一六一〇
「ほがらか通り」と書かれた看板をくっつけているアーチはもう何度もペンキで上塗りされている。徹が知る限りでも、もう三回。あまり色についてのこだわりは無いようで、黄色になってみたり緑色に染まってみたりと賑やかだ。現在は橙色なのだが、近づいてよく見ると所々ひび割れており、僅かに下地の緑色が覗いていた。お化粧の時期は近そうだ。
「おう! 徹じゃねえか!」
アーチを潜ってすぐ、徹は威勢の良い声に捕まった。惣菜屋「チャイム」の店主を務める、髭面に白いタオルを巻いた強面の親父の声だ。
「おっす、大将。いやあ、ちょっと腹減ってさあ」
眉を寄せて徹が笑うと「そうかあ」と言ってチャイムの大将も笑う。惣菜屋の店主が大将というのも些かヘンテコに聞こえるが、いわばこれは愛称のようなものだっだ。店長や主人と呼ぶよりも、大将という響きが彼には合っている。ガキ大将がそのまま大人になったかのような人だ。笑った顔を見ると、徹は特にそう思う。一見堅物そうに見えるが、笑う時は無邪気にくしゃりと顔を崩すのだ。人懐っこそうなその笑顔は、元の頑固そうな雰囲気とのギャップも手伝い魅力的であり、そんな彼のいるこの店は地元民にも長く愛されている。
「ちょうど揚げすぎたコロッケがあんだ。待ってろ、今包んでやるから」
「ホントに? やったあ」
常連の特権というやつだ。差し出された小さな紙袋を徹は有り難く頂戴する。
「……黒っ!」
袋をのぞき込んだ徹は、思わず声を上げてしまった。想像していたものとは余りにかけ離れていたからだ。徹が紙袋から取り出してそれを見せると、大将は不服そうに口を尖らせた。
「揚げすぎたって言ったじゃねえか」
「限度があるだろ! 何だよこれ!」
「コロッケだよ」
「黒ッケだよこれじゃあ!」
「コロッケだったんだよ」
「過去形になっちゃった!」
この国ではこの物体をコロッケとは呼ばない。これは消し炭である。
とはいえ、せっかく好意でもらった物をこのまま捨てるのも忍びない。それが食べ物であるなら尚の事。粗末に扱おうものなら、きっといつかばちが当たる。悩んだ末、徹は試しに半分に割ってみる。すると、焦げて固まっていた部分はうまい具合に剥がれてくれた。焦げた部分さえ取ってしまえば中身は普通の、それも温かいままのコロッケだ。
これなら食べられる。取り残した箇所がほんの少し口に苦かったが、徹は結局それを平らげ、大将に手を合わせた。「俺はお前のそういう所を気に入ってるんだ」一生懸命に焦げを取って食べる徹の様子を見ていた大将は、愉快そうに大口を開けて笑った。
大将に軽く挨拶をし、徹は店を後にした。さて、この後はどうしようか。ひとまず腹の虫は大人しくなったようだが、このまま帰るのも味気ない。せっかく商店街に足を運んだ訳だし、もう少しフラつこう。そう考え、何と無しに辺りを見回しながら歩いていると、徹は視線に気がついた。
「あ、やっぱり徹君だったのね」
目が合うなり声を掛けてきたのはエコバックを両手にぶらさげたいかにも主婦らしい女性。この商店街には、ほぼ毎日買い物に訪れる、徹と同じ常連さんだ。こんにちはと笑って挨拶をした後で、徹は少し引っかかった点を訊ねてみる。
「やっぱりって?」
「ああ、ごめんねえ」やや大げさに女性は笑う。「大将と話してたの、聞こえちゃったから」
大将の声は大きいだけでなく、よく通る事で有名だ。その声は商店街の端まで届く。お世辞にも広いとは言えないこの商店街だが、それを差し引いても人間離れした声の大きさだ。
「惣菜屋チャイムなんて良く出来た名前よねえ。誰が来たかなんて、すぐに解っちゃうもの」
確かにその通りだ。と徹は思った。向こうの方では、大将がまた別のお客さんと話しているのが聞こえる。この距離でここまで鮮明に聞こえていたとは。先程の会話も筒抜けだったのだろう。皆に来客を知らせる。まさに商店街の呼び鈴という訳だ。
「それに話している相手も相手だからねぇ」
目尻に皺を寄せ、女性は楽しそうに言った。
「ん? 俺?」
「徹君、目立つもの」
言いながら、女性はバッグから一冊の雑誌を取り出した。あまりメジャーではない、若者向けのファッション誌だったが、徹はその雑誌に見覚えがあった。
「娘がね、徹君が載ってるって大騒ぎしていてね? 私もそれを見て嬉しくなっちゃってね、つい買っちゃったのよお」
女性の指し示すページには、小さく、だが間違いなく徹の写真が掲載されていた。この前たまたま街で声をかけられ、写真を撮ってもらった。いわゆるストリートスナップという奴だ。まさか本当に載るとは思っていなかった為、徹は何だか照れ臭かった。
女性に手を振り別れた後、徹は商店街の徘徊を再会した。左に行けば店を営むおじさんおばさんに笑顔を向けられ、右を見れば買い物に来た主婦に捕まる。前を歩く警戒心の強い野良猫には今日も逃げられ、後ろから体当たりをしてきた生意気な子供達がいれば、大人げなく追いかけ回したりと、なかなかに充実した時間を過ごした。
徹とこの商店街との付き合いは、もう十年以上になる。幼い頃は特に、遊び場として姫紅と一緒にほぼ毎日訪れていた。様々なテナントが所狭しと詰め込まれた商店街は、徹にとっておもちゃ箱も同然だった。故に、この商店街に身を置く人で徹の事を知らないと言う者は一人もいない。そして徹も、この商店街の中で話した事の無い人は一人もいないのだ。一歩歩くだけで笑顔を向けてくれる。話しかけてくれる。居心地の良い、徹にとって特別な場所。それがこの商店街だった。
ふと見上げると、オレンジ一色だった空はいつのまにか薄暗くなっていた。さしものお天道様もこの寒さは堪えるのか、最近はそそくさと引っ込んでしまう。アーチと同じ色に染まっている時計台を確認すると、まだ五時にもなっていなかった。
「婆ちゃんは元気かな」
ぽつりと呟く徹。五時前なら、まだ間に合う筈だ。徹は歩を早めた。