4、
家に帰り、また少し眠った。いつの頃からか私はすっかり夜型になっていた。昼間、散発的に睡眠を取り、陽が落ちれば一晩中、ピアノを弾いた。天窓から入る星明かりや月明かりの中で。あるいは、星や月のない暗闇の夜でも指先を頼りに。
皮肉なことだが、まるで吸血鬼のような生活リズムだった。
それから数日、少女は毎晩やって来た。
板を打ち付けた窓の向こう、少女がどのような姿で、どのような表情で歌っているのかは分からなかった。だが歌声はいつも、ひどいものだった。
小休止の間、私は窓の前に立ち、打ち付けた板越しに少女と話した。
ある時、私は言った。
「耳か?」
「……」
「人間の音楽は人間のためのものだ。
どんなに素晴らしいメロディであろうとも、受容する耳が違えば楽しめなくなることもある。同じ音を、心地よいと聞く生き物もいれば警戒すべきとして聞く生き物もいる。そもそも聞こえる音域すら違うこともある。
人間と違う聴覚の生き物には、人間の音楽はそもそも響きはしないだろう」
「猫」
「?」
「猫に、音楽を聞かせたことがあります。
あのときは、どうしてちゃんと聞いてくれないのか分かりませんでした。
言葉は通じなくても、音楽の素晴らしさなら通じてもいいはずなのに、と」
「……あいつらは、例え耳が同じでも音楽の素晴らしさが通じるとは思わんがね。聞くだけの知能がない子供と同じだ」
ふふ、と、少女の笑う声がした。「先生は猫がお嫌いでしたよね。猫は先生がお好きなようでしたけど」
「きっと私の目が細いからだろう。
猫やその他にとっての親愛の情の一つだとか。迷惑な話だ。私の目はこれが普通なんだ。好きで細めてるわけじゃない。なつかれても迷惑だ。かといって、邪険に扱うのも私の流儀ではないし……。
いや、なんの話をしていたんだったか。そう、耳の話だ。
君の耳は、変わってしまったんだな」
「……」
「私の声は、君にはどう聞こえている?」
「……」
「私のピアノは、君にはどう聞こえている?」
「……それでもわたしは、わたしの耳に音楽が心地よく響いていたときのことを覚えているのです。
それを思い出させてくれるのは、先生の声とピアノだけなのです」
「……」
私は、何があっても音楽を愛し続ける。そう思っている。
だが、想像を超えた『何か』があったときのことを本当に保証できる人間などいるだろうか。『何があっても変わらず思い続ける』とは結局のところ、実際に『何か』が起こって岐路に立たされるまでは、自らの理想を語る言葉でしかない。綺麗な謳い文句でしかない。そのくらいのことは、私にだって分かっている。
私はただ、それでも理想に殉じたいと、そう思い続けているだけ。
耳が聞こえなくなっても音楽家であり続けたベートーヴェンのように。
私は凡才だが、愛することだけは続けると誓っていた。
だが、このとき、少女の言葉を聞いて思った。
私の愛は、この少女の愛に勝てるだろうか。
「次の曲を、弾くとしよう」
私はピアノへと向かった。