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18 一言だけ

 和花はスイの手から逃れ、田んぼ二つ分を駆けた。

 しかし、傘が風を受けて、和花はバランスを崩した。ぬかるんだ道に足を取られ、転ぶ。

 泥だらけになってしまった。

 痛いやら、情けないやらで涙が出てきそうだった。

 しかし、和花には泣く暇もなかった。

「みっともない姿ね。でも、お似合いだわ」

 鈴のような声音が振ってきた。

 和花が顔を上げると見下ろす位置で杏が立っていた。綺麗な羽織が揺れている。

 嫌になるくらい美しい存在だ。

 和花は上半身を起こした。

「ねえ、神様が嫌いなのでしょう?」

 杏が先日の問いを形を変えて繰り返した。

 和花は首を振る。神様が好きか、と問われれば悩むが、嫌いか、と言われれば嫌いではない。

 自分の中での矛盾。

「都合の良いものね」

 杏が呟く。

 全くその通りだと思う。言い方はキツイが全てが図星を射抜いている。

 和花に言い訳できるはずもない。

「じゃあ、あの神は?」

 杏が和花の後ろを指差す。

 和花は杏の指先の方向を見た。

 雨に打たれながらも風に靡く、青みがかった黒い長髪。濃紺の羽織が揺れて、美しい。雨に打たれている姿すらも、絵になる。

 和花のよく知っている姿。幼い頃からそばに居てくれた神様。

 だけど、和花はその神様のことを何一つ知らない。過去も、感情も、この先も、秘密も。

 だけど、嫌いではない。むしろ、凄く信頼している存在で。

「好きなのね」

 澄んだ声がすんなりと和花の耳に入ってきた。

 だから、和花は抵抗なく頷けた。姿が視えなかった時から、いや、その前からずっと。和花はスイを家族のように思っている。

「だったら、心して聞きなさい」

 杏の言葉が固くなった気がして、和花は真っ直ぐ彼女を見上げた。

 小さな陶器のような白い手を握りしめた杏は、スイから視線を逸らさない。

「あの神はもう、長くない。もうすぐ消えるわ」

 和花は意味をつかめなかった。

 言葉がただの音のように聞こえた。脳内で、もう一度繰り返してようやく意味を理解する。

 灰色の瞳を目一杯に見開いて、固まった。

「な、んで……?」

 やっとのことでそれだけを押し出した。

 杏が俯く。薄桃色のリボンが伴って揺れる。

「信仰がないからよ。信仰から生まれるのが神。でも、信仰するものが少なくなればなる程、力は弱まる」

 杏はあんずの枝を握りしめたまま、俯いた。そっと左手でリボンに触れる。

「信仰が消えれば神は消えるの。他の神様と繋がりがあれば救われることもあるのよ」

 そう言って、杏は首のリボンを握りしめる。

 杏が何を言いたいのか、和花には理解ができなかった。何を伝えようとしているのか。大事なことの気がするのに真意を読み取れない。

 和花は希望に縋るように、杏を見つめた。

 杏の表情は曇る。

「だけど、駄目なの」

 杏が言葉にする。

 和花は再び固まった。もう、何かを言うことすら出来ない。

 杏の雰囲気が和花の喉を押しつぶしてしまったかのような息苦しさを覚えた。

「あの神は人間に近すぎる。誰も手を伸ばそうとはしないの」

 赤い瞳が揺らぐ。

 杏もスイのことを心配しているのだ、と気がつく。

「だったら、杏がスイをっ!」

「出来ない」

 和花が全てを言う前に杏が否定する。

 和花の頭は混乱した。神様なら、同じ神様を救えるのではないのか。

 杏は震える手で首に巻かれているリボンに触れる。

「私の信仰はとっくに途絶えた」

 杏の一言に和花は息を飲んだ。

 雨が和花を濡らしていく。誰にでも平等に降り注いでいるのに、和花は自分の上にだけ、雨が多く降っている気がした。

 杏が苦しげに笑う。

「私はガクの手駒なだけ」

 赤い瞳が再度、和花の後ろに投げられる。

 和花はゆっくり、後方で争っている二人を振り返った。

 どこから出してくるのか、学斗尊が次々にコンパスなどの文房具を投げつけている。空中から出てきているように見える文房具たちは自分で意思を持っているかのようにスイに襲いかかっていくのだ。

 スイはそれを余裕綽々といった雰囲気で全て避けるか、叩き落としている。

 学斗尊。ガク。

 和花はガクという呼び名が学斗尊を指しているのに気がついた。

 気がつくのには遅すぎるぐらい時間が立っていた。

 手駒だと言って苦しげに笑う杏の姿を視ていると、神が神に救われるというのもまた苦しいものなのだろう、と容易に察しがつく。

 しかし、和花にはどうすることも出来ない。

 今、ガクと戦っているスイが消えるなんて信じられなかった。

 和花の目にはこんなにハッキリ映っているのだ。消えるはずがない。消えるなんてあり得ない。

 思い込みたい和花がいる。

 それと同時に杏の話が本当じゃないのか、と思う和花も存在する。

 スイが消える。想像してみるだけで、胸が塞がるような気持ちになる。

 苦しくて、死にそうになる。

 スイが居ない日常なんて考えられない。視えなくなるのとは訳が違う。

 もう、この世界に存在しなくなるということ。それは誰からも思われなくなるということ。

 杏が教えてくれなければ、スイは黙ってこの世界から姿を消すつもりだったのだろうか。和花にすら何も言わず、たった一人、誰も知らない場所で消えていくつもりだったのだろうか。

