終末には青空を見に行こう
世界が滅びたのはなんて書き出すと仰々しくて笑えてしまうが、現実に起こってしまったことなのだからやはり世界は滅びたのだと書くこととする。おそらくこの文章を残している時点で世界に残っている人間はあと三人しかいない。そのうちの一人である私もこのあとには死んでしまうことを考えると、もう人類は二人だけしかいないのかもしれない。
あるいは楽観論者ならば残る二人が新たな人類のアダムとイブとして世界を再び救ってくれるだろうなんて安っぽい語りができただろう。だが、そんな甘い現実が存在しないことを私は知っている。反物質の漏洩から起こった世界規模の災害。そこから逃れるために外宇宙へ向かった一団と空間転移という未知の技術に託して彼方へと消えた人々はだれ一人戻らず。残った人々は限られた資源をめぐって争い。人類の生存に致命的な打撃を与えた。結果として人間は緩やかな絶滅を甘受した。それが少し前の世界だ。
数えるほどの人類は動物園で飼育される絶滅危惧種のように扱われていたが過去のような繁栄は戻らず。いまのようになった。私はその人類最後の代表である。代表と言ってもかつてのような王とか皇帝のようなものではない。単純に後片づけの責任者というだけだ。
人類の生きた足跡を何千年も先に残る記念碑を造り、世界の各地に残っていた反物質炉の解体と大量破壊兵器の処分。それを指揮した。それらの多くは有能な一人の人間と数多くのロボットたちが果たした。だから、私はずっと曇天の空とさまざまな工程がきちんと進んでいるかモニターを眺めていただけだった。
かつて太陽の没するところの無い大英帝国と呼ばれた国の首都は人類がどれほど減っても霧と雲に愛されていた。ひと月ほど前、最後の反物質炉を解体した彼女から「今日はまた霧ですか?」と訊ねられて見栄を張って「ロンドンだってたまには晴れている」と答えたが、その日も窓の外はいつもの霧と雲に覆われていた。
彼女は反物質炉の設計者だった。だが、彼女は一つも反物質炉を造ることはなった。彼女が設計者になったときには炉は廃絶されるべき忌むべきものとされ、かつての設計者たちは廃炉のための解体屋になっていた。だから、彼女の経歴は解体屋としてのものだけだ。
だから、最後の反物質炉の解体を終えたとき彼女がどうするかなんて分かりきっていた。
モニターのタスクを確認する。残されていた宿題はすべて終わっていた。人類の記念碑も完成。確認されていた兵器のすべてが廃棄され、炉は一台も残ってはいない。最後の代表が行うべき仕事はもうないのだ。これでお前は自由だと言われても何をしたいという思いはなかった。できることならもう一度だけ彼女と話したかった。だが、私たちは恋をするというには長生きをしすぎていたし、愛を語り合うほども親しくはなかったに違いない。役目が終わったら早々に自死するという彼女の選択が一番良いのかもしれない。
完全に機械化された右足に力を入れてデスクから立ち上がる。
どうせ死ぬのなら私を閉じ込めてきたオフィスではないところが良い。だが、少し歩いて気が付いた。私の人生において世界というのはロンドンのわずかな範囲だけでそれ以外の場所はデータだけの空白地帯だ。下手をすれば家とオフィスの道中しか知らないとさえいえる。
自分のことながら無味な人生だと笑えたが、すぐに少しだけ緩んだ口元を押さえた。周囲にはロボットくらいしかいないというのに変な見栄だ。ロボットたちは清掃用や作業用の効率特化した姿のものから人間そっくりに作られたものまでいるが人間ではない。そんなものたちに笑顔を見られたところで何の問題もないというのにつまらないことをしたものだ。
それでも仏頂面を取り戻して歩き出すと私と同じくらいに仏頂面をしたロボットがこちらの前に立ちふさがった。ブロンドの髪を市松人形のように切りそろえたそれは胸元には真っ赤な宝石があしらわれたブローチをつけてガラス玉のような目でこちらを捉えていた。
「大統領。なにか仕事をください」
「勤勉なことだが、私自身の仕事も今終わったところなんだ。君たちに頼むような仕事はいまもちあわ……」
持ち合わせていないと言いかけて私は一つのことを思いついた。
それはなかなか滑稽で私のセンチメンタリズムを満たすにはちょうど良いことだった。
「どうかしましたか?」
表情筋が機能してないのではないかとこちらが心配になる表情でそれは私の心配を口にした。
「青空が見たい。そこまで連れて行ってくれるかな?」
「命令が曖昧です。具体的にお願いします」
不満があるときに相手の目を見ない仕草が彼女に似ていた。このロボットはM-1R。おそらく人類が最後に製造した上位情報処理人型ロボットだ。解体屋の彼女が助手役にと製造の申請をしたものだ。外観をどうするか? と問いかけたとき彼女は「私に似せて頂戴」とやや恥ずかしそうに視線を外した。そんなくだらないことを思い出して私は彼女そっくりのロボットにポケットの中から取り出した車のカギを投げた。
M-1Rは慌てる様子もなくカギを受け取ると首を傾げた。
「場所は任せる。青い空が見られればどこでも」
「……分かりました。車を回してきます」
彼女が私の車しか停められていない駐車場へ向かうと私は建物の入り口へと移動した。気の滅入る黒色とガラスで覆われた建物に何十年通っただろうか。あまりに気に入らない外観だったので本気で改装をしようかと思ったがそのたびに自分が我慢すればいいだけだと諦めてしまったことをいまさら後悔した。
「大統領。お待たせしました」
