二話 橙眼 ー存在の肯定ー
「……………………ぬんん?」
何を言っているのだろう、と。
突然現れた彼の発言に目を見張るおれは、傍らで化け物を見詰める正体不明の人物をまじまじと観察する。
肩までの濃茶色の髪は天然なのか、緩くウェーブしていて所々金髪が混じっていた。
年齢は三十代後半だろうか。精悍な顔立ちで髭を蓄え、橙色の双眸には厳格さとぞっとするような鋭さが浮かんでいる。
がっしりとした体付きで上品な黒色の外套を羽織り、その下には西洋風の甲冑を着込み武将のような剛健さを感じるが、しかしその出で立ちはどこか高位の貴族を思わせた。
一言で纏めるなら、時代遅れも甚だしい格好だ。
三度見するほどのカッコいいおじ様であるが。
なるほどさっきから聞こえてきた渋味のある低い声はこの人のものか、と一人納得するおれがハリウッド映画に出て来そうな彼の整った横顔を眺めていると、おれの視線に気付いたのか。
彼はこちらを向いて、
「ぬ?」
と、驚いた表情でおれを凝視したままフリーズした。
その場で固まりぴくりとも動かなくなった彼。
穴が開くほどおれを見詰めているが、おれの何に固まるほど驚くような事があるのだろうか。
「…………あの」
何分ほど見詰め合っていただろうか。
沈黙が気まずくなったおれはとりあえず意思疎通を図ってみようかと、石化したかのように微動だにしないおじ様におそるおそる話しかけてみた。
すると彼はわなわなと震えだし、
『…………見えるのか?』
「え? あ、はい」
『…………声も、聞こえるのか?』
「あ、はい。ばっちり聞こえてます」
まるで自分の存在は誰にも認識されないと言わんばかりの質問に『大丈夫かこの人』と、おれなんかよりずっと大人であるこの人の精神が心配になった。
…………うぬ。しかし言動もそうだが、ファンタジー系の映画でしか見た事のないその服装も、警察に補導される前に注意した方が良いだろうか。
というかよく見れば彼の着込んでいる鎧。コスプレと言うにはあまりに精巧に出来ているが…………まさかオーダーメイドしたものだろうか。
まあ、それより今はこの場から離れる方が先か。
刑罰とか言ってた気がするけど、常人があんな化け物に適うわけがないのだから。
と、危機から脱したせいか。
今も非常に危険な状況に変わりないが、思考はわりと冷静になってきたおれが色々と考えていた、次の瞬間。
『……………………ッッ!!!』
ぶわっ――――と。
ハリウッド映画に出ていそうな壮年のイケメンは、泣き出した。
「え?」
ぽかんと、困惑するおれにイケメンおじ様はぐすぐすと泣く。
三十代後半のおじ様が、何処ぞの貴族のような風貌から滲み出ている威厳を捨て去って。
『ぐすっ…………つ、ついに…………! こんな、日がっ、来るとは…………っっっ!!』
「え、えぇ…………」
『積年の想いが叶った…………! これで堂々と! 授業参観に行ける…………っ!』
「えっ」
授業参観とか何言ってるんだこの人。
まるで諸事情があって堂々と授業参観に行けなかったと言っているようではないか。
ぐっと、ガッツポーズをするおじ様。
その表情はいかにも嬉しそうで、余程自分の存在を認識された事が嬉しかったようだ。
…………こんなに存在感が強烈な人物、おれからすれば無視する方が困難に思えるのだが。
『さあ我が愛しき子よ!! 親愛のハグをしようではないか!!』
――――いやおれ、貴方のようなイケメン外国人を父に持った覚えはないんですが…………。
だばだばと流す涙は嬉しさからきているようだ。
おじ様は感涙で目を真っ赤にし鼻を啜りながら、こちらへ大きく両手を広げて輝く笑顔を浮かべている。
どう見てもおれが抱き着くのを待っているポージング。
戸惑いを隠せないおれ。
こんなに晴れやかで嬉しそうな顔をしているおじ様に「おれ、貴方の子どもじゃないです」なんて、とてもじゃないけど言い出せなかった。
…………というか、この状況は一体何なんだ。
『ぬ…………そうか。鎧が邪魔だな』
なかなか抱き着いてこないおれに怪訝だと首を傾げたおじ様は成程、と言うようにぽんっと手を叩く。
――――違う、そうじゃない。
言いたかったけど言い出せないおれは、まだこのおじ様の反応に適応できていない。
『親子のハグに武装することなど無かったな!』
――――うん、そうじゃない。
そういう事じゃないんだ、おじ様。
何を勘違いしているのか。『そも、鎧は脱げるものなのか?』と、ごそごそ自分の体をまさぐり始めたハリウッドおじ様に、ひとまず涙を拭くようにとおれはハンカチを渡す。
ちょっとおじ様の涙に勢いが追加された。
ぽんぽんと、優しい手つきでハンカチを使う彼の性格をなんとなく理解してきたおれは、当たり障りない質問を投げかけることにする。
「すいませんが、どこかでお会いした事ありますか?」
『否、初対面だ』
初対面なのかよ。
