一六五五
商店街から少しだけ離れた所に、その駄菓子屋はある。徹が「婆ちゃんの店」と呼称する、商店街と並んでお気に入りの場所。看板や店先に置かれている長椅子なんかはすっかり錆びついていて、一目見ただけではとても営業しているとは思えない。良く言えば老舗。悪く言えばオンボロの店だ。
古びた木とガラスの引き戸を滑らせ、徹は首を店内に突っ込んだ。
「いらっしゃい」店の奥で、掠れた声がした。「今日は一人かい?」
声が聞こえた事に安心して、徹は店に入った。薄暗い店内を声のした方へ歩いて行き、座布団の上で置物のように動かない老婦に「そう、今日は一人」と返事をした。
「ごめんね、閉店ギリギリに」
老婦は頭を動かさず、しかし穏やかに口角を上げた。徹が隣に腰掛けても、瞼を閉じたままじっとしている。
「なあ、婆ちゃんは殆ど目が見えないんだよな? 何で俺が来たってわかるの?」
「わかるとも。こんな小さい時から見ていたんだから」
徹が「婆ちゃん」と呼び慕うこの老婦は、徹の産まれる前から一人でこの店を切り盛りしている。多くの子供達にとって駄菓子屋といえば溜まり場であり、遊び場である。この店もその例に漏れず、近所の子供達から絶大な支持を獲得していた。
徹と姫紅は、高校生となった今でもよくここを訪れている。どこか懐かしいように感じるこの店の匂い、雰囲気、何より自分や姫紅を我が子のように可愛がってくれる「婆ちゃん」が徹は昔から大好きだった。
店内はまだ肌寒いが、老婦の近くは暖かった。老婦の側では石油ストーブが輝いていたが、きっとそれだけじゃないと徹は思った。
二人の後ろで、ドラム缶を叩いたような音が鳴った。柱に掛かっているのは、今では珍しくなってしまった、ゼンマイを巻いて動く振り子時計だ。その下でやや眩しく光を放つテレビでは、ニュースキャスターが真っ直ぐこちらを見て、午後五時を回った事を告げた。
「あ、また遅れてきたね。あの時計」
振り子時計が前回止まった際、徹は老婦の代わりにゼンマイを巻いた。この振り子時計はしばらくすると徐々に遅れてくる。それを知っていたから、徹は敢えて五分進めてセットしたのだが、古時計が示す時刻はテレビの隅に表示されているデジタルな数字とほぼ同じだった。
「もうすぐあれも止まるねえ」
老婦は薄く目を開き、古時計を見上げた。
やがて、老婦はゆったりとした動きで腰を上げた。徹もそれに続いて立ち上がる。閉店時間を少しだけ過ぎて、この駄菓子屋は眠りにつく。
この店が休みになった所を見た、と言う人は果たして存在するのだろうか。少なくとも、そう主張する人に徹は未だ巡り会えていない。この駄菓子屋は戦後すぐから続いており、その頃からずっと年中無休だとか。あくまで徹も噂で聞いただけで、真相は定かではない。
外に出るなり、徹は余りの寒さに呻き声を上げた。鮮やかな色に染まっていた夕日は、いつの間にか雲に埋もれてしまったようだ。老婦は「寒い寒い」と言ったが、表情は穏やかなままだった。
シャッターを閉める手伝いをしながら、徹は改めて看板を見上げる。赤黒く錆び付いてしまった看板に書かれた文字は、どの角度から見ても解読不能だ。故に、徹はこの店の名前を知らない。一度「婆ちゃん」に訊ねたことがあったが、彼女は微笑んで「さあねえ」としか言わなかった。
「じゃあ、帰るよ。また」
「気をつけて帰りなね」
老婦に手を振り、駄菓子屋を後にする徹。老婦は店の前に立ち、徹の姿が見えなくなるまでにっこりと笑って見守っていた。