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スキトオル  作者: 咲佳名
二月二十一日
7/42

一五四〇

 ぼんやりと机の角を見つめている自分に気が付いた。続いて、黒板をチョークで叩く音と皺枯れた声が耳に届いた。どうやらいつの間にか眠りに落ちていたらしい。徹はなるべく目立たぬよう体を伸ばす。そのついでに辺りを窺うと、自分と同じような体勢の生徒がちらほらと目に付いた。あの子犬っぽい女子生徒に至っては、ノートに涎まで垂らしている。


居眠りをしている生徒を気にも留めず、淡々と授業を進める初老の男性教諭をしばらく眺め、徹はようやく今が日本史の授業中だった事を思い出した。時計を見ると、授業が終わるまで間もない時刻。徹が寝ている間に日本はいつの間にか文明開化を迎えていた。時の流れのなんと早いことか。寝るつもりなんか無かったのに、と少しだけ後悔した所で丁度鐘が鳴った。


 気の抜けた号令に沿って礼をし、授業は終了。今日の日程はこれで全てだ。これから部活に行く生徒や勉強をするため残る生徒とそれぞれだが、放課後というこの開放感から表情は皆緩んでいた。その中でも一際緩んだ顔をしたわん子が覚束ない足取りで近づいてきた。


「んー……、つっかれたあー」


「あんた午後全部寝てたじゃない。ああもう涎、ほら」


 ハンカチを取り出し、姫紅がわん子を捕まえた。世話焼き少女にされるがままのわん子。顔を拭ってもらい少し目が冴えたのかきょろきょろと辺りを見回し始める。やがて、隣の空席を見つけたわん子が小首を傾げた。


「仁君は?」


 ぼんやりとしていて気に留めていなかったが、そういえば一体いつからいなかったのだろう。徹が目覚めた時には既にいなかったのかもしれない。彼はあれでも優等生だ。もし仁がいたのなら居眠りをしていた徹に小言の一つでもあるはず。机の上には教科書や筆記用具が放置され、通学鞄も残されたままだ。先に帰ったとは考えにくい。姫紅に目を遣ると、彼女も知らない、と首を振った。


「……あ」


 首を振って否定したその矢先だった。姫紅が目撃したのは、両の腕を女子二人に拘束され、バンザイのポーズをとっている、灰色パーカーを着た宇宙人の姿。


「すぐそこで捕まえました。グレイです!」


 楽しげにそう報告してくれたのは、隣のクラスの生徒達だった。確か、二人は女子バレー部のレギュラーだったと徹は記憶している。どちらも身長が高く、間の少年と並ぶと見事な凹の字。その姿は宇宙人を撮影したというかの有名な写真と完璧に一致していた。おもちゃにされているというのに一切の抵抗を見せない友人を、徹は呆れつつ二人から引き取った。


「お前さ、プライドとか無いの?」


「女の子と手を繋げるならプライドなんていらないさ」


 爽やかに格好悪い台詞を吐く仁。しかし、その後ろでは「えー、仁君ならいつでもいいのにぃ」と二人が体をくねらせていた。仁も仁で満更ではないらしい。振り向き、笑顔を返していた。それを見て、徹は歯を軋らせる。


「くそ、お前みたいな奴がいるからモテない男が出て来るんだ。独占禁止法はこういう奴にこそ適用すべきだ!」


「責任転嫁は止してくれ。そもそも、君だって充分整った容姿をしているじゃないか」


 ねえ、と仁はバレー部の二人を見る。同意を求められた二人は困ったように眉根を寄せた。


「徹君は……」


 彼女達は徹を、そして姫紅を順番に見て、それから互いに顔を見合わせた。


「うん、無理だよ」


「くっそおおお何故だあああ!」


 頭を掻き毟り絶叫する徹を横目に、バレー部の二人は手を振って去っていった。今日も、これから練習があるのだという。二人を見送った後で、姫紅も寄りかかっていた机からスッと離れた。


「さて、私もそろそろ行かないと」


「あ、そっか。今日委員会だっけ?」


 各クラスの学級委員長は、週に一度、会議に出席することが義務づけられている。会議と言ってもそれぞれ学年毎に集まり、一週間の出来事を報告しあったり、来週の予定を確認したりするだけの簡単なものらしいが。


「うん、じゃあ二人とも、また明日。徹、今日は寄り道しないで帰るのよ?」


 ピッと姫紅に念押しされる徹を見て、仁が「親子みたいだね」とコメントする。やはり外からもそう見えるようだ。友人達に見送られ、姫紅も教室を後にする。

  