 考えれば考えるほど苦しくて哀しい。

 スイが駆け寄ってくる。

 その姿が涙で歪んで見えた。

 もっとハッキリ視たいのに、真っ直ぐ見つめることすら困難で。

 和花は静かに目を閉じた。頬を大粒の雫がこぼれ落ちていく。

 耐えきれなくなって溢れた涙なのか、それとも、雨なのか。和花にすら分からなかった。

 スイが和花にたどり着き、地面に座り込んでいる和花を右腕で抱き寄せた。

「君、この子に何をしたんだい?」

 ドスの利いた声でスイが杏に問う。

 杏は何も答えない。スイが左手の人差し指の先に雨粒を集め始めた。

 和花は慌てて、その手を抑えた。

 スイが面食らった表情で和花を凝視した。

 その隙に杏は二人の横を通り抜け、倒れ込んでいるガクに駆け寄って行く。

 杏に抱き起こされて、ぐったりとしていたガクは僅かに目を開けた。

「忘れないで。ボクは和花ちゃんの味方だよ」

 杏に抱き起こされながら、ガクが和花に告げた。

 スイが殺気を露わにして左手で空を薙ぐ。スイに触れた水滴の全てが弾丸となって、ガクと杏を狙う。

 あと、ちょっとでスイの弾丸が届く、というところであんずの花が舞い、二人の姿はなくなっていた。

 スイの攻撃が大地を穿つ。

 泥がはじけ飛び、どのくらいの威力があるものなのか和花にも理解させた。

 それでも、スイをもう怖いとは思わなかった。今の攻撃が最後かもしれないと思うだけで、不安になる。

 スイは和花に触れる。細くて綺麗な人差し指が安否を確かめるように、和花の頬に触れる。

 怪我が一つもないことを確認すると、スイは安心したように息をついた。

 落ちてしまっていた傘を拾い、泥を払うと和花に差し出してくる。

 和花はされるがまま、傘を受け取った。お礼さえ、言葉にならなかった。

 スイは壊れ物に触れるかのように慎重に和花の肩に触れた。そして、目を閉じる。

 和花の濡れていた服から水が抜けていく。

 気がついた和花は反射的にスイを突き飛ばしていた。

 予想していなかったのだろう。スイは後ろへと二、三歩ふらついた。

「やめてよ」

 蚊の鳴くような声で和花はスイに告げた。

 困惑した表情でスイは和花を見つめている。

 和花は傘の柄を握りしめた。ぎりぎりと痛いぐらいに握りしめた。今なら、傘の柄を折れるかもしれないと思うほどに力がこもる。

 スイは和花の様子を見て、屈んで視線を合わせてきた。

「怖がらせてしまったかい?」

 眉根が下がっている。

 いつも堂々としているスイが弱々しく眉根を寄せる。口も、への形に曲がっている。似合わない表情だ。だけど、顔が整っているからか、そんな姿すら愛おしく感じる。

 可愛さもかっこよさももう見ることが出来ないかもしれない。

 スイに明日は訪れないかもしれない。未来を思うだけで哀しくて苦しくて、不安になる。

 和花の顔がどんどん暗くなる。

 灰色の瞳には涙が溜まっていく。

「次はちゃんと護るから」

 それなのに、スイはこんな事を言うのだ。

 和花は傘を取り落とした。スイの胸の中へ飛び込む。

 右手を握りしめ、スイの胸を殴る。

「止めてよって言ってんじゃんっ!」

 スイの胸に顔を埋めたまま、和花は怒鳴る。

「全然嬉しくないよっ! 私のことなんか護らないでよっ!」

 しゃくり上げながら、和花はスイの胸へ何度も拳を振り下ろした。

 大粒の涙がスイの長着に吸い込まれていく。

「護らなくていいの。スイがそばに居てくれれば、それでいいの……。もう、私の前から消えないでよ」

 和花は遂に大声で泣き出してしまった。

 風が横から吹き付けてくる。雨脚が強くなる。

 とうとう、和花の腕にも力が入らなくなってきた。それでも、和花はスイの胸を拳で叩き続けた。だんだん力が抜けて最後にはスイの長着を握りしめることしか出来なかった。

 とめどなく頬を伝うのは和花の涙なのか、それとも、雨なのか。和花はそれすらも解らなくなっていた、

 スイは戸惑ったように動きを止めていたが、やがて、和花を柔らかく抱きしめてくれた。

「すまない」

 小さな声でスイはポツリ、零した。

 何に対しての謝罪なのか、和花には分からない。だが、その言葉が酷く切なくて、和花は泣き続けた。

 スイは和花が泣き疲れて意識を手放すまで、和花を抱きしめ続けただけだった。

 たった一言の謝罪以外、弁明も嘘も言い訳もしなかった。


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