来客、柏木さん
玄関の前まで来て、そう言えば、まだほとんどここの住所を知っている知人はいないはずなのに、いったい誰が訪ねて来たのかという疑問が生まれた。
いいムードを邪魔されたこともあり、今回の来訪者には、ドアを開ける前からマイナスの印象を持ちがちになっている。
ノブを回して、ドアを開ける。一回覗き穴から様子を見るくらいの用心はした方がいいかと反省したが、その時にはすでに、にこにこ顔のおばあさんが見えていた。
「えと」
「やあ、引っ越しは終わったかい」
「ええ……はい、荷物は運び終わりました」
「そうかい、じゃあちょうどよかった。あたしは201の柏木ってんだけど、挨拶がてらね、歳暮で送られてきた油だとか洗剤だとかがいっぱい余ってるから、引っ越し祝いと言ったらなんだけど、もらってもらおうと思ってね」
「ああそれはすみません、本当ならこちらからお伺いしなくちゃいけないのに」
「いいんだよほら、受けとっとくれ」
「すみませんありがたいです」
柏木さんに紙袋をふたつ渡される。中身はこれから生活で必要になるものばかりで、素直にありがたかった。
「あっくん、どちら様?」
と着替えてきたサクヤが玄関に現れる。
「201の柏木さん。引っ越し祝いの品を持ってきてくれたんだ」
と紙袋を持ち上げて見せる。
「わ、すごい。こんなにたくさん。ありがとうございます——そうだ、ちょっとまってて下さい」
キッチンの方へ行くと、サクヤも紙袋を持ってきた。
「これ、引っ越しのご挨拶の品です」
「あれまあ、悪いねえ。ありがたくいただくよ」
「すみません、落ち着いたら伺おうと思ってたんですけど」
「いいのいいの、こっちこそ突然わるかったね」
サクヤが丁寧な言葉遣いで話すのを新鮮な気持ちで見ていると、
「ほかのお宅も今から行っちゃおうか」
とこちらに話が振られた。
「え」
さっきの続きは、と言いたい気持ちを飲み込み、「ああそうだな」と答える。
柏木さんは気さくで親切なヒトだった。
こちらの自己紹介を済ませると、ここの住人のことや近所の安いスーパーなどを教えてくれ、にこにこしながら「よろしくね」といって玄関を閉めた。
「ご近所さん、いいヒトそうでよかったね」
「ああ、知り合いがとりあえずできただけでも、なんとなくほっとするな」
狭い玄関で一息吐いて話していると、再び玄関が十センチほど開かれた。
「ああそれとひとつ言い忘れてたけど、ここ、壁薄いから、声には気をつけなね」
柏木さんは、瞼の動きが緩慢で、ぎこちないウィンクをして去っていった。
「……」
「……」
サクヤと顔を見合わせると、麦色の頬が茹でたたこのように色づいていた。たぶん俺も、似たような顔をしている。
あのばあさん。
分かってて最初にドアを開けようとしてたのか。そう思うとなんだか愉快で、恥ずかしさを隠すようにふたりで声を出して笑った。
その日、柏木さんの部屋以外の四部屋は、全て留守だった。