心臓の鼓動のようなエンジン音と排気ガスをまき散らす私の車が玄関前に停車した。モーター駆動が主流になって二百年ほどが経っている。この車は二十世紀のコピーで本物ではない。もし、そのころに私がこの車に乗っていれば環境意識が希薄な大統領だと非難されただろうが、人類が三人となったいまでは環境汚染も何もない。
「では、頼むよ……」
M-1Rと言いかけて私はやめた。
「彼女、リリーナは君のことをなんて呼んでいた?」
「……それは必要なことですか?」
「必要なことだよ。せっかく女性とドライブするんだ。名前で呼び合わないと気分が出ないだろう?」
「ミリーです。彼女はよく言っていました。大統領は冗談のセンスがない。確かに笑えない冗談です」
そう言ってミリーはハンドルをきる。その表情は心底からつまらないという様子でリリーナもそんな風だったと私は苦笑いをした。そっくりに造ったから似ているのか。長い時間一緒いたから似たのか。それとも私の感傷というフィルタが似せて見せるのか。考える時間はたっぷりありそうだった。
「冗談のセンスなら彼女もなかった。二人でいてもまったく話が弾まない。おかげで仕事は弾んだがね」
「その割には嬉しそうですね」
顔に出ていたかと驚いたがいまさら隠すようなことではない。
「大切な人の思い出を話すというのは楽しいものだからね。君は違うかい?」
「確かにそうかもしれません。彼女の話をできるのは久々で……。こういうのを楽しいというのでしょうか?」
「一つのカタチとしてはね。楽しいにはいろいろある」
「他にもありますか?」
「あるさ。例えばこの車を運転するときにアクセルを踏む。エンジンがうなりをあげて加速する。自分とマシンが融合して自己が拡張されるような感覚とかね」
「それは機械と自分が接続されるのが楽しいという意味ですか? それなら大統領はすでに足や内臓の一部が機械に交換されています。わざわざこのような旧式駆動と繋がなくてもよいのでは?」
ミリーがアクセルを踏み込むとエンジン音が膨れ上がり楔から解き放たれたように車が加速する。対向車が絶対に来ることがない道を車が進む。
「リリーナと似たようなことを言う」
「彼女はなんて言っていましたか?」
「馬鹿らしい。そんなことのためにこんな車を造らせたの、だったかな。ロマンっていう奴が分かってないんだ。無駄なものにこそ本質があるんだ。楽しさという奴のほとんどは無駄だ。だが、無駄がなければ人間はここまで至れず。もっと早くに滅びていただろう」
永遠などは存在しない。だがわずかな平穏で穏やかなときというものは確実に存在する。
目的地に着くまで私たちはどうでもいい話を繰り返した。そのほとんどはリリーナのことばかりであった。おかげで彼女とドライブをしているというよりも娘と出かけている錯覚に何度も陥った。もし、私たちに娘でもいればこれくらいの生意気で無表情で変にプライドの高い奴になっていたかもしれない。
もしという言葉は魔法のようなものだ。
そうではないことは認めて、違う仮定を考えられる。
「つきましたよ」
車が停まる。小高い丘の上からロンドンは見えない。ずいぶんと遠くに来たのだろう。見えるのは繰り返されるのは緑の丘と平地のパターンのみだ。空は青空から夕焼けに向かう直前だ。頭の上だけが青を残して地平線は赤に染まりつつある。
「私の人生で一番遠い場所かもしれないな」
「もっと遠くへも行けますよ。私と彼女は東の果てまで行きました」
「それは私にとっては楽しい旅じゃないだろうな。墓参りは昔から好きじゃないんだ」
「……どうしてですか?」
無表情な顔とは反対に言葉はつまりかけていた。ミリーは分かっているのだろう。
「どうしてとは?」
「彼女も私の前で死にました。あなたもそうするつもりなのでしょう。どうして、あなたたちは死ぬのです。どうしていつまでも傍にいてくれないのですか?」
難しい話だ。
「私たちはどうしようもなく過去なんだ。今さえ生きてはいない。終わった種族がいつまでも残っている必要はない。君たちが次の人類になるのか。また別のものが取って代わるのかは分からない。だけど、私は私たちを模して造られた君たちがそうであることを願っている」
私たちがいたということを君たちを通してでも残せればそれもまた種を繋いだということになるだろう。もし、許されるのならこの無駄なわがままが残ってほしいのだ。
「なら私がいま話しているものは何ですか?」
「幽霊だよ」
「嘘です。幽霊なんていません」
「そうかな。いないよりいたほうがロマンがあるよ」
「でも無駄なことなんでしょう?」
「ああ、無駄だよ。だから楽しい」
「私は……」
言葉を発さないミリーに私は訊ねた。
「そういえばここはどこだったかな。自分の死ぬ場所の名前くらいは知っておかないとね」
「カムランです」
飛び切りの冗談だった。
私やリリーナではこういう冗談は出なかったに違いない。
かつてこの地に偉大な王がいた。彼が死んだ地こそがカムランの丘だった。私は人類最後の代表として王に比類することができただろうか。できなかったのかもしれない。だが、不思議と後悔はなかった。柔らかい雑草の上に倒れ込むと空の青は深い群青に代わり暗闇が近づいていた。
「週末には青空を見に行くと良い」
「それはどういう意味があるんですか?」
「少しだけ良い気分になる」
そう言って私は自らの人工臓器の機能を止めた。思ったよりも死はゆっくりしていた。もっと早く来るのだと思っていたので見たくないものさえ見えそうで視線だけはずっと空を見上げていた。青色が暗くなる。ようやく夜がやってくる。