3 再開
翌日。
夏の暑い日差しがまだ新しいアスファルトを照らしている。
村のあちこちに点在するように残されている、森や林からは蝉の鳴き声が絶えず響いている。都市開発の影響なのだろう。
昔は緑で溢れていた村。
今や、田畑は半分になった。昔なつかしい古民家作りの家は、田畑の間に点在したまま。それとは別に都会からやって来た研究所の人達の為に、大きな道路や住宅街が出来始めている。
和花は半袖に半ズボン、足にサンダルを引っ掛け、長袖のパーカーを羽織って、道を歩いて行く。黒髪は今にも燃えそうなくらい暑い。露出していないはずの肌も焼かれているようだ。
この日差しの中を、和花はポスターを片手に進んでいく。
村の掲示板に祭りを報せる手描きのポスターを勝手に貼っているのだ。少しでも色んな人に興味を持ってもらいたかったのだ。村長からのお知らせと書いてある紙の隣にデカデカと貼り付ける。
ほんの少し祭りに参加してくれるだけでも良い。
何せ、この村の土地神様を祀っているのだから。それで、少しでもまた、参拝に来ようかな、なんて思ってくれたら有り難いことだ。そんなに上手くいくとは思っていないが。
どんな些細なことでも良い。信仰を取り戻すきっかけになれば、と和花は思うわけである。
それで、この暑い時間から、村の掲示板にポスターを張り出しているのだ。
すれ違った村の人に宣伝することも忘れずに、次々と貼っていく。
ポスターの半分ぐらいまで貼り終わったときだろうか。
和花はアスファルトの道を小型のトラックが走って来るのに気がついた。工事の小道具を積んでいるのが遠目にも見える。
村の都市開発の工事に来ている車だろうなあ、と和花はのんびりと構えた。
道の端に寄って、和花はトラックが通り過ぎるのを待つ。灰色の目でトラックを見れば、何か走り方がおかしい。
トラックは右へ左へと揺れる。
危なっかしい運転に和花は目を凝らした。トラックのフロントガラスの前に何か虫がたかっているのかと思ったのだ。運転に集中できない何かがあるに違いないのだ。
しかし、和花の予想と現実は違った。
トラックのフロントガラスにあんずの花びらがまとわりついている。
運転手から前が見えていない状況なのだ。しかも、トラックはスピードを緩めることをしない。
和花が身に危険を感じたときには、トラックは目の前まで迫っていた。
声のない悲鳴が喉の奥で詰まった。結果、和花の喉奥からは情けない声がちょっと漏れただけだった。
全ての動きが和花にはゆっくり見えた。
突っ込んでくるトラック。あんずの花が幻想的に視界を埋めていく。動かなければと頭の中で思うのに、足は意に反して少しも動かない。
音や色が世界から消え失せる。
和花に出来たのは目を閉じることだけだった。
一瞬にして『死』という文字が頭の中を占めた。
次の瞬間。
何かが弾けるような感じが和花を包んだ。それは、シャボン玉が割れる雰囲気によく似ていた。耐えきれなくなった何かが破裂するような。
甲高い音が響き渡った。
ブレーキの音と、タイヤとアスファルトがこすれる音。少し焦げ付いたような臭い。
灰色の瞳をそろりと開けて和花は今、自分がどうなっているのかを確認した。手も足も首も体もある。指も動くし、目も見える。何処も痛むところはない。冷や汗が背中を伝っていく感触で現実味が戻ってくる。
あれほど視界を埋めていたあんずの花びらはどこにも見当たらない。数枚がちらほら舞っているだけである。
一瞬、感じた弾けるような感覚も、もう、何もない。
小型トラックは人を轢きかけたというのに、もう遥か彼方に走り去った後で、ただの黒い点のように見える。それもやがて見えなくなった。
悪態の一つでもつきたくなった。
和花が口を開いた途端、誰かにグイッと腕を引かれて、後ろへ倒れかけた。
慌てて身を捩れば、誰かの腕の中に飛び込むような形になってしまった。
鼻をかすめた匂いに和花は瞬いた。この匂いを知っている気がしたのだ。
記憶の底から祖母が生きていた頃の景色が蘇ってくる。
やんわりと抱きしめられる。和花の頭を包むくらい大きくて温かい手。少し骨ばった手。和花はこの手を知っている。
「この子は君達なんかが触れていい子じゃない。去ね」
落ち着いた低い声が和花の鼓膜を揺らす。
和花を抱きしめている人が言った言葉だ。しかし、それは和花に向けられたものではない。和花以外の誰かに向けられたものだ。
和花は腕の中で藻掻いた。そして、和服を押しのけ、自分を抱きしめてくれている人物を見た。
そして、和花は目を見開いた。
その顔を和花は知っている。記憶の中にある顔と寸分違わずにその顔はあった。
女性より白い、真っ白な肌。青みがかった黒い髪。その髪をポニーテールのように結んでいる。それでも、腰より長く伸ばされた髪が風に揺られている。透き通った瑠璃色の瞳。整った顔。
そして、暗い青色を基調とした長着と紺色の羽織。底の高い草履を履いて、そこに立っていた。
和花を見下ろして優しく微笑んでいる。
「……す、い?」
和花は口を動かして尋ねる。
すると、スイと呼ばれた人物は微笑んだ。
和花の世界がより一層、色鮮やかになっていく。
和花は堪らなくなってスイに抱きついた。スイは少しもよろめかず、和花を抱きとめてくれた。
「スイ!」
「いや、スイじゃなくて、水読尊だって……聞いてないな」
スイが本名を名乗るが、和花はそれに耳を貸さず、目の前の人物に抱きついた。ギュッと羽織を両手で握りしめ、頬を押し当てる。
確かな質量をそこに感じた。
何度も思い返してきた姿のまま、スイは和花の前に現れてくれたのだ。
灰色の瞳に涙が浮かびかける。嬉しいはずなのに変だな、と和花はスイの腕の中に顔を埋めた。
こらえようと思っても、胸の奥の方から熱いものがこみ上げてきて止まらないのだ。泣いちゃ駄目だと思えば思うほど、涙が浮かびそうになるのだから困る。
自分の感情が制御できず、和花はしゃくりあげた。
スイはそんな和花を穏やかな瑠璃色の瞳で見つめていた。
「本当に君はいくつになっても泣き虫だな」
口ではそう言っているものの、口調はとても柔らかいもので。
スイの優しさに触れた気がして、さらに涙がこみ上げてくる。嬉しいのに、涙が溢れてくるのだ。
アスファルトの上に落ちてしまったポスターが風に飛ばされていった。
「君、そろそろ帰ろうぜ。雨になってしまう」
スイが呟いた。
青空は何処までも広がっていた。