11 対面
署名欄が少しずつ埋まっていく。
この村い都市開発が始まる前から住んでいた人はやはり、新しい祭りには共感が出来ないようだった。古くからある祭りを再開しようとしている和花にみんな協力的で名前を書いてくれた。
それは、最近、急激に進んできている都市化の波に乗れていない人たちの切なる切なる願いだったのだろう。
「ビルの建設の音で眠れなくてねぇ。ここいらの人は皆、そうさ」
「元気もなくなってきちまって」
「でも、ほら、祭りをやるなら、元気になるだろうね」
皆が口々に言葉にした。
「新しい祭りは若い子ばかりで、馴染めんわい」
一人が苦笑すれば、周りも賛同の声を上げた。
「こすぷれ? あれは何だか奇妙だよねぇ」
「ゴミは散らかしていくし、大音量で早口の音楽が流れてね」
「年寄りにはついて行けんわい」
愚痴を含めた不安の言葉を和花は沢山聞いた。
和花は名前を書いてもらう度、嬉しさと同時に強い責任感も感じた。
この人たちの気持ちを背負っていくという感覚。
とても誇り高いことだけど、大きなプレッシャーのようなものも感じた。負けるな、めげるな、頑張れ……いろいろな言葉をもらった。
和花はその度に返事をしてきた。成功させます、どうぞよろしくお願いします、と。
それで開催すらできなかったらお笑い種だ。
和花は唇を引き結んだ。これからだ。
まだ、署名欄は半分ぐらい空いている。
畑と田んぼの間に立っている民家。一軒一軒が遠い。猛暑の中、和花は進んでいく。
「健気だねぇ」
不意に馬鹿にするかのような言葉が和花の耳を打った。
和花は怒りを覚え、振り向いた。
そして、首を捻る。灰色の瞳を瞬かせながら、ジッと呼び止めてきた人物を見つめる。
誰だろう、この人。それが、和花の正直な感想だった。
目の前に立っていたのは、チャラそうな男であった。
「えっと、誰ですか?」
和花は目の前に立つ人物をしげしげ見つめてしまう。
明るい茶色の短髪は癖っ毛らしくところどころ跳ねている。オレンジ色の瞳は猫目で好奇心によってキラキラと輝いている。一昔前の学ランに学生マントという不思議な出で立ちをしている。
あんずの花弁が和花の視界をひらひらと舞い散る。
その青年はくすり、と親し気な笑みを浮かべた。
和花はまた首を捻る。どこかで会った気がするのだ。
どこで会ったのか、記憶は定かではない。だが、この感じを和花はどこかで記憶しているような気がしたのもまた事実だ。
「ボクが誰かなんて今はどうでもいいじゃない。ね、和花ちゃん?」
予想よりも穏やかな声で和花の名が呼ばれた。
それによって鮮明に和花はこの人を知っている、という気がした。
季節外れのあんずの花びらが舞って、和花の思考を奪っていく。
世界が歪むような気がした。和花は、二、三歩、後ろへと下がる。
制服を着た青年の顔が悲し気に曇った。
青年の表情は、直ぐに人懐っこい笑みに戻った。
「怖がらないでよ、やだなぁ。ね、ボクと一緒に遊ばない?」
語尾に音符が付きそうな勢いで猫目の青年が迫ってくる。
日差しが照り付ける。喉が干上がって、和花は唾を飲み込んだ。
「あ、の、誰ですか……?」
震える声で和花はもう一度退いを重ねた。
学生帽を頭に乗せている青年はオレンジ色の瞳を丸くした。それから、楽しそうに笑った。ケラケラと。
「そんなに怖がられるのは心外だなぁ。仕方ないな、自己紹介しないといけないよね」
心底楽しそうにケラケラと笑いながら、言葉を紡ぐ。
明るい人なのだな、少し変な感じではあるけど悪い人そうではないな、と和花はその時点で思った。安心すると同時に少しだけ表情が緩む。
「ボクはね、学斗尊」
チャラそうな青年の名を聞いて、和花の表情は再び引きつった。
嫌な予感が駆け巡った。いや、そもそも気が付くべきだったのだ。
