14話
「これです」
……。
……。
は?
「……どうしました?」
ぼんやりとした視界の両端はあまり光量がない。
しかし、中央には何か人型のシルエットがあるのがわかる。
なぜだろう。
すごく聞き覚えのある声色は何故か物凄く不気味だ。
できればもう二度と聞きたくないぐらいだ。
だが、まるで俺の頭がおかしいとでもいうかのように、彼女の声は多くの疑問を含んで俺の耳に届いてくる。
彼女?
そうか声主は女性だ。
そしてこれは。
だんだんと視界が明瞭になってくる。
まだ焦点が上手く定まらない。
俺は元来目が悪い方ではないため近視の人の気持ちは分からないが、うっかりコンタクトを落としてしまった時はまさにこんな感じなのだろうか。
だが酷くぼやけた視界もやがて回復してきた。まるで両目に自分のレンズをはめ込んだかのように。
そしてその人型のシルエットは。
メイド服姿で美人の筑波さんだった。
「……はい?」
「……いえ。ですから……。大丈夫ですか……? もしお身体が悪いようでしたら今日は……」
「あ、ああ、いえ。大丈夫ですよ。わかりました。ちょっと見てみましょう」
「……本当に大丈夫ですか? 何か急に瞳の色が無くなったようなといいますか……こんな風に言うと詩人気取りみたいで恐縮ですけど……とにかくあまり無理はなされず、もし体調不良の際は遠慮なく仰ってくださいね。旦那様は皆様の健康についてはいつも気を使っていますから。治療代の心配もなさらなくて良いんですよ」
「ははは。大丈夫ですよ。ちょっと、考え事してしまった……んだと思います。にしても、筑波さんの口からそこまでの言葉を聞けるなんて、そっちの方が意外でした」
彼女は眉をひそめた。
「……。若いからってからかってますか?」
俺は慌てて否定する。
「いやいや。ただいつも筑波さんは俺には素っ気ないというか。ひょっとしたら嫌われてるんじゃないかと思ってたぐらいで。だからそこまで案じてくださって素直に嬉しいと思っているんです」
あれ、おかしい。
嬉しいとなんてこれっぽちも思っていない自分が居る。
こんな器量の良い若い娘、特に今まで嫌われていたんじゃないかと思うような女性がここまで口ほぐされたとあっては普通は飛び跳ねるぐらいの気持ちだろうに、何故だか鬱々としている。
まぁ良いか。
気のせいというやつだろう。
俺は一先ず、窓の様子をチェックしてから、言った。
「これ結構かかりそうですね。とりあえず今日はもう夜も遅いので明日から作業するということでも良いですか? あまりガチャガチャうるさくすると皆さんにご迷惑が掛かりますので」
「ええ、構いませんよ。その裁量も含めて牧原さんに一任するようにと旦那様より通達されておりますので」
「はは、そうですか。では明日のと、ぅああああああああああああああああああ!!!!!」
俺は思わず窓の外とは反対、即ち建物側の方へ倒れ込み、尻もちをついた。
筑波さんは驚嘆の表情で、俺に駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか! 牧原さん!」
「あ、え、ええ、大丈夫です……」
大丈夫ですと何度も繰り返しながら俺の腕は鳥肌が酷かった。
なぜなら。
なぜなら窓に一瞬黒い化物が映り込んだからだった。
突然、この世の悍ましさを凝縮したような良くわからない悪魔の様な生物がぎょろりとその目玉をこちらへ向けたように写り込んだ。
まるで全力疾走した後のように心臓がビクついている。息が苦しい。
しかし、少しすると落ち着いてきた。
馬鹿らしくなってきた。あんな化物この世に居る訳がない。
この前観たテレビ番組のせいだろう。
あれ、この前っていつだ?
と、気を取り直し、すっかり抜けてしまっていた腰を上手く持ち直して、改めて窓を見ると、やはり当然そんな化物はチラリとも映らなかった。
「大丈夫ですか? 牧原さん。やっぱり今日は具合が悪いんじゃ……」
筑波さんは不安そうに俺へ上目遣いを送る。
「い、いえ! 大丈夫です。あはは。ちょっとだけ疲れてるのかもしれません。昨日少し寝不足でしたので」
嘘だ。昨日はたっぷり寝た筈だ。
あれ? 昨日って何日だ?
「そ、そうですか。では、今日はもう早めにお休みください。私ももうこれで失礼しますので。もし……、もし本当に何かおありになる時は遠慮なく言ってくださいね」
「はい、わかりました。すいません。心配かけてしまって。ではこれで」
「はい……ですがもし」
その後なぜかやたらと肉薄した声で俺の身を案じてくる筑波さんを何とか説き伏せて、冗談めかした台詞を述べた後、少しだけ笑ってくれた筑波さんの柔らかな表情を見て、俺は一息ついた。
そうして俺と筑波さんは別れた。
ただ別れ際に筑波さんがポツリと背中越しに呟いた台詞が気になった。
「櫛田さんの時と同じ……」
櫛田?
誰だ?