202
二階建て計六部屋の裏野ハイツ。その内202号室だけは、引っ越してから一週間たっても、住人に会うことはできなかった。俺たちの越してきた部屋は203号室なので、本来なら真っ先に挨拶するべきお隣さんなのだが、タイミングが悪いのか、いつ訪ねても会うことができない。
柏木さんにそのことを話すと、
「ああ、隣は出ないよ。202の住人は絶対に外に出ないんだ」
と言う。
それ以上詳しいことは教えてくれなかった。柏木さんもよくは知らないのだろうか。
気にしなくても大丈夫だと言うので、それ以降は訪ねないことにした。
「えー。それって引きこもりってこと?」
帰ってサクヤに話すと、この一週間でトーンを下げて話すことを覚えた彼女が、囁くような声で言う。
「どうなんだろう。詳しくは聞いてないからな。何か病気とかなのかもしれないし」
「そっかー」
テレビでは、連日続く通り魔事件のニュースが流れている。
この一週間で被害者はすでに三人に登ったらしい。
「なんか気味が悪いね」
と正直な感想をサクヤがもらす。確かに、隣の住人の正体が分からないというのは、底知れぬ気味の悪さがある。誰も座っていない椅子を指さして、「そこにいるのは誰?」と訊かれるような気分だ。
「まあ、柏木さんも気にしなくて大丈夫だって言ってたし、心配する事ないんじゃない」
「うん」
「ところで、今日は何食べる。なんか作るの?」
「あ、そう、実はね」
サクヤが、この一週間で完全に綺麗になったキッチンへ行くと、冷蔵庫から、ボトルワインを二本取りだした。どうやら開封済みらしいが。
「実家から引っ越し祝いで、送られて来たからね。これ使ってボロネーゼとベシャメルソース作ったの!」
「おお、そんなん作れたんだ!」
「作れるんです」
腰に手を当て、胸を張る。
確か、依然サクヤの料理姿を見たときは、キャベツの千切りが——トントントントン——ではなく、——ザクッ、ザクッ、ザクッ——くらいのテンポだった。その時からすると、ワインを使って二種類のソースを作れるようになっているというのは、かなりの上達と言える。引っ越して来てからも冷凍食品や、せいぜい目玉焼きくらいしか作る姿を見ていなかったが、知らない間にずいぶんと練習していたのかもしれない。その努力を思えば、きっとより彼女の料理をおいしく食べられる気がした。
今日のメニューは、できるだけ自然に「おいしい」と言おう。
「へぇ……でさ、ボロネーゼとベシャメルソースって何?」
「超超超わかり安く言うとね」
「ほう、わかり安い言い方があるのか」
「ミートソースとホワイトソースだよ!」
「だいぶイタリアンに気触れてたな! 一気に身近になったよ」
いやいや、それでも、作れるようになったのがすごいのには変わりない。俺は作れないし。
「でも、ソースだけで食べるわけじゃないし、これからまた何かつくるんだろう」
「モチッ」
彼女が既にダイニングのテーブルに用意していた耐熱容器と赤ワインのボトルを自分の顔の近くに掲げて、電球にスイッチが入ったように、パッと一瞬で笑顔を作って言った。
「今日はワインに合う、自家製ラザーニャだよ」
たぶんラザニアをイタリアに気触れていうとそうなるんだろうなと予想した。
その日サクヤが作ったラザニアを食べた俺は、ついうっかり我を忘れて、本心から「うまい!」と言ってしまった。
なんだかそれが、無性に楽しいと思った。
この言葉はきっと、いくつもの幸せを含んでいる。