三話 紫眼 ー幻想世界と非日常ー
何故班長さんがおれの家へと来ているのか。
それはどうやら、おれの家と幻想世界のおれの部屋を繋げるためらしい。
「…………テメー、金持ちだったのか」
おれが住むマンション、愛称ホワイトハウスのエレベーターロビーでエレベーターを待つ班長さんは、意外そうに話しかけくる。
おれが金持ちなのではなく、母に稼ぎがあるのだ――――そう返したおれに「つまり家に金が有るんだろ」と、人気のないロビーを一望する彼は、やって来たエレベーターに眉間のシワを深めながら乗り込む。
彼が眉間を寄せた意味を察したおれは、「一番最初はおれも驚いた」と思いながら、夕焼け色に染まるエレベーターの中へ足を踏み入れた。
このエレベーターは屋上に設置されたカメラで撮影したリアルタイムの空の様子を、スクリーンで壁と天井に映し出している。
そのためまるで空の中を上がっているような感覚が味わえる、密かなおれのお気に入りだ。
収容人数十二名という、業務エレベーターのような広さを誇る密室内で「最上階か…………」という班長さんの呟きを聞き流すおれは、しばらく沈黙を味わう。
ポーン、という木琴のような音を立てて止まったエレベーター。
『開』のボタンを押し、班長さんがエレベーターから降りるのを待ってからおれも夕焼け色の空間から廊下に出、二つに別れた廊下の左側へ案内していく。
最上階には部屋が二つしかなく、エレベーターから出て右に行けばそこは隣人の住む部屋となっている。
まだ今は帰ってきていないようだと、隣人の部屋側の廊下に置いてある犬の置物がこちらに向いていない事を確認したおれは、鞄のそのポケットから自宅の鍵を取り出し、鍵穴に入れて回した。
がちゃり、と。
錠が外される手応えがあり、鍵を抜いて扉を引けば、何の問題もなく開かれる玄関。
先に入るようにと、客人である班長に身体の向きを変えて促せば、「邪魔するぞ」と彼は一言言って玄関に入る。
傲慢な言動が目立つので少し不安だったが、意外にも班長さんは礼儀正しいようだ。
「スリッパは好きなのを使って下さい」と言うと、玄関先に置いてあった数組のスリッパの内、一番手前の物に足を入れた班長さんの後ろ姿を見送るおれは、彼に続くように荷物と共に玄関に入り、扉の鍵を閉める。
振り返ったところで、きちんと揃えられたおれの物ではない靴が目に入った。
質感からしてかなり使われていそうだが、手入れの行き届いたローファーである。
足元って人の性格が出るよな、と思いながらおれは運動靴を脱いで、班長さんのように揃えて置く。
それから一言、リビングに向けて小さく。
「…………ただいま」
と、呟いた。
いつものように、返事は返って来なかった。
6LDKの間取りであるおれの家は、広い。
広いが、普段おれしかこの部屋使っていないため、家具や日用品は必要最低限の物しか揃っていない。
偶に帰ってくる母や、母の秘書とその家族がごく稀に泊まりに来るので、家具自体は六人用の物が一通り揃っているが、年間を通してあまり使われることが無い。
そのためだだっ広い部屋に一人暮らし、という構図が出来上がるこの家で、久々の来客である班長さんは家の散策を終えると、驚きや困惑を込めて一言吐き捨てた。
「芸能人の豪邸かよ…………」
金の無駄遣い過ぎる、と理解出来ないと言うように力なく首を振る班長さんを横目に、冷蔵庫へ卵を無事に仕舞い終えたおれは、早速彼がおれの家を訪ねた目的へと話を進める。
どうやって向こうの世界へ行くのか――――そう訊ねると、班長さんは「ああ」と淡白に答えておれを見る。
「この家で一番デカい鏡はどれだ?」
――――班長さんの説明によると、幻想世界と現実世界との行き来を自由にするためには、幻想世界におけるおれの部屋のカードキーと値の高いSF保持者が必要なのだという。
おれの家にある大きい鏡といえば二つある。
洗面所と、おれの部屋のクローゼットにある鏡。
