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〜〜〜
「お、じ、様あああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
最上階まで階段を全力疾走したため、ぎしぎしと悲鳴を上げる脚の筋肉と、焼けるように痛む両肺。
乱暴開けたベランダから道中フロアにあったコピー機を引き摺り落として、化け物の頭へ落としたおれは手摺から身を乗り出してビルの正面玄関を見下す。
遠目でも分かるほど息を荒らげたおじ様。
彼がまだ無事であることを確認したおれはすかさず、全身の至る所に走る痛みに構わず大きく息を吸い、人生最大の声量で叫んだ。
「おれはっ! 貴方の事をよく知らない!!
貴方はおれを知っていると言うが、おれはおじ様の事を何も知らない!!!」
『お、おおおじ様ぁ!?』と、地上の方でおじ様が声を裏返させた気がするが、意に介さずおれは叫び続ける。
「だからおれは素性知れない貴方とハグなんて出来ないし、逃げろと言われても素直に従えるほど信頼しているわけでもない!!」
かなりショックを受けたおじ様の顔が見えた。
ぎちっ、と咽頭が熱を発する。
あまり使うことのない声を張り上げたせいで、喉が異様に渇いていた。口の中はもうカラカラだ。
それでもおれは伝えたい事があるから、胸を張り腹から声を出して想いを口にする。
彼が一人で、化け物に立ち向かう――――その背中を見て感じたものを。
「けどっ、おれは…………! おれはっ、こんなおれなんかのために身を張って護ってくれる貴方を、知りたいと思った!! こんなおれのために命を懸けて戦う貴方もことを、知りたいと!!!」
軋んだのはおれの体か。それとも心か。
想いを吐露していくごとに、かっと、目頭が熱くなっていくのを感じながら、おれはこちらを見上げて咆哮する化け物の声に負けじと息を吸って、想いを吐く。
「だから、死なないでくれ!! まだおれは貴方と、ちゃんと話すらしていないんだっ!!!」
想いを叫び切って、ごほごほと噎せる。
ここでそろそろ声帯を休めたいところだが、まだおれは下にいる存在に用事を済ませていない。
だから込み上げる咳を気合いで堪えて、最後にもう一回だけ胸の中いっぱいいっぱいに酸素を吸い込んで――――醜い顔して空を仰ぐ化け物に、思いっ切り告げてやった。
宣戦布告を。
「来い、芋虫! おれが相手だ!!」
――――無価値で無意味な存在でしかないおれを我が子と呼び、命を懸けてまで護ろうとする異常で普通じゃない、彼。
そんな彼をおれは、見捨てることが出来るのか?
そんなの――――おれには無理だ。
おれは、こんなおれを護ると言った彼を見捨てることは出来ない。
こんなおれなんかのために戦う人を。
こんなおれなんかのために、命を懸ける優しい人を。
こんな――――優しい貴方は。
こんなところで、死んでいいはずがないんだ。
だから、だ。
おれを護ってくれた、おじ様。
貴方を、死なせやしない…………!
「ッ、ご、ほっ…………!」
流石に喉を酷使し過ぎたらしい。
声帯を口から吐き出すような勢いで噎せて、血の香りが口腔内に広がった。
はぁっ、と肩で息をするおれは呼吸を整える隙さえ億劫で、素早く現在自分のいるフロア内を見回して使えそうなものを探す。
手前のデスクにパソコンがあった。
自己防衛の為だ、許せと声に出さずに持ち主に謝りながら、素手でコードを引き千切ったおれは両手でパソコンを持ち上げると、手摺の上から真下の化け物に向けて精密な電子機器を投下する。
がしゃん――――と音を立てて化け物の頭部で壊れるパソコン。
ダメージは殆ど与えられていないみたいだか、陽動作戦としては充分だろう。
「「「―――――――――――――――――!!!」」」
耳を塞ぎたくなるような声で吼える化け物。
実際には耳を塞いでも足元からビリビリとした震動として脳天まで伝わってきた恐ろしい声に、おれの中の恐怖心は煽られたが。
もう、その声はおれの心には響かない。
「ほら! こっちだ芋虫!」
あの化け物におじ様を殺させないと決めたおれの心は、もうあんな寄生虫が巨大化しただけの化け物に怯えはしない。
それでも本能は確かに恐れを抱いているらしく、自然と震えてしまう大腿を平手で打ち叱咤しおれは化け物を煽る。
知能はどれ位か分からないが、人の不幸を笑えるような感情があるのならば、化け物の怒りを煽ることは容易い。
ようはこっちから徹底的に見下して、馬鹿にすれば良いのだ。
そうすれば――――――
「「「―――――――――――――!!!!!!!」」」
――――――この化け物は。
誘いに、乗る…………!
一声と共にビルへ突進してくる化け物。
ズンッ、と大きくビルが揺れガタガタと安物のデスクが震える。
狙い通り、おれへ標的を変えた化け物に口角が吊り上がるのが止まらない。
あとは――――――
『我が子ォォオオオオオオオオオオオオオオ!!!!』
「ぬぉうっ!?」
最後の準備に取り掛かろうとしたら、また音もなくおれの隣に現れたおじ様が絶叫した。
下の階から階段を使い全力で走ってきたのか。
だがそれにしては何の物音もしなかったな、と不思議に思うおれの傍らで、彼は杖代わりに使う、先端の歪んだポールに体重をかけながら、ぜーっはーっ、と肩で息をする。
『いった、い…………はぁっ。お前は、何をする気であるか…………!』
「ぬ、あ、ああ…………説明は後。丁度良かった」
『ぬ…………?』
悠長に説明している時間が無いのと、おれ自身が声を出すことに疲れているせいで、作戦内容を彼に話す気にはなれない。
だが、丁度良いタイミングでこの後の行為に必要なものは揃った。
「おじ様、それ貸してほしい」
『おじ様は歳を感じるので却下だ我が子。パパ父さんお父様お父さんパパン父上ダディファザー父様のいずれかから我の事は呼ぶが良い………………ぬ? よもや、まさかお前は…………』
真面目なのかふざけているのか定かではない言葉を口にする彼だが、頭は悪くなく察しは良いようだ。
おれの指す物を見て完全におれがこの後やろうとしている事を推測したらしい彼は、焦燥の浮かんでいた表情を次の瞬間厳しいものへと変えて首を横に振る。
『否。その様な危険な真似をさせる訳には行かぬ。疾く、遠くへ去るがよい』
「だが断る」
『ぬぅ!? 我が子が反抗期!』
「いいえ。どちらかと言えば思春期だ」
肉体的に――――と。
思わずツッコミを入れてしまったが、現状は漫才が許される余裕など無い緊迫した状態だ。
にも関わらず一瞬で緊迫感を玉砕した、真面目でもなければ不真面目とは言い難いどっちつかずなおじ様は頑としておれを避難させたいようで、『子どもは寝る時間ぞ』と言いながら階段を指さす。
「寝るにはまだ早い」と、顔色の悪いおじ様におれはそう返した。
――――そういう貴方こそ、そんなボロボロの体で、立っていることすら辛そうなのに。
「…………さっきも言いましたけど、おれは貴方に死んで欲しくない。だからおれは貴方にこれ以上無理はさせない」
『無理など…………しておらぬ』
化け物が突進する度に揺れるビルにうまく立ち続けることもままならない、見え見えの嘘を吐く彼の姿は、心苦しい。
彼が負っている怪我を、おれ自身も負っている気分になりながら、おれは正面からなおも戦おうとするおじ様を見据える。
「それは嘘だ。貴方はもう、立っていることすら苦しいはずだ」
『ッ…………! だが我は…………!』
「だから、後はもうおれに任せて――――」
『――――我が一人生き延びたとして、お前が生きていなければ、我は我の存在する意味を無くす』
身を引き裂くような痛切な言葉に、おれは沈黙を要された。
気魄のこもった橙の双眼は、視覚を介して黙るおれの胸を貫く。
だが――――だからといって、彼を戦わせるわけにはいかないおれは全力で彼に立ち向かう。
「……おれも、貴方がもしここで死んだら、おれ自身を許せなくなる。おれが、おれ自身を生かす理由が無くなる。
おれはまだ、死ねない。だから、死ぬな」
なんてエゴにまみれた言葉なんだろう――――彼の言葉と自分の言葉を比較して、言葉の重みは違うが抱いている覚悟は彼と対等であるつもりのおれは、鼻先を覆い隠すほど伸びた前髪の下から、鮮明に輝く橙色を見つめ返す。
夕焼けのような瞳が揺れた気がした。
そのまま、おれとおじ様は互いに互いを見詰め合う。
ズゥン、と一際大きくビルが揺れる間も続く無言。
先に気まずさもある静けさを破ったのは――――何を隠そうおれで。
二人して意地を張って睨み合っている現状が何だか可笑しくて、笑ったのだった。
「…………なんだか、おれ自身を見ているみたいだ」
こんな土壇場になってまで意志を貫く頑固さ、融通の利かなさ、我儘さ。
なんて我の強い人なんだろうと思いながら自然と溢れてくる笑いを噛み殺していると、彼は優越そうに哄笑し、毅然として言った。
『無論だ。我とお前は血は繋がらずとも、親子であるからな』
「血は争えない、ということか」
そうなるな、と意外にも笑った顔は無邪気な子どもの様である彼は一頻り笑うと、開けっ放しのベランダを一瞥して『仕方が無い』と肩を竦める。
どうして彼は仕方が無いと言ったのか。その意図を汲み取ったおれは彼に向かい――――心からおれを信頼している、本当に父親のような寛大な心の持ち主である貴方に、許しを請う。
数回言葉を交わすだけで分かった、どこかおれに性格の似た彼。
彼と対立する事は、きっと彼にとってもおれにとってもいい事じゃない。
だから――――――
「……おじ様。
おれと一緒に、戦おう」
おれ達は最初から、協力するべきだったんだ。
互いに互いを護りたくて、自分の命を懸けるから。
どうせ同じ敵に立ち向かうなら、一人よりも二人で戦った方が――――お互いを護り合えるだろう。
一人よりも、二人で。
ビルを揺らす振動は大きくなり、化け物が近づいて来ているような気配が肌を刺す。
身の毛が弥立つ、内臓が押し潰されそうなまでの圧迫感を持った殺意。
こんな悪意の塊に一人で立ち向かった勇士に敬意を表し、おれは盟約の証として右手を差し出す。
間もなくして俺の右手を――――日向のように温かく、岩のように固い右手が。
しっかりと、握り締めた。
――――どうしてだろうか。
彼の手を握った瞬間、おれは両眼に熱が灯るのを感じた。