季節外れのあんずの花が和花の視界を覆っていく。
「そう、和花ちゃんたちで言うところの神様だよ、よろしくねっ」
楽しそうにケラケラ笑いながら、和花に手を伸ばしてくる。オレンジ色の瞳に吸い込まれて消えていきそうだと錯覚する。
「和花ちゃんとは仲良くなりたいな~」
呑気な声で和花に告げてくる。
目の前の神様をどうするべきなのか悩んでいる間に、ガクが和花の耳元に口を寄せてきた。
「ボクは和花ちゃんの大好きな神様の秘密を知っているよ。だから、ね? 仲良くして欲しいな?」
そっと呟かれた言葉。
それだけ告げると学斗尊の顔は離れていく。
心臓を撫でられるような、そんな感じ。肌が粟立つ。
それなのに、和花の興味は惹かれた。スイのことをもっと知れるかもしれない。
そう思うと、この機会を逃してはいけないような気がした。
差し出された学斗尊の手。その手を握るべきか否か。和花の心が揺れる。
学斗尊の口元に魅惑的な笑みが浮かぶ。
和花は恐る恐その手を伸ばしかけた。
刹那。
急に視界は暗くなった。誰かに視界を塞がれた。
突然のことで、悲鳴すら出てこない。
何かをはたく音が和花の耳に届く。
空気がピリッと引き締まる。火花が散りそうなもので。
和花の体は一気に緊張する。
「この子に触れないでくれないかい?」
スイの声が和花の鼓膜を揺らす。
しかし、和花は体を固めたまま、動けなかった。
知らないのだ。スイの声ではないと錯覚しそうなくらい低く、敵意にあふれた声だった。
和花はスイのこんな声を知らない。聞いたことがない。スイがこんな声を出すとは思えなかいし、思いたくない。
知らない人の腕の中に居るような気がして怖さを覚えた。逃げなければいけない気がした。
もがいた。
そして、スイの手から逃れた。目の前が開けたような感覚。
眩い景色が目に飛び込んできた。
クラクラするくらい鮮やかなあんずの花びら。それを背に立つ、学斗尊。そして、和花の後ろにいるスイ。
和花は振り向いた。長い髪が翻ってその先に瑠璃色の瞳を見つける。
苛烈な光を宿している。冷ややかな視線は全て学斗に注がれている。ピリピリとした、なんて表現では足りないくらい空気が張り詰めている。
怒りや殺気……、全ての髪の毛が逆立ちそうな感情。そんな感情が学斗に向けられている。
和花は怖くて動きを止めた。
「この子は君が触れて良い子じゃないんだ」
静かに告げられた言葉。
面白そうに学斗尊は笑う。挑発するように笑っている。
「とっても面白いねぇ」
クスクス笑いながら、スイを馬鹿にするかのような口調で告げる。
それが和花は嫌だった。
思わず学斗尊を睨んだ。
学斗尊は和花を見て、笑顔をすっと引っ込めた。それから、少し悲し気な表情をした。前と同じようにその表情は瞬く間にかき消されたが。
あんずの花が舞う。
そして、学斗尊はまた、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。和花に向かってひらりと手を振る。
「じゃあね、和花ちゃん。また、会おうねっ! 興味があったらボクの名を呼んでよ」
くすくす笑い声を響かせながら学斗尊は和花に向かって言ってきた。
スイが何かを言い返そうと口を開いた。
それと同時に突風が吹きつけた。あんずの花が視界を埋める。
和花もスイも目を閉じるしかない。
目を開けた時、和花の視界に学斗尊の姿はなかった。さっきまでの景色がまるで陽炎のように消え去ってしまったのだ。
和花は灰色の瞳を瞬かせた。
ボヤっとしてたら肩をがっしり掴まれ、スイの方を向かされた。
あまりの強さに和花は目を白黒させた。穏やかなスイらしくない。
スイは和花に接してくる時、壊れ物に触れるように優しくしてくれるのだ。
普段から和花はそのスイの優しさをを嫌だと感じつつも、そばに居てくれることに対しての安堵感を覚えていた。