そのどちらが言いか訊ねると、個人で使う物の方が良いという事でおれの部屋へ移動した班長さんは、こざっぱりとしたおれの部屋を軽く見渡し何か言いたげな顔をしてから、クローゼットへ歩を進める。
壁面収納式のクローゼット。部屋の扉から最も奥の壁にあるこのクローゼットの左端の扉を開ければ、そこには壁に取り付けられた形で姿見が姿を現す。
日常生活では身支度程度にしか使っていない、おれの身長より少し高い位の鏡の前に立つ班長さんは、「丁度良いな」と呟くと、おれの机の近くに下ろした自身の鞄からペンケースを取り出した。
シンプルな形状のペンケースを開き、整頓された筆記用具の中からカッター取り出した彼は、「何をするのだろうか」とおれが見守っている中で、平然とした顔でカッターから刃を引き出すと――――何の躊躇いもなく自分の左手親指に刃を滑らした。
ギョッとして目を見張る。
一体何をしているのかと、おれが箱ティッシュを片手に班長さんの元へと駆け寄ると、班長さんは親指に血を滲ませながら、片手でカッターナイフをペンケースに仕舞い、自傷行為の意味を説明した。
通常通りだと言うような、何ともない顔で。
――――曰く、幻想世界と現実世界を繋ぐには、値の高いI粒子が必要なのだという。
「現実世界(こっちの世界)には大気中にI粒子がねーからSFの発動はできねーが、SF保持者の体内ではI粒子が生産されて全身を巡っている。
技術部が製作したこのカードキーとI粒子が組み合わさる事で、I粒子が増幅し特定の場所に繋がるゲートが開く仕組みになっている。これはI粒子の値が高くねーと上手く作動しねーから、誰か一人が新人と一緒に行う事になっている」
その説明を指を切る前に言って欲しかったと、切実に思うおれは突然の流血沙汰に未だ心臓がドキドキしながら、班長さんの行う作業を見学する。
血液が一番効率が良いのだと言う班長さんは、親指に滲んだ血をクローゼットの姿見に押し付けた。
それから鏡に付いた血の上に、部屋に入る時おれが渡した幻想世界でのおれの部屋の鍵を押し付ける――――と。
カードキーを中心に、鏡面に波紋が広がった。
湖の中に小石を一つ投げ込んだように、波を打つ紋。
音に喩えるなら「ふぉんっ」と、滑らかに波打つ鏡面の中に映る班長さんの姿が歪み、鏡面下で景色がボヤけた色となって混ざり――――やがて、見覚えのある光景を映し出す。
それはビジネスホテルのように質素なベッドと机に、見覚えのある犬轡とナイフが置かれている、幻想世界でのおれの部屋だった。
「普段使う分にはこの鏡はただの鏡だ。だが、SF保持者が触るとI粒子に反応してこいつはゲートになる。分かったか」
血の付着したカードキーをおれから受け取ったティッシュで拭き、返してくる班長さんの説明に「分かりました」とおれは答える。
つまり普通に身支度をする分にはただの鏡。しかしおれや班長さんが触るとゲートに早変わりするというわけだ。
…………誰かがいる前で鏡を触らないようにしないとな。
偶に泊まりに来る、知り合いや隣人のことを考えて、そう思った。
ティッシュで止血を済ませた班長さんはおれへ鏡についての説明を終えると、部屋を出て行ってしまった。
どこに行くのだろう、と班長さんが出て行った扉の方を向いて立ち尽くしていると、間もなくし靴を持って現れた彼におれは納得した。
成程。向こうで室外を歩く時の靴か。
それは考えていなかった。
直ぐにおれも班長さんに倣い、玄関から靴を持ってくる。
部屋に戻るとローファーを片手に班長さんが「入れ」と鏡の方へ促したので、おれは恐る恐る鏡へと手を伸ばす。
本来ならば滑らかな鏡面に触れるはずの手が、だまし絵のように鏡の中へと吸い込まれるように、通り抜ける。
通り抜けた鏡向こう側。
そこに危険がないことを、鏡に映る室内の様子と手の感覚から感じ取ったおれは、続けて全身を鏡の向こう側へと押しやった。
少し、空気が変わった気がした。
味わい慣れたものではない、空気の味。