心の中でツッコム、おれ。
『しかし我はお前を赤子の頃から知っている。お前が我々を知らずとも、我々はお前のことを全て知っている』
初対面なのに我が子とか言っていたのかこのおじ様、という少し引き気味な視線を投げかけると、間を置かずおじ様は続けた。
丁重な手つきでおれの渡したハンカチで涙を拭うその様は、彼の育ちが良い事を雄弁に語っている。
おれを赤ん坊の頃から知っているとはどういう事か――――疑問に思ったおれが口を開こうとすると、不意におれへ向けていた双眸を化け物へと向けたおじ様は『ぬ――――』と唸りポールを構え直す。
『歓喜のあまり些か猶予を与え過ぎてしまったか…………我が子よ、直ぐに立ち去れ。ここは我に預けよ』
「え? っ、な…………!?」
おじ様の視線の先には、ずるずると体勢を立て直す化け物の姿があった。
上唇の眼球を潰され出血していた場所の血は止まり、残った数十の眼球を血走らせこちらを睨んでいる。
咆哮する化け物。その歪な鳴き声からは怒りが読み取れた。
おれにハンカチを返しながら逃げるよう促し、あの悪意に塗れた殺意を向けてくる化け物へと一歩踏み出すおじ様は、あの化け物と戦うつもりらしい。
体格差もあり過ぎれば存在そのものが未知である、あの化け物と。
標識の外れた道路標識のポールだけで。
「――――何、しようとしてるんですか」
――――彼は何故、戦おうとしているのか。
どう考えても適うわけがない化け物に、何故戦いを挑むのか。
思わず零したおれの疑念に、振り向かずに彼は答える。
『お前が立ち去るための時間を稼ごうとしている。生前程の力は出せずとも、その程度なら我にも出来そうなのでな』
「…………なんで」
おれのために戦う、と断言した彼に、おれは問う。
「なんで、おれなんかのためにそこまでする必要があるんですか」
『決まっておろう』
おれなんかのために、命を張ることなどないのに。
さっさと逃げればいいのに。
おれだって、今この場から逃げ出したいのに。
恐怖など一切感じさせない威風堂々さで、厳格と傲慢を織り交ぜた確固とした口調で彼は言う。
『親が子を護る――――それだけの行為に、理由など要らぬだろう』
まるで、父親の様な頼もしさで。
顔だけ振り向いて、微笑んだ。
「――――――――――何、で」
なんで、おれなんかのためにそんな事が言えるのだ。
なんで、初対面で赤の他人でしかないおれを護る――――なんて。
そんな事が、言えるのか。
『ゆけ! 生き延びよ、我が愛しき童子よ!』
一切の迷いもなく地を蹴った彼は、真直線に化け物へ突き進む。
白く塗装された鉄のポールを構え弾丸のように突進する彼の姿を見た化け物は、声を上げて巨木より厚みのある尾を振り下ろす。
アスファルトをもやすやすと砕く、重い一撃。
一度喰らえば確実に骨を粉砕させられるその一撃を、彼は信じられない事に、たった一本の細いポールで受け止めた。
バキッ、と。彼の足元を支えるアスファルトが大きくへこみ、小さなクレーターを形成する。
バトルアニメでしか見たことのないような光景が、実現された。
『ぬ――――ぅんッ!!』
化け物と比較すると絶望的なまでに小さな彼は体格差をものともせず、化け物の尾を押し返す。
続いて鞭のように体をしならせた化け物の巨体を避け、間近に迫った白い胴体に強烈な蹴りを食らわせる。
最早、人間の出来る業じゃ無かった。
茫然自失として彼の戦いぶりを見ていたおれは、その場に立ち尽くしていた。
彼の洗練された戦い、その力強さに魅了されていた――――それもある。
たがおれはそれ以上に――――この場から離れたくなかった。
逃げたいと。心の底から思っているのに。
今でもがくがくと、体は震えているのに。
たった一人で戦う彼を、置いて行きたくなかった。
だって、考えてみてほしい。
初対面の年下を自分の子どもだと、彼は何の躊躇いもなく言ってのけたのだ。
姿が見える声が聞こえると言えば泣き、何を思ったか鎧を脱いでハグまでしようとする始末。
これをマトモな大人のする事と言えるだろうか。
言えるわけがない。どう考えてもマトモな人間ではない。
その上、どう見ても血の繋がっていないおれの父親を自称し、幼い頃からおれを知っていると言った。
ストーカーではないかと疑った。正直、おれは現在進行形で彼の常識力も疑っている。
しかも下手すれば軍隊も適うわけがない化け物を前におれを護ると言い、その理由を親だからと断言までしてみせた。
無価値なおれのために、逃げる時間を稼ぐと彼は戦いを挑んだ。
普通じゃない。化け物の攻撃を受け止められている所からも評価するが、彼は普通じゃない。
異常だ。格好からしても彼は異常者以外の何者でもない。
そんな彼を――――
――――こんなおれなんかのために、簡単に命を懸けれる。
そんなあまりに愚かで真っ直ぐな人を、おれは見捨てることが出来るのか?
…………そんなの―――――――――――――
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かつて自在に振るっていた力の半分以下も、発揮出来ない。
それは彼も自覚していることだった。
理由は分かっている。納得もしている。
最早自分に戦う力が無いことは、彼自身が一番良く知っていることだった。
それでも彼は一人、異形へ立ち向かう。
相手と自分の力量を比較出来ぬほど、落ちぶれた覚えはない。
それどころか数分も自分が持ち堪えられないことは、容易に予測出来ていた。
しかし、なおも彼は武器を振るう。
槍に見立てたポールで敵の猛攻を受け、時に押し返し、時に受け流す。
既に捌ききれない攻撃は彼を直撃し、体力と与力を奪いながら徐々に敗北へと追い込んでいく。
荒れた呼吸を静める隙もない。一撃一撃に対処するので、彼は精一杯だった。
――――だが、彼は自分の死を持ってしてでも護りたい者のために命を懸ける。
それが彼の生きざまであり、彼が唯一抱き続けた願いでもあったからだ。
歯を食いしばりながら続けた攻防。
数十に及ぶ応戦の末、とうとうオフィス街の片隅に追い詰められた彼は辺りを見回した。
周囲に護るべき存在がいない――――最も重要な事を確認した彼は、殺意の中で胸を撫で下ろす。
長い時を過ごした彼にとって、かの童子は最後の心残りであった。
長い時の中で得た、短くも穏やかな日々。
その中心にいた童子はいつの間にか彼にとって、我が子に等しい存在となっていた。
出来れば、もっと話しをしたかった。
叶うならば、その未熟な体を抱き締めて惜しみない無償の愛を伝えたかった。
本来ならば、彼は童子と言葉を交わす事も適わない存在であった。
そんな自分が愛し子と言葉を交わせたのは、最後に神が気紛れに願いを叶えたからだろうか――――
(――――しかし、それはなんと、幸福な事だろうか)
白色の夕日はもうじき沈む。
周囲はほぼ夜闇に覆われた。
街の中で一位二位を争う標高のビルの正面玄関へ追い詰められ、じりじりと濃厚な死の気配を肌で感じる彼は、恍惚と頬を緩ませる。
彼の願いは、護ることだった。
己の存在をかけて、愛しいと想えるものを護り抜くこと。
その為ならばどんな悪逆も喜んで実行する彼は、最後に護るべき者を護れた事に満足し、今。
僅かな光をも飲み込まんと迫った無数の歯牙に、その身を委ねんと――――
ゴシャァッ――――と音を立てて寄生虫の頭上に落ちてきたのは、キャスター付きのコピー機だった。
『なぬ…………?』
自在に体をくねらせることから柔らかそうな印象を受けるが、実際はコンクリートを砕きながらも無傷で進めるほどの強度の表皮を持つ寄生虫。
そんな寄生虫でもビルの上階から落ちて来たコピー機の衝撃には痛覚を刺激されたのか。
一瞬怯み、痛そうに頭部を振る寄生虫。
死を覚悟していた男は頭上を仰ぎ、十階建てのビルの最上階の窓枠から地上を見下ろす存在に気付き、言葉を失う。
そこでは、とうの昔に逃げたと思っていた愛し子が、顔を出していた。