回顧の波 【月夜譚No.147】
家の外壁に立てかけたサーフボードをそっと見遣る。それはあの時から変わらずそこにあって、違うことと言えば、風雨に晒されて塗装が剥がれかけていることだろうか。
数年前まで、彼はサーファーだった。自宅が海岸からほど近いということもあって興味を持ち、気づけばサーフボードを購入して波に乗るのが習慣になっていた。
波の上は最高に気持ちが良かった。潮の匂いに水飛沫、不安定なバランスに頼りになるのは足下のサーフボードのみ。波が作り出すトンネルの中を走る時の高揚感といったら、他の何にも例えられないくらい素晴らしかった。
だが、ある事件をきっかけに、彼は波に乗ることをやめてしまった。何もサーファーをやめるような大きな事件ではない。そうと頭では解っているのだが、どうにもそういう気分にはなれないのだ。
今はただ、庭に静かに佇むボードを見ることしかできない。
あの高揚感を、これから先忘れることはないだろう。しかし、波に乗ることもまたないのだろうと、ぼんやりそんなことを思った。