「なあ、何かあいつ機嫌良くなかったか?」


 委員会へ向かう姫紅の足取りは、普段と比べて随分と軽かった。「姫紅は委員会が楽しみ説」も考えたが、今までそんな話は一度も聞いたことがない。疑問に感じた徹は二人にそう振ってみる。訊ねられた二人は初め虚を突かれたような顔をして、仁は苦笑、わん子は怒ったようにそれぞれ表情を変化させた。


「バレー部の子達とのやりとり、あれが原因だろうね」


 仁がそう教えてくれたが、それでは余計にわからない。姫紅は彼女達と話してはいないし、そもそも姫紅に関する話題すら上がっていなかったはずだ。徹が頭を悩ませていると、わん子に「徹君」と呼びかけられた。何だか妙に迫力のある声音だった為に、「はい」と思わず敬語で返事をする。


「調子に乗っていられるのも今のうちだからね!」


「えっ、何が?」


 徹に啖呵を切るや否や、ぷいとそっぽを向いてわん子は帰っていってしまった。長い付き合いなので何となく本気で怒ってはいない事はわかるが、何故そんな態度を取ったのかについてはさっぱり理解できなかった。徹が呆然と立ち尽くしていると傍らで仁が「やれやれ」と溜息をついた。


「……まあ、いいか。俺達も帰ろうぜ」


 わん子にしろ姫紅にしろ、それぞれについて疑問は残るが、考えていても埒が開かない。内容量の少ない、薄っぺらい通学鞄を拾い上げ、徹は仁に声を掛けた。どこかのものぐさ生徒と違い、仁の鞄は教科書類で大きく膨れている。同じ学校指定の鞄のはずが、厚みは二倍程の差があった。当然、準備にも倍の時間がかかる。徹が待ちくたびれてきた辺りで、仁は「ああそうだ」と言って鞄から何かを取り出した。


「よかったら飲んでくれ」


 手渡されたのは、一本の缶ジュースだった。


「ん、いいのか?」


「うん。一応お返しのつもりなんだ。この前、君に奢ってもらっただろう?」


「そうだっけ?」


「そうだよ」


 自身の記憶がいまいち信用できない徹だったが、まあ損はないか、と結局プルタブを開けた。カシュ、とアルミ缶特有の心地よい開封音を立て、同時に溢れてきた泡が徹の指先を僅かに濡らす。慌てて口元に運び、そのまま傾けると、爽やかな甘さとシュワシュワとした炭酸水独特の刺激が喉の奥へ駆け抜けていった。そして飲んだ後は、その喉を突き刺す刺激の強さに涙を浮かべる。堪らない。炭酸飲料が徹は大好きだった。一人、炭酸飲料の魅力に打ちひしがれていると、仁に「ビールを飲む中年親父のようだ」と小馬鹿にされた。


「ところでそのジュース、美味しかったかい?」


「うん? ああ、美味かったけど」


「それ、新商品だったんだ」

 

 なるほど、言われてみれば見慣れないパッケージだ。薄い水色の缶にはアルファベットで「CLEAR SODA」とプリントされている。変な質問をするな、と不思議に思っていた徹だたが、これで合点がいった。


「つまり俺を実験台にした、と」


 随分と舐めた真似をしてくれる。徹が静かに拳を握りしめると仁は「ごめんごめん」と笑いながら一歩後ろに逃げた。お返しが聞いて呆れる。なんて調子の良い奴なのだろう。


「何にせよ、美味しかったなら良かったじゃないか。僕も一口貰おうかな」


 そう言って伸ばしてきた仁の手を、徹はスッと避ける。呆気に取られている仁の目の前で、徹はジュースを一滴残らず飲み干した。


「悪いな、空っぽだ」


 徹が軽くなった缶を振って見せると、仁は笑って「それは残念」と言った。


 仁の家は学校から結構な距離にあるらしく、彼は通学にバスを利用している。校門の目の前にはバス停があるため、仁と徹はいつも校門で別れる。バスに乗り込むタンポポフードの少年に手を振り、徹も帰り道を歩き始めた。その矢先、ぐう。と、腹の虫が鳴いたのは、五歩目を踏み出した時だった。  

 

「ふうむ」


 腕時計を確認すると、短針は真っ直ぐ四を指している。姫紅が晩ご飯をこしらえてくれるのは、およそ二時間後だ。それまで耐えられるか? 自分の腹に手を当ててみると、ぐうう、という何とも情けない返事が返ってきた。


 仕方ない。徹は進路を変更する。向かう先は、商店街。


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