15 発破かけて
「あの子にちょっかいをかけに来たのかい?」
夜の境内。静かに風が通り抜けていく。
昼間の暑さも、蝉のけたたましさも嘘のようだ。ぼやけた月が照らしている。
神社の舞殿の影から、スイが姿を現す。
瑠璃色の視線の先には、リボンを揺らす杏の姿がある。
杏が手に持っているあんずの枝にはもうほとんど花が残っていない。
スイはそっと目をそらした。花が散りきったら、杏は……。余計な思考が頭をよぎる。
赤い瞳がスイを憎々し気に睨む。
「あの子、どうだった?」
話をそらして、スイはどこか誇らしげな顔で杏に尋ねた。
杏は、つい、とスイから視線を反らした。ますますスイの頬が緩む。
「いい子だろう?」
スイの言葉に杏は深々とため息をついた。
「いつまで人間ごっこに興じてるつもり?」
凛とした声が境内に響く。だが、二人の声を聴く者は彼ら以外、存在しない。
スイはフッと力を抜いたように笑う。そして、朧げな月を見上げた。
「さあ、……いつまでだろうなぁ」
ぽつりと呟かれた言葉に杏の目尻が吊り上がった。
赤い瞳が爛々と燃えている。
「あなたはもう神ですらない。人間でもないあなたはただのクズよ」
声こそ抑えているものの、言っている内容は辛らつだ。これでどうだ、と言いたげに杏はスイを見つめた。
スイは何も言わずに笑っていた。
杏を見つめて、どこか満足したかのように。
そこに言葉などなかった。だが、杏にはそれで解ってしまった。
スイは何が待っていようとも、きっとこういう顔をするのだ。心の底から、満足してしまうのだ。どんなに理不尽に思えることでも受け入れてしまうに違いない。
スイはそういう覚悟を決めてしまっている。
杏が何を言おうとも決意を覆すことはない。
瑠璃色の瞳は何よりも雄弁にそう語っていた。
「屑ねぇ」
杏の言葉尻を繰り返してスイがクスクス笑った。
穏やかな表情が儚い。月の光がスイの顔をぼんやりと照らす。
「それも悪くない。神なんて御大層な地位も似合ってないからな」
杏は何も言い返せない。
神は偉くもない。力もあるわけではない。
全て人の願いから生まれた存在で。人を呪いたいという願いから生まれた神様だって存在するぐらいだ。
だから偉いわけではないのに。
「そんなんだから、そんなんだから、あなたは──っ!!」
スイは杏の口を塞いだ。長い人差し指を杏の唇に押し当てる。
長い青みがかった睫毛が揺れる。
「皆まで言ってくれるな」
スイの穏やかな声が杏の鼓膜を打つ。
杏はスイの姿を哀れにすら感じた。泣きそうになった。
「私は絶対、認めないわっ!」
大声で告げて、杏はスイから離れた。
キッと真っ赤な目で睨みつけた。スイはただ澄んだ湖面のように穏やかな瞳で杏を見つめてくる。
「私は抗って見せる! あなたとは違うのよっ!」
吐き捨てるように言って、杏は手に持っていたあんずの枝を振り抜く。
枝に残っていた数少ない花びらが一斉に空に舞った。
花びらに視界を覆われて、スイは目を閉じた。
花びらが過ぎ去ったのを感じて瞳を開く。
杏の姿はもう何処にもなかった。
残されたスイは落ちてくるあんずの花びらをそっと掌に乗せた。
「気の強い子だ」
静かに呟いて、柔らかな笑みを浮かべた。
杏が先か、自分が先か──、そんな考えが過るが、スイは頭を振って考えないようにした。
スイはもう一度、月を見上げた。
鉛色の雲が月を隠していく。遠くで雷の鳴る音が聞こえた。
「雨か……」
ポツリと呟いた声は誰にも届かず消えた。