だから、和花は驚いたのだ。
和花はスイのことを固唾を飲んで見つめた。
スイの瑠璃色の瞳は不安定に揺れた。
「君、怪我はないかい?」
震える声でスイが和花に尋ねてくる。声の震えが手に移ったのか、はたまた、逆なのか。スイの手が細かく震えている。
和花はスイの目を見つめたまま遠慮がちに頷いた。
「大丈夫。私は、大丈夫だよ」
少しばかり声が震えているようで言葉を重ねてしまう。
スイが短く息を吐き出した。
長いまつ毛が揺れ、瞼が閉じ、瑠璃色の瞳が和花から見えなくなる。
神様で実体は存在しないはずなのに和花にはスイの動作の一つ一つがはっきり視える。手の震えまで感じられる。言葉の一つ一つ、動きの一つ一つがはっきり分かる。
こんなにはっきりと感じると言うのに、それが現世に存在しないと言うのは変な感じだ。
ジリジリと焼き付けてくる日光を背中に浴びながら、和花は真っすぐスイを見つめた。背筋を汗が伝い落ちていく。
「本気にしないでくれよ」
長い沈黙のあと、スイが唐突に言葉にした。
和花は何を言われているのか分からず、目を瞬かせた。スイの方に向き直って続きの言葉を待った。
スイは目を開けると、和花を真っ直ぐ見つめてきた。
「あの神が言ったこと、本気にするなって言ってるのさ。何を言われたのかは知らないが、本気にしないでくれ」
和花は頷きかけて、ハッとなった。
学斗尊が言った言葉。スイの秘密を知っている。
気になる。
頭を大きく振って、考えを追い出そうとした。引っかかるものはあるが今じゃない。
和花は生唾を飲み込んだ。ちらりとスイの顔を伺う。
人差し指で首をトントンしながら、にへら、と笑った。
「分かってるよ」
そう言った。
スイは静かに和花を見つめ、困ったように笑った。それから、和花の頭をいつも通り、撫でてくれた。
「すまんな、来るのが遅くなっちまって」
もう、いつも通りのスイだった。
和花の知っている穏やかで優しいスイの顔だった。大好きなスイに戻っていて、和花は心底安心した。
自然と和花の顔が綻んだ。今度は作り物の笑みではない。自然とこぼれた笑みだった。
スイもクスリ、と笑みを零す。
「帰ろっか」
和花が言えば、スイも頷いた。
二人で歩き出す。暑い日差しは降り注いでいた。
「いいかい、君? 神の中には君を眷属にしようとしていつやつが居るんだからもっと用心しないと駄目だぜ?」
スイはお小言を零す。
和花は祖母からも聞いたことのある言葉に頷いた。頭では分かっているのだが、心が伴うかどうかは別の話だと思うんだけどな、と和花は誰に言うわけでもなく思う。
「それから、困ったことがあったらいつでも俺を頼ってくれ」
「分かってるよ」
和花は聞き飽きた言葉に相槌を入れておく。
スイが溜息を零す。それから、和花の頭をワシャワシャと乱雑に撫でてくる。
「時に一人の祈りは百万人の祈りすらも凌駕するんだぜ」
スイが真面目ぶって言う。
「何それ。颯太の願いは叶わなかったじゃない」
和花はちょっとだけトゲトゲした気持ちになって、言ってしまっていた。
「俺も精一杯に努力はしたさ。だが、裁判の神には敵わなかった……。俺の力不足だ。すまない」
スイが悲しげに言う。和花は慌てて手を振って取り繕った。
後はくだらない話をして、帰り道を進む。
陽炎が揺らめいて、遠のいていく。
スイはふと立ち止まり、後ろを振り返った。そこに、あの猫目の神様の姿は、もう、ない。
代わりに小さな女の子がぽつりと木の陰に立って居た。
「スイ?」
和花がスイを呼ぶ。
「今行く」
和花の方向を見てスイは返事をする。
振り向いた時にはその影はどこにもなかった。
スイは一人静かに目を細めた。視線は陽炎を超えてその先を睨み付けていた。
それからスイはその場を後にしたのだった。




