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野宿するにしろ探索するにしろ、エネルギーを消費する。
消費したエネルギーを回復するためには睡眠だけでは事足りない。
食事という、エネルギーの補給をしなければならない。
そんな重要な事を今になって思い出したおれは手持ちに何があるかということを確認するため、適温の保たれている臨時拠点の床に持っていた学生鞄の中身を広げた。
財布、今日の体育で使ったジャージ、筆箱、数学と英語の問題集、五百ミリペットボトルのストレートティー、苺のジャムパン、ハンカチ、ティッシュ、絆創膏、携帯裁縫セット、携帯電話、スーパーのビニール。――――以上。
教科書は学校のロッカーに仕舞い、次の日の予習・復習のために必要な物だけを持って帰るというスタイルで登下校しているので、おれの学生鞄は真面目な生徒と比べ比較的に軽い。
今日は体育で使ったジャージを洗濯するため鞄が普段より膨れていたが、現状で役立つ様な物はあまり入っていなかった。
これから探索するにあたって強いて役に立つのなら、発見した物を確保するためのビニール袋と怪我した時に使う止血用のハンカチと応急処置の絆創膏ぐらいだろう。
唯一の食糧は隣人が小腹を空かせた時のために購買部で買っておいた、ストレートティーと苺ジャムパンのみ。
とりあえず一食分――――今日の晩の分は確保出来ていると考えても、明日からの食事に困る事がひとりぼっちの持ち物検査の結果判明した。
おれの当分の目標に、『手掛かりの発見』『被害者との合流』の他『食糧調達』が加わった。
…………食糧調達の際、店にはちゃんと代金を支払っていくつもりだが、所持金二千五百円を超える場合は最悪、店から商