大切なもの、守りたいもの
もう死んだってかまわないんじゃないか。
別に死んだって、それはただそういう事実が、世の中に生まれるというだけで。
文字にしたら「横根朔夜死亡」の六文字で。本当は私が死ぬことなんて、一房のブドウから実が一粒こぼれ落ちるのと変わらないくらい、細やかな出来事なのかもしれない。私は完全に諦めているなと思った。生きることを諦めている。私は途中で物事を投げ出したり、負けを認めたりするのが嫌いだ。昔からいろいろなスポーツをやってきたせいかもしれない——成果かもしれない。だから、大事なことを諦めないというのは、誰に言われるまでもなく、当然で当たり前の心理だと思っていた。
けれど、全然わかっていなかったんだな、と思う。
諦めるというのは、積極的でも、能動的でもない。消極的でも、受動的でもない。
現実がこんなにもどうしようもない。
諦めという言葉は、本来名前の付かないまっすぐな一本道に、あたかもそこがいくつかの選択肢から自分で選んだルートであるように、無理矢理付けられた名前なのだ。
成す術なんてない。どこにもない。ただそういう状態。
それが今の私。
諦めちゃん。
どんなに上手に自虐できたとしても、今は笑える気分じゃない。
ぼぅ、と頭の中で鈍い汽船の汽笛が絶えず鳴り続けている。周りの音がうまく聞き取れなくなってきていた。目もかすむ。ナイフの柄がブレて三本になったり二本になったりする。私は刺されたのは一本ではなかったか? 痛みはあまりにも甚大で、その中心を探すのは、地震の震源地を手探りで見つけ出せと言われるくらいに、無理があった。
この特大のナイフを自分で抜いたらどうなるだろう。体がもっと快活に動くのなら、反射で引っこ抜いてしまっていたかもしれない。それだけ、そこにそれがそうなっていることが、視覚的に許容できない事実だった。恐ろしい景色だった。
どうせ死ぬのなら。
そんな枕詞が浮かんで、自虐的に嗤った。ままならない。
どうせ死ぬのなら、この目の前の恐怖だけでもどうかなくなって欲しい。テレビの知識だけど、こういうときは、出血が酷くなるからナイフを抜かない方がいいことは知っている。でもそれは、この後にちゃんと生きた状態で病院にたどり着いて、治療を受けられる場合の話だ。
私は、それをもう諦めている。脳の奥の、奥の、奥の、決定的な何かを判断する機関が、無理だと判断した。
だからせめて最後に、自分の為に。
自分の恐怖心を少しでも取り去って終わることができるように。
ナイフを抜くことにした。
そっと、腹部を探る。こわごわと自分の手が動く。大切で、簡単に壊れてしまうものに触れようとするときの少年の手のようだと思った。
見つけたナイフの感触をしっかりと握りしめる。
どうして「少年」だと思ったのだろう。ふと疑問が湧いた。
大切で、簡単に壊れてしまうものに触れるときは、誰だって緊張する。それでも私の中で、こわごわと触れる手というのは、少年の手という印象だった。そういえば昔、いつもポケットに手を突っ込んでいる少年がいた。
それをきっかけに、様々なことを思い出した気がした。
家で私の帰りを待っているあっくんのことを思い出した。
日の出を見る約束を思い出した。
少年時代と少女時代の出来事を思い出した。
かつてある少年は、隣を歩いていた私と手が触れ合ったことがあった。歩いている途中の、少し距離が近づいた際の、ほんの一瞬の接触だ。けれどその時、少年がとても緊張したことが、その手から伝わってきた。態度や表情には出さなかったけれど、触れた私の手の甲に、切り傷のように確かに彼の感情が刻み込まれていた。それから少年は、私と歩くときにポケットに手を入れるようになった。たぶん無意識に。
昔の話だ。
今はもう、思い出話。
何よりも美しくて、ヒトビトを惑わす、過去の話。
大切なものばかりだった昔と、だんだん大切なものがなくなってしまった今。それから——ああ、そうだ。もうひとつあるんだ。
口の中でキャンディーが溶け出すように、ふわりと暖かい気持ちが生まれた。心臓をつつんで、胸をつつんで、肩をつつんで、目と顔と頭をつつんで、全身が暖かい繭に取り込まれたように、柔らかい気持ちが溶けだした。
大切で、簡単に壊れてしまうものに触ろうとするときの、優しくて、傷つきやすい少年の手。その少年の手が、私と今のあっくんを繋いでくれている。その過去が繋いでくれている。私の周りにはそんなヒトばかりだ——損なヒト、ばかりかもしれない。優しくて、お節介ばかりやく。そのくせとても傷つきやすい。
日の出を見る約束。
部屋で私を待っている、優しい男の子は、きっとそれを大切にしている。だって私が提案したことなのだ。あっくんは、ヒトの想いや行動を無碍にできるようなタイプじゃない。自分の大切にしているものよりも、周りのヒトとの何気ない時間を優先しちゃう、そんな男の子なんだ。そんな男の子が大切にしている約束を、私は。
「守りたいなぁ」
自分の声は、ほとんど聞こえなかった。
代わりにまた、涙の伝う感触がした。
守りたいものなんて、大切なものなんてないよ。自分には何もない、全部どうなったっていいんだ。だけど私は、私とあっくんの、ふたりの約束は、守りたい。
「ああ」
そうなんだ。
誰かと一緒に過ごして、ずっと自分のために集めていた——自分の世界を守るために集めていた大切なものじゃなくて、君と一緒に抱きしめるようなものを私は大切にしたいと想うようになったんだ。
知らなかった。
気が付かなかった。
気が付かなければよかった。こんなに苦しいのに、生きる方がいいんだと、わずかに浮かんだ自分の口の端の笑みが語っている。
おぼろげに浮かんでいた景色を少しだけはっきりと見つめる。
アスファルトの、三十センチメートルくらい先に転がる小石にピントが合わさった。他には何も、意識して見るようなものはない。ただ、想ったよりすぐにアスファルトの地平線が見えているだけだ。
まったく、その地平線の先からヒーローみたいに助けに来いよな。
これじゃ、私ががんばらなくちゃ、もう君に会えないじゃないか。あっくん。
遠く。遠く。できるだけ遠くを見つめて、自分の意識を体から遠くに離すようにして、私は握ったナイフを静かに抜き取った。




