キャロル&チューズデー3
この作品評価するタイプに評判が良い。ただ見るだけの人とどうも集団が違うようだ。そういうのがいろいろと作品の評価を歪めている。そこで分離すると知るべきだ。本来なら分離が良くないと思うが、事実そうなってしまう以上それを知ってるという事で済ませるしかない。なのに大半の人間がそれを知らない。
なろう=評判が悪いと素直にしてしまう。ただ眺めるだけの人に対して、感想が極端に少ないのはなろうの作者が一番良く知ってるだろうに、それに文句失意を述べてる時点で既に心が理解したがってないとしてしまう。そういうものだと諦めれば終る話なのに。
で何故評価が高いのか?原作とアニオリを区別し無いからになる。原作作品が非現実的な作品で質の高いものがすでに埋まってるため、ニッチを狙ってアニオリはそういうのを避けるんだ。これを戦略と見る事も出来るが、長い目で見た時これは問題だと思ってる。近視眼的な逃避だと見ている。
受け手が数多く溢れてるから裂けたい作品=非現実的作品。そのため現実的なスキルによって作られる作品は評価も高いし希少価値から楽しむ人も多いんだ。だがそれを乗り越えて、現状これじゃ駄目だと作り手の能力の問題を見据えれる人が皆無。これで批評なんて出来るのか?と疑問に思う。
前も思ったが、今度もまたヘッジファンドとAIという話になって、AIの意味がさっぱり分からない。曲がAIと絡んで出来ました。それを人間の歌い手が歌いました。それを聞いて投資家が投資しました。この話のどこにAIによる音楽産業が発達した世界による刺激が得られるのか?となる。
話にならないレベルだ。しかももう2回目やらかしてる。だがこの作品はそれを無視すれば楽しめてる。それは事実だ。いい加減飾りだとして無視したらどうか?となる。ならそんな機能して無い虚飾最初からいらないんだ。
2つの大きな問題がある。1つは非現実的な話が作れない。問題は作れないにあって、敢えて作らないじゃない。ニッチを戦略的に狙うのは反対じゃない。それは作れるけど合えて作らないなら賛成なんだ。作れないから作らないじゃコレは無能ゆえの逃避だ。次に、この作り手のセンスが古いSFのセンスに留まってる点だ。分かってる人は分かってるが、過去にSF作品で栄光を掴んだ作り手の作品だ。
別にこの人がこういう作品を創る事に反対は無い。だがこの人を押しのけて今風の作品が作られれば多分この企画は消えるんだ。消えないのは、他に台頭する若手の新しい作風の非現実的話しを作れる人が育って無いからだ。
誰もがブラックアニメ業界を救いたいとか言ってるが、原作もちは良いが、アニオリに関しては私は否定的だ。面白い作品を作っても売れないのは知ってる。だが逆につまらない作品は売れないんだ。最低限面白くなくてはいけない。
これ面白いじゃない?違う、単に他の優れた作品がまたこれかと言う煩い評論家気取りのネット評価者に評判が悪いからだ。アニメ業界の問題よりも最近は受け手である評価を下す人間の能力の低さが問題だと思えてきてる。もちろん、シンプルな受け手として単純に面白い面白くないで良いのだが、それにはその立場に甘んじてない偉そうな人間が多すぎるんだ。
この作品の刺激の大半は似たタイプの作品が単に溢れてない希少価値が大半だ。当然私もそれに縛られてる。だが面白い面白くないで私はすべてじゃない。そこだけは書けていると思う。当然それに縛られてシンプルに楽しめてる部分を歪めて書いても居ない。楽しめてるが問題だと変な文章を書いてるんだ。
私はズットこういう物言いをしている。結果論的な面白しろさが長い目で見た因果関係と絡む作る能力の問題を隠蔽するからだ。長い目で見てアニオリが成功しないのはある意味当たり前なんだ。評価者がそういった部分まで突っ込んでみる批評が出来ないからだ。金に払う人が見てつまらないものを作って売れなくてブラックなのは仕方ないのじゃないか?と私は思うのだが。