賭ケグルイ
今回は前置きが大事。以前から感じていた違和感。賭け狂いなのに内容なイカサマばかり。博打のものは、麻雀放浪気もそうだがイカサマを描くものが大半。何故か?その方が多分大衆受けするからだと思う。博打で勝つのは基本無理、仮に出来たとしても、それはごく一部に限られる。じゃその限られた技量を受け手である大衆は楽しめるのか?なら苦しい。博打で勝つと言うのはその大衆から一部の分離を生むケースが大半だからになる。
だが、それだけだろうか?根本的に創作と言うのは、いろいろな価値を考えなくてはいけない。リアルに根ざしたものでそれを文字化するという作業が文学の根幹にあり、その芸術性の競い合いになるかと思う。だが映画的大衆娯楽、漫画アニメと言うのはそれだけで良いのだろうか?全く違って嘘でもリアルでもとにかく楽しい時間の提供。
そうなってくると漫画アニメに必要とされるのは文学などの方向性とは全く違うのじゃないだろうか?文学にリアルな真実を文字に起こす力が必要で、それは哲学者のような洞察力だったりするのかもしれない。それとは全く違う能力、嘘を真実を思わせるだけの表層の力、すなわち詐欺師こそが漫画アニメの作家の本質じゃないだろうか?
どちらが上下なら強い刺激は多分文学の方だ。だが必ずベストだけが追い求めるのが価値なのか?それは違うと思う。ベターであってもベストと決して交わらずにいる価値があっても良いと思う。そしてベターの中だけに留まった最高点、すなわち芸術的詐欺はやはり芸術的なのではないだろうか?
交わらないようで交わる価値。直接的にリアルや真実で交差させると必ず上下が決まる価値が敢えて同じ基準にせず隔離する事で同質の些最高点で較べた場合、虚飾も芸術だと私は思う。
いかさまばかりだが、受け手が楽しめれば良い、そう割り切ったそこにテーマなど存在し無い詐欺師の技量もまた芸術足りえる価値だと思う。そういう意味では高水準の作品だと思う。それにいかさまと言うリアルは実現できてる気がする。タイトル詐欺だが。
だが補足としてこのタイトルは詐欺ではない。精神論としては間違ってない。問題は昔から言われるが、高いレベルの精神は日ごろの地道な技量の積み重ねの上に宿る、その過程をすっきりすっとばしてるからこの作品は偽者なんだ。