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引っ越し

 部屋に入って一番に聞いたのは、サクヤの「あれ、前より綺麗になってない?」というひとことだった。

 ふたり立つにはやや手狭な沓脱くつぬぎに棒立ちする彼女の背中を押しながら、

「なんか清掃のヒトが来たみたいだよ」

 という。

「え? 清掃」

 意外にも驚いた表情をするサクヤだが、一瞬の後、自分の失言に気付いた。清掃の話は少し前、ひとりで来たときに聞いた話だ。些細な不満を生まないために、彼女には俺がひとりで来たことは秘密にしてある。秘密を持つのは疲れる。同棲のメリットは、秘密を持ちにくくなることかもしれない。

「電話があったんだよ。その日は清掃があるから、荷物はそれ以降にしてくれって」

 と訂正を入れておく。

 我ながら嘘が上手く育ってしまった。

「そうなんだ」

 しかし事前に家具の配置を考えていたこともあり、荷物はスムーズに運び終えることができた。

 最初の段階で運び、コンセントを繋いでおいた冷蔵庫から、コンビニで買ってきた麦茶と氷を取り出し、グラスにふたり分注ぐ。

 テレビを点けて、新しく買ったソファにふたりで座った。ホーム・センターを梯子して、百近い数のソファに座って選んだだけあって、座り心地は好みにピッタリだ。

「段ボールはちょっとずつ開ければいいよな」

「冗談でしょ? 今日全部開けるよ」

「マジかよ。おまえ元気だな。俺はもうへろへろ」

「それはあっくんがだらしないんでしょ」

 あっくんとは俺の名字から取ったあだ名だ。今は知り合いにそう呼ばれることが多い。「響きがかわいい」という理由から、サクヤも最近はそう呼んでいる。

 彼女は昔から体力自慢なところがある。俺が休まなければ、張り合ってきっと彼女も休憩を取ろうとしないので、氷で冷たく冷えた麦茶を一気飲みして「あぁぁ」と息を吐いた。冷たい息が口の中を満たすと、自分の体がどれくらい暑いのかがよく感じられた。もう十月後半で、街路樹も秋に染まり始めているが、日差しの強い日に動くと扇風機が恋しくなる。

 サクヤもグラス半分くらい、一息で飲んだ。

 テレビではワイドショーで昨夜起きたらしい通り魔事件についての報道がされていた。よくないニュースは毎日のように見ているけれど、引っ越し早々に仕入れたい情報ではないと思い、リモコンを操作しようとした。

「まって」

 とサクヤが俺の手首に手刀を落とした。骨同士がぶつかって突き刺さるような痛みが走り、リモコンが手から落ちた。ついでに電池を納める部分の蓋が外れて単三電池がふたつ転げ落ちた。

「——った、いきなりなん……」

「これ、近くじゃない?」

 いつものことだが、潔くヒトのことを無視して彼女は言う。

 しかし、彼女の言ったことに俺はツッコミを忘れてしまった。

 番組で紹介されている地名に聞き覚えはなかったが、現場が駅の近くだったので、その駅の名前が出てきた。確かにその駅はここの最寄りだ。つい最近、その駅を中心にして町を散策した。

「本当だ」

 手首をさすりながら答える。

「かなり近い。なんか引っ越し早々やな感じだな」

「うん。でも通り魔なんて、きっとすぐに捕まるよね」

「そうだな」

 と言って、汗の滴る彼女の額に新しいタオルを押しつけた。

「うきゃあ」

 手に持った麦茶をこぼさない程度の乱暴さで汗を拭う。

「化粧が崩れるぅぅぅ」

「それは化粧してる奴だけが言っていいセリフだろ」

 一応、サクヤが夜外出するときはなるべく付き合おうと心に留めて、この話を終わりにする。

「なに、あっくんも私に化粧しろっていうの」

「別に言ってない」

 彼女は最近、よく化粧について指摘されるようになったらしい。社会人になってからの洗礼というやつなのか。今まで大学時代までは必ず運動部に所属していたので、化粧を勧められることはそんなになかったという。運動部でも身なりに気を使ったり、オシャレが好きなヒトは多いけれど。強制力をもって、勧められたことは、なかったらしい。

 俺も勧めたことはない。

 俺は、汗の滴る彼女の肌を美しいと思っていたし、彼女の飾らない態度にも好感が持てた。

 それに、

「ちょっと」

 化粧のない頬の方が、きっとお互いに気を遣わず口を付けられる。

「まだ片づけの途中でしょ」

「いいじゃん。休憩にしよう」

 麦茶のグラスをサクヤの手から取って適当な段ボールの上に置き、ソファの上で体を重ねるように押し倒した。

「こっちの方が疲れるんじゃない?」

「心の疲労を取りたいんだよ」

「減らず口だ」

 そう言うと、俺の首に腕を絡めて引き寄せ口を重ねて塞いだ。

 すぐに離れて、二十センチ先にサクヤの顔が見える。

 顎のラインで切りそろえられた短い髪は、横になって広がると、思いの外多く見える。クジャクが羽を広げるように、扇状に広がった髪が、麦色の瑞々しい肌を際立たせた。その肌の細胞ひとつひとつの潤いを唇がまだ覚えている。頬を指でなぞり、まだ穴の空いていない耳たぶを撫でた。

 こうして見ていると、サクヤも大人になったのだと、実感する。それと同時に、昔から変わらないな、とも思う。一番変わったのは、俺たちの関係性で、たぶん本人達の本質は、そんなに変わっていない。

「くすぐったいよ」

「なんか好きなんだよな、耳たぶ触るの」

「このっ」

 サクヤも俺の耳をつかみ返してくる。下から引っ張られる形なので少し痛い。

「いたいいたい」

「えーいえーい」

「この」

「きゃあはははは」

 サクヤの弱点(企業秘密)を攻撃していると、玄関のチャイムが鳴らされた。このアパートにいついているのは、モニター付きのインターホンではなく、押すと「ぴーん」と鳴り、離すと「ぽーん」と鳴る、チャイムとか、玄関ベルと呼ばれることが適したものだ。

 そんなもの無視してしまおうかと思ったが、まだ引っ越しの作業途中だから、玄関の鍵を閉めていないのを思い出し、ソファの背もたれから一応玄関の方を覗いた。

 すると、カチャと控えめな音を立てながら、ドアノブが回転するのが見えた。

「ちょ、ちょっと待ってください! 今出ます!」

 奥の寝室にサクヤを走らせ、急いで服の乱れを直しながら、俺は玄関に向かった。

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