空気に味がそもそもあるのかどうかという話から始まると思うが、おれの稚拙な表現力では「味」と表現するしかない幻想世界の雰囲気を、確かに五感全てで感じ取るおれは、本能的に思う。
ああ――――ここは異次元の世界なのだと。
こちらの時間では、大体二週間位だろうか。
時間の流れが違う現実世界と幻想世界の時差を考えながら、体感覚では十数時間ぶりとなる組織での自室に足を踏み入れたおれは、まず部屋の中を見渡した。
まだ二週間程しか使っていない新品のセミシングルベッドの上には、とある殺人鬼が着用していた犬轡。
中身の入っていない引き出しのある机の上には調度品を並べるかのように、ホルスターに入った十字架の様な物が十個程置いてあり、扉のある壁側に設置されている壁掛けには見覚えのある赤い外套が掛かっている。
――――おれが最後に見た部屋の光景と、少し変わっていた。
おれがいない間、おじ様とリッパーは自由にこの部屋を使っていたらしい。
外套が脱いで壁に掛けてあったり、知らないナイフが増えていたりと、個性の出る使い方をされている自室を眺めたおれは、そっと胸を撫で下ろした。
良かった。とりあえず、あの亡霊達は何不自由無く過ごせていたらしい。
これでも色々心配していたのだ。何せ最後におじ様とリッパーを見たのはおれが現実世界に帰る時。
勇者さんによって、床の上で正座させられている姿だったものだから。
服や装飾具を脱いでおけるぐらいには、精神的にも不自由無い生活を送れているようだ。
後からこちらの世界における自室のクローゼット、その隣にある姿見から現れた班長さんに「ありがとうございます」と、ゲートを繋げてれた礼を言えば、「ああ」と素っ気ない返事で応えられる。
今回歳の近い彼とゲームセンターなどに行って交友を深めたおれであるが、おれは未だに彼の性格が掴めない。
今の返事は『仕事だから』という理由で礼を言われる筋合いは無いという意味なのか。
それとも『礼を言われる意味が分からないが、とりあえず応えておこう』という意味なのか。
恐らく前者だろうなと思いながら、班長さんが鞄を肩に掛け直すのを眺めていたおれは、彼が手にしているローファーを見て「そういえば靴を玄関に置いて来なければ」と、自分の手に靴を持っていた事を思い出す。
これからこちらの世界に来たことをルイスさんやマスさんといった組織の人達にも伝えないといけないし、班長さんも自室に荷物を置きたいだろう。
「後で司令部の方に顔を出すから、俺の部屋の前で待ってろ。前来た時はクソ医者と脳筋に絡まれて、そっちの方に挨拶に行ってないだろうからな」
さり気なく連絡事項をおれへ伝える班長さんに、了解だと肯定の返事を返したおれは、「確かに司令部の方へは行っていないな」と前回こちらに来た時の事を思い出しながら、リビングに繋がる扉に手を掛ける。
前回の時に司令部までの行き道はマスさんによる強制施設見学によって覚えさせられたのだが、班長さんはおれを送り届けるつもりでいるらしい。
言動こそ横柄だが、他人の家に上がる時の礼儀といい前回あった医務部への案内といい、彼はわりと親切な人なのだろうな――――などと。
そんな事を考えながら、「ところでこちらの世界で二週間ぶりになるおじ様とリッパーは何をしているのだろうか」と、また犬系亡霊二名の事が心配になり始めるおれは、自室からリビングへと移動して――――
全裸の女性が、立っていた。
『――――おや』
――――おれはリビングの中心で、我が目を疑う。
『おやおや。おやおや、まあまあ』
唐突に動きを止めたおれの後ろからやって来た班長さんが、静かに固まる気配が背後でする。
流石の班長さんでも、この状況には何の言葉も出ないようだ。
実際、おれも何も言葉が思い付かないし、そもそもこの場合どうすれば良いのか分からない。
そっと視線を逸らすおれは、まずはと眼を瞑り、今し方網膜に焼き付いた景色をリセットしてから、また目を開く。
――――とんでもない光景が視界に飛び込んで来た。
二度見しても凄まじい破壊力のある光景に、軽く眩暈を覚えるおれは、一度班長さんへと振り返る。
視線で訴えた。
あれは、現実ですか? ――――と。
班長さんは若干、頭の痛そうな顔をしながらおれへ視線を返す。
あれ、テメーの知り合いじゃねーのか? ――――と。
――――知り合いのわけが無いだろう、あんなインパクトの強過ぎる人。
疑いの眼差しを向けてくる班長さんに、無言で訴える。
おれは、彼女とは、初対面である。
だがこれでおれに見えている光景が白昼夢や幻で無いことが、彼の反応から実証された。
ならばおれは何をするべきか――――にわかに信じ難い事が現在進行形で起きているが、何はともあれとりあえずこう言う事がこの場において最優先事項だろう。
そう確信したおれは班長さんから振り返り、再び目を背けたい気持ちでいっぱいになる凄まじい光景の中心に、こう言い放った。
「…………服、着ませんか?」
全裸の女性に、そう言い放った。
おれの背後で班長さんがバッサリとツッコむ。
――――それも有るがまず最初に相手の正体を探れよ、と。
――――ちなみに誤解を招かない様に訂正を加えさせてもらうと、おれと班長さんを同時に硬直させたその女性は、正しく言うと全裸ではない。
全裸に限りなく近い、身体に一枚バスタオルを巻き付けただけという格好だ。
まるで風呂上がりのような身なり。
一応清潔な白いバスタオルで隠すべき所は隠しているが――――まあ、なんというか。
白熱灯の下で眩しい程に映える色白な肌に、きめ細やかな肌。
遠目で分かる柔らかそうな二つの実りと、引き締まったくびれ。
腹部の細い身体のラインから大きく描かれた曲線により強調される腰の丸みと、むっちりとハリのある太腿。
バスタオルで隠すには圧倒的に面積が足りなさ過ぎるとしか思えない、上と下の大きなカーブ。
主に胸部の頭頂部と脚の付け根をギリギリ覆う程度のバスタオルが、逆に不健全な視覚的効果を生み出してしまっているそれは、女性の身体に興味が無いおれでさえも何故か目を離せなくなる。
美しい、女性の身体だった。
美術の教科書に載っている絵画に、著名な画家による女神を模した美女の絵が記載されているが、それをもし現実にするならばこんな感じなんだろうな――――などと。
そんな事を頭の片隅で考えながら、何故かまじまじと知らない女性の裸を凝視してしまう罪悪感と気まずさにより、バスタオル姿の女性から目を背けるおれは、混乱のせいで纏まらない思考を必死で働かせる。
これがもし普通の女性の裸体だったならば、ここまで思考が纏まらないなんて事は起こらなかっただろう。
だが、何故かおれの部屋のリビングにいる彼女を目の前にすれば、思考が停止する程の混乱は仕方ないとさえ思えた。
天の理とも、思えた。
おれの部屋で堂々と肢体を晒す、女性。
外見から二十後半であるように見える彼女が一目で思考を停止させる程、特別な存在である理由は、一つ。
――――彼女が、絶世の美女であったからだ。
肉欲的な身体のフォルムだけではない。
彼女の場合、湿って重たくなったのであろう長髪から覗くかんばせ――――顔の造形までが、美しく整っていたのだ。
顔のパーツの位置から二十代後半の女性である事が窺えるが、大きくぱっちりと開いた瞳と小さく丸みのある唇には、二十歳以前に見受けられるあどけなさがあるように思えた。
艶のある長髪は濡れて一層艶やかに映え、切りそろえられた前髪の下では鮮やかな紫色の双眼が宝石の様に輝いている。
彼女の存在に困惑し次の行動に出れないおれへ宝玉の様な眼を向ける女性は、微笑みを浮かべる。
その笑みには敵意が見当たらず、友好的な雰囲気があるように思えたが――――彼女の浮かべた表情は、純粋という言葉からは逸脱していた。
裏がある様な、含みの有る笑い。
しかしその下げられた目尻や緩やかに上がった口角はあくまでも『平和的に』物事を進めようとしている意図が見受けられ、だがその目付きは獲物に狙いを定める様な鋭さがあり。
何より――――一瞬どきりとするような、淫靡さが彼女の表情にはあった。




