ちょうどいい
打つ手をなくしてしまった。
と言えば、心当たりがあるなんて思っていたかつての自分を恥じるばかりだが、俺は予想が当たっていると自分を過信していたので、202号室の住人が、サクヤをベランダから覗いている犯人で、話し合えば解決するだろうと思ってしまっていた。だから、俺に第二候補の心当たりはない。
それに、謎の視線は、決まってサクヤ独りの時だけに現れるという。
いくら注意を配っているといっても、仕事をしている以上、ずっと一緒に居るというわけにもいかない。どうしても、家でサクヤが独りになるタイミングは生まれてしまう。
そんな、どうにもこうにも話が進まず、と言って別段大きな被害もなく、危機感が少しずつ磨耗しながら年末を迎えていた。
「あっくん」
サクヤがスーパーの買い物カートに、お節料理で使う八つ頭を入れながら言った。
「今年はさ、一緒に初日の出を見ようよ」
「ああ、いいけど」
「うん」
このところ、会話がすぐに終わってしまうことが多い。付き合い始めの二人を演じているようだ。お互いに、お互いのことを気遣う機会が増えたせいだろうか。俺はサクヤの謎の視線の件や、仕事の気疲れに対して、たぶん自分で自覚している以上に気を使っているし、サクヤも心配を掛けないように、そして時には俺の仕事のことまで気に掛けながら、お互いがお互いを意識的に、義務的に気遣っている。思えば付き合い始めや、それ以前の時というのは、四六時中相手のことを気遣っていた。黙れば退屈だと思わせてしまうかもしれないからと、取るに足らないことを喋り続け、相手の行動にいちいちリアクションを返し、自分を殺してでも相手を立てる。だけどそういうことをしようと努力した結果、一瞬の予想外でパニックになって、普段ならなんてことない問いかけにうまく言葉を返せず静かに頷くだけになってしまう。
自分で自分に「バカか」と言いたくなった。せっかくサクヤがデートの提案をしてくれているのに、「ああ、いいけど」ってなんだ。会話がゴムボールのように、投げたら勝手に弾むとでも思っているのか。
俺はできるだけ、「いつもの」を心掛けて、ほとんど終了した会話を無理矢理引っ張り戻し、軽口を叩いた。
「……でもさ、どうして一月一日の朝日は特別なんだろうな。二日だって、三日だって、大晦日だって朝になれば日は昇るんだから、特別な理由なんて別にないとおもわないか?」
「私は知ってるよ。一月一日が特別な理由」
「え、理由とかあるの?」
「理由っていうのは、大抵のことにはあるんだよ。ただ知らないヒトが多いだけで」
得意げにすることなく、ただ、何か物思いに耽るような、物憂げな表情で言った。その姿は、一輪挿しになった花のように、凛と美しく見えた。そういうことを言われると、何か自分が、重大なことを忘れてしまっているのではないかという不安が湧く。彼女のことについて。自分のことについて、あるいはそれ以外の、初日の出や、お節料理の材料について。少し考えてみたが、不安な気持ちだけが残り、特に何も思い出すことはなかった。
「元旦の日が昇ったら、今生きてることを喜ぶんだよ」
「生きてること?」
「そう。昔は誰が何月何日に生まれたのかよくわからないことがたくさんあったんだって」
たぶん、孤児とか、捨て子とか。そういうことがたくさんあった、ずっと昔の時代のことを話している。
「だから、みんなの誕生日を元旦にしたの」
年が明けたら歳をとる。それは、桜が咲いたら一年生になるのと、とても似ている。スタートラインだけは、全員が同時に切る。
「それで、今年も一年、ちゃんと生き延びたことをみんなで喜んだの」
「生きることが当たり前じゃなかったんだ」
歴史の知識を探って、いろんなことを思いながら、そう言うと、「今よりもずっとね」とサクヤが付け足した。
それは、特に考えられた一言という感じはしなかったが、言葉の裏からは、今だって生きることは当たり前じゃないという、彼女の気持ちが伝わってきた気がした。
生きることは当たり前じゃない。
この年末だって、こうしてスーパーに来て、カートのかごにブロッコリーとタマネギと黒豆とかまぼことこんにゃくとゴボウと砂糖と卵と。いろんなものを買って食べなければ、数日だって生きられない。
サクヤの言った、初日の出が特別な理由は、科学的なものでも、法的なものでもなく、ただの彼女個人の解釈なのだと思う。だけど、科学よりも、法律よりも、俺にとっては説得力があった。
「だからさあっくん、私たちはふたりで一緒に一日の日を見るの。そして生きてこうして日を見ることに、隣で一緒に日を見ることに、肩をすくめながらはにかむの」
彼女はこちらの顔を大きな動作でのぞき込み、電球にスイッチが入ったように一瞬でパッと笑顔を点けた。
「この感情の名前なんてよくわからないや。でもきっと今は幸せだね、っていいながら」
「そうだね、それくらいが、なんかいい」
いくら初日の出を見ても、生きることのありがたみについて、昔のヒトのように実感をもって話すことはできないだろう。ただ、その瞬間は、きっと尊い。
「そうだ、どこか、日の出を見たい場所は決めてあるの?」
「特にないけど」
「じゃあ、この町で見よう」
「ええ、なんで? こういうのって、海とか行くんじゃない」
サクヤは文句を言うが、声にはそこまで否定的なニュアンスはなかった。
「地上にいれば、どんな空にだって太陽は昇るよ」
俺は、この町に引っ越してくる前。一度だけ渡った線路にかかる歩道橋のことを思い出していた。あの日、空から照りつける午前の太陽は、ちょうど線路の真上に見えていた。あの空へ続くような線路の先から昇る朝日は、きっとあの日見た空の何倍も美しく感じるに違いない。
「それに、ちょうどいい場所があるんだ」
「ちょうどいい?」
「そう、ちょうどいい」
それはいいね。とサクヤは言った。
「いいものよりも、ちょうどいいものが私は好き」
初めて聞いたが、彼女に似合うセリフだ。
大量の食材を買い終え、今日一日レンタルした車に荷物を運ぶ。年越しに備えて必要なものや、ついでに買っておきたいものを見に、ホーム・センターや電気屋にも行ったので、後部座席は荷物でいっぱいになった。
ひとつ、近い未来の予定を約束しただけで、ずいぶんと気が楽になった気がした。
あと残るのは、ベランダに現れる視線だ。どうにか年越しまでに解決できるといいのだが。まだどうなるかは分からない。一応対応作は考えてあるし、今日買った道具が役に立ってくれると期待しよう。気楽に、そう思いながらハンドルを握った。




