思った。今日、みんなは鮮やかな晴れ着やパリッとしたスーツを着て、華やかな舞台にいる。けれどこれは仮の姿で、僕にもみんなにも帰るべき日常があって、そこでは子どもの頃夢見た場所とは違う戦場があるのだ。みんな頑張っているんだと思う。十年後の自分に裏切られないために。
この中で、そんな子どもの頃からの夢を叶えてそうなのは――。優輝の目は、会場の参加者に忙しなく声をかけて周る円香に吸い寄せられた。
*
「ねぇ、仁美。次はどこ?」
円香の問いに、仁美は名簿を片手に会場に目を配る。
「あそこに、若杉君がいる。一緒にいるのは清水君ね。あそこ当たってみよう」
二人は、円香への手紙の主を探していた。もちろん、あの時の手紙はあなたですか、なんて訊く訳にはいかない。そこで二人が手がかりにしていたのが文字だった。円香の頭の中には、右上がりの拙い文字がインプットされている。今日、南小出身者は当時の手紙を持っている。宛名だけでもいい。その文字を見れば、すぐに分かるはずだと円香は信じていた。
「若杉君でしょ?お久しぶり。憶えてる?庄司円香です」
「おー、久しぶり。頑張ってるじゃん。こないだのドラマ観たよ。あの制服似合ってたね」
端くれとはいえ、芸能人に話しかけられて嬉しくない男はいない。
「ね、手紙見せてよ」
「えー、やだよ」
「宛名だけでいいからさ」
「そんなの見てどうすんの?」
「いいの、いいの」
円香と仁美は半ば強引に手紙を奪うと、その封筒に書かれた文字を凝視した。
「うーん、残念」
「えっ、何が?」怪訝な顔つきの若杉を円香は無視する。
「清水君も出して」
「お、おう」
差し出された封書を食い入るように見る。
「円香、どう?」
「全然違う。二人ともありがとね」
返事を待つ間もなく、二人は次の標的を探すべく、会場を見回した。
「もう知ってる顔ないなぁ」円香が自信無げに呟く。
「こういう時はね、男子に聞いたほうが早いの。顔の広そうな男子にね。おっ、あそこに大橋昌広がいる。あいつなら色々聞けるかも。ね、行ってみよう」
仁美は円香を引っ張り、一人の男に向かっていく。
*
『追しん ぼくには好きな女の子がいます。名前は書きませんがわかると思います。ぼくはその子に告白することができませんでした。ほとんど話したこともなかったからです。だから、手紙を書きました。その子のいい所とか元気でがんばってほしいこととか書きました。そこで八年後のぼくにおたずねします。そこにその子はいますか?もしいたら、ぼくのことだから話かけられないとは思いますが、その子が幸せかどうか確かめてください。そして心の中でぼくに教えてください。お願いします。杉浦優輝より』
読み終わると優輝は、再び円香に目をやった。彼女は今、昌広と話をしている。まるで弱い小動物のように、小さく縮こまっていた小学生の頃の面影はそこにはない。明るくて笑顔が素敵な、夢を叶えた女性がそこにいた。
聞いてるかい?大丈夫だよ。そっと優輝は呟いた。
優輝は成人式に来てよかったと思った。彼女の姿を見ることができたし、自分の立ち位置も見えたような気がした。そしてなにより八年前の自分との約束を果たすことができたのだ。叶えられなかった夢はあるけれど、この先新しい夢を見つけて、十年後の自分を創っていけばいい。そう思えるようになったからだ。
さて、得るものも得たし、気分も前向きになった。ここらが潮時だろう。優輝は壁にもたれた体を起こし、出口へと向かっていった。
出口の傍では、昌広と円香たちが話しこんでいた。目を合わせることもなく、優輝はその脇を通り過ぎていった。彼女の香水と彼の整髪料の香りが、刹那交じり合い、溶け合い、消えていった。その瞬間、周りの空気が他よりも、深く濃くなっていたことに、二人は気がつかなかった。
外ではまだ、雪が降っていた。優輝にはその一片一片の雪が、あの頃の想い出のように思えた。
雪はどんどん積もっていくだろう。そしていつかは溶けて消えていくのだろう。