8話
程なくして書斎に辿り着いた。
「うぅぅ……」
そこで俺は思わず呻き声を上げ、車椅子から手を離し、その手を自分の口元へと押しやった。
さびついた鉄のような臭いが鼻を突き、そして何よりおぞましい光景に目を覆いたくなる。
部屋のいたるところにおびただしい量の血痕が散乱し、また、本や書類が徹底的に荒らされ、ぶちまけられている。そして奥の重厚なデスクの上には旦那様の遺体が同じようにぶちまけられていた。
人間一人を『ぶちまけられている』というのは表現がおかしい気もするが、そう言いたくなるぐらい高級な焦げ茶色の机の上にあるのは赤い血だまりのオブジェクトだ。
右手、左手、右足、左足、手首足首、腹部、あらゆる場所に長柄の刃物が突き刺さった状態で。
加えて各関節部が後ろ側に捲れ返り、いわゆるエビぞりになり、横たわっている。
滅多刺しにされただけでなく、あらゆる関節部を骨折させられている。
無事なのは頭部だけだ。
だからその惨たらしい死体が旦那様だとはっきりわかる。
カッと見開かれた目がまるで俺を見ているかのようだ。
気が狂っている。
殺人以外の何物でもないだろう。
それも、サイコパスとかそんな次元の猟奇殺人だ。イカれている。
「うぅぅ、うぅぅ……」
胃から胃液が競り上がってくる。グルングルンと眩暈がしてくる。
足がガクガク痙攣し、全身がフルフルと勝手に振動する。身体が警告している。
咄嗟に目を閉じる。だがあまりに凄惨な光景はすぐさま瞼の裏からでもフラッシュバックしてくる。
この広い書斎には既に全員居た。
奥様、秘書の中村さん、シェフの高戸さん、世話人の筑波さん。
そして今やって来た俺と夕木様。
「皆さま、お待たせしました。ごく単純にお部屋に居られましたので連れてまいりました」
夕木様の声が聞こえ始める。
俺はその逞しい声を思ってか、止まらない吐き気を我慢して再び目を開ける。
すると、それぞれ室内に散らばっていた屋敷の住人達全員が一斉に俺の方を凝視してきた。
それも、酷く敵視に満ち溢れた調子で睨んできていた。
あの仲の良い高戸さんまでも、まるで。
まるで俺が犯人であるかのようにきつい視線を浴びせてくる。
「うぅ……」
気分の悪さが最高潮に達する。
今すぐにでもこの部屋から飛び出したい衝動に駆られる。
そもそもこの人達はなぜこうも異常事態だというのに、ここに集合して離れないんだ。
「いったい、なんだ……」
俺がそう漏らすと、意外にも旦那様の遺体近くにいた奥様が口を開いた。
衣服には血が付着していた。部屋を物色したのだろうか。あるいは旦那様の遺体にでも触れたのか。
また目元には涙の痕があった。
「牧原さん、これをやったのは貴方ですか?」
「……は?」
ただでさえ胃がむせ返るかのようで、加えてキーンと耳鳴りまでしてくるような最悪の状態なのに、突然訳の分からない暴論が飛んでくる。
とはいえ、周り全員が俺を厳しく睨んでいる。なぜだかさっぱりわからないが、明らかに敵意がある。
俺は必死で息を整え、口を懸命に動かす。
「ち、ちがう。こんな。そもそもこりゃ、一体、なんなんですか!」
訳が分からない。
「それはもう、既に私達が何度も言い尽くした台詞です」
奥様がそう続ける。
「いや、そんなに。そんなこと言ってる暇があるなら。まず警察でしょう! 救急車でしょう! これは。なんなんですかこれは!」
『なんなんですか』も何もない。
旦那様が何者かに殺されているのだ。
そしてその犯人を俺だと皆疑っているんだ。
気が狂ったような部屋や遺体の有様で頭がおかしくなりそうだが状況はいたってシンプルなのだ。
ただなぜだか上手い言葉が見つからず俺は『なんなんですか!』と喚く以外まともな台詞が出てこない。
「……本当に貴方じゃないんですか?」
奥様が俺を問い詰めるように言う。全く身に覚えのない冤罪の俺をさも殺人鬼のように言う。
周りも心無しか、まるで俺が服の裏にナイフでも隠しているとでもいうように顔を強張らせ、身構えている。
「ちがっ! 違います! 違う! 俺じゃない! 俺はさっきまでずっと部屋に居たんだ!!!!」
俺が珍しく大声を張り上げると、皆一歩引いた。全員が暗く淀んだ表情のまま辺りに暫し沈黙が訪れる。
誰もしゃべらないが、それでも相変わらず彼らは俺を睨むのは辞めていない。
そして暫くして夕木様が動いた。
カラカラと車椅子の車輪を回転させ、件のデスクの前まで進んでいった。