2、
その歌声は、ひどいものだった。
何年も声を出していなかった人間が、耳をふさぎながら、がなり立てているような。音程はまるで調律されていない楽器のようだった。
だが、その声には聞き覚えがあった。
少女の声。
私はピアノを弾くのを止めて歌声に耳を傾けた。
歌声は伴奏がなくなったことに気づいたらしく、少しの間弱くなったが、その後また、がなり立て始めた。
神に悪態をつくように。
私はピアノから離れ、板を釘で打ち付けていて向こうが見えない窓に向かって立ち、怒鳴った。
「なんだ、その歌は!
君は学んだことを全て忘れてしまったのか。
私が君に教えた音楽は何処に行ったのだ」
少女のひどい歌声は黙り、それから、窓を締め切った板の向こう側に近づいてくる気配がした。
枯れた声がした。
「先生。
本当に先生なのですか?」
弱々しくはあったがその声は確かに、私が覚えている少女のものだった。
「ああ、私だ。
君にまた会えるとはな。
考えてもみなかった」
「わたしもです。先生。
生きて、いらっしゃったんですね」
何か、ひどく迷うような気配がして。
それから少女の声が言った。
「先生、わたしを中に入れてください」
思わず、招き入れてしまいそうになった。
ああ、それは甘美な誘いだった。私はどんなに自分が話し相手に飢えていたを唐突に思い知った。私のピアノを聞き、私の言葉を聞く人間がいることがどんなに嬉しいことか。私は人間嫌いだったが、孤独に強い人間では決して無かった。
だから。
ああ、入りたまえ、と。
そう言いそうになって。
そこで、当然気づくべきことに気づいた。
彼女は、『外』にいた。
もはや人間などおらず、吸血鬼とゾンビが我が物顔で歩く外に。
「君は、吸血鬼だな」ゾンビは言葉を話さない。消去法で残るのは吸血鬼。
「……」
「私は君を中に招かない。
誰が自らの死を招くものか」
「……」
吸血鬼の数ある奇妙な特徴の一つ。許しを得なければ、人間の住居には入れない。それは、私がこれまで吸血鬼の手を逃れてこの家の中でなんとか生きながらえてきた理由の最たるものだ。
それが分かっていながら、彼女を招き入れることなどできはしない。
すると、しばらく彼女は沈黙していたが。
言った。
「では、ただ、わたしがここにいるのを許してください。
閉じた窓越しに先生の音楽を聞いて、昔を思い出すのを」
今度は、私が黙る番だった。
彼女は本当に吸血鬼として私を襲うためではなく、ただ昔の友好を思い出して中に入りたいと言ったのだろうか?
だとしたら、私は心の狭い行いをしたのだろうか。
……いや、そんなことは考えても仕方あるまい。
「勝手にしろ」
そう言うと。
「はい、ありがとうございます」
と、彼女は言った。
「だが先ほどの声はどうしたのだ」
と、私は聞いた。
「君の専門はフルートだったが、しかし歌声だって悪いものではなかったはずだ。
それが何故あんなにも、ひどい歌を歌うようになった?」
「……」
「どうした?」
「先生は、どんなことがあっても音楽を愛し続けるとおっしゃっていましたね」
「ああ、言ったな」
「わたしも、愛し続けられればと思っていました」
「?」
「ピアノを弾いてくれませんか。できれば賛美歌を」
「……分かった。いや、よくは分からないが、君の望みに応えよう」
私はピアノの前に戻り、鍵盤に指を置いた。
賛美歌。
かつて私は、教え子たちに賛美歌を何度も弾いて聞かせたものだ。もちろん彼女にも。敬虔な信徒でもあった彼女は特に、賛美歌を好んでいた。
指を走らせ、奏でると、壁を挟んだ外から彼女の歌声が聞こえた。
先ほどよりはマシだが、やはりひどい歌だった。悲鳴のようだ。盲人が嘆きながら道を探しているようだ。耳を塞いだまま歌っているかのようだった。