五等分の花嫁2
1つの作品で真理に気がついたときは面白い。それが主従逆転するのは面白くないし良くないと思う。見方が評価が目的になるのは良くない。あくまで評価は副産物であるべきだ。こういう作品を評価眼を養うために見ておかなくてはいけないって人が多いが、それは邪道だと思う。もちろん芸術においてそれは重要だが、漫画文化の評価においてそれは邪道だ。
その真理とは?この作品全く切れが無い。初回で書いたように深夜においては流行おくれのハーレム現代物ラブコメになる。すぐに指摘したが、家庭教師の部分が重要だと書いた。だがその期待見事に裏切られた。すべてにおいて中途半端。
だがなんだろう見終わった後時間を損したって気分にならなかった。まだまだ決定じゃないが、取りあえず切る気は無くなった。取りあえずで書くがその取りあえずはとても重要だと思う。この先そこからバランスを崩してみるんじゃなかったとなる可能性はある。だが、大半の漫画アニメはこの領域じゃないと話しにならないんだ。
えなんで?それが気軽に見れる事の代償だと言って良い。山が低ければ達成感も当然低い。それでも最初に背負うリクスが低くて、その程度の気持ちよさはちゃんと得られる。それで良いんだ。一昔前の芸術文学系のオタクがアニメ漫画評論を駄目にしたと私は見てて、駄菓子屋の楽しみをミシュラン的に評価されても困るんだ。
この先駄目になるかもしれないものを書く?そうだそういうギリギリをいつも私は見てるんだ。本来余裕を持って飛びぬけたもの以外残さなければ良い。でもそれって気軽に楽しむってものじゃないんだ。過剰な期待を持ってしまう。まどマギなどの盛り上がりがそれに当たると思う。如何にもオタク的だ。いや違う漫画文化がもっと広いのはそういうものじゃ無いからなんだ。だからこの先駄目になってしまっても良い。
その真理とは?誰が=キャラが何をするか?で内容がショーも無くてもそこそこ楽しめる。家庭教師=んまー勉強系って雑に括ればジャンル的にある。ドラゴン桜ちょっとしか見てないが、あんなのになる。他にもあるだろう。暗殺教室はちと違う、あれはキンパチ先生とかの系統でGTOもそれでヒューマンドラマが軸になってる。
学園者って数が多いくせに、意外と勉強そのものを扱うって学園物では特別なジャンル的になる。
その中でははっきりいってしょーもない。だが可愛さをベースとした魅力あるキャラがそれをやると意外と楽しめる。自分でも分かってるんだこれはどっちも中途半端だと。だが結果は違うんだだからその間を埋めると、これ相乗効果じゃない?となる。分かりやすい例だと、そのうちキャンプの切れがキレキレだったのがゆるキャンになる。ああいうのは誰でも分かるんだ。
私しか無理?ならそうかもしれない。逆張りの理論じゃない。人と違う事いっていつか当たる詐欺師ってのがある。当たらなくても、当たった時目立つので多くの人とずれたことばかりずっと言えば良い。狙ってるのも居るが天然の天邪鬼も居る。トータルで見ないとこの人達につい騙される。大穴馬券でトータルでは損してる予想屋のようなものに騙されるって話しだ。
だから当たり前の事を同時に言えない逆張りばかりには論の価値が無い。捻くれて言ってるんじゃない。漫画文化って過剰な期待で楽しむものじゃないんだ。それはなろうを紐解く事にも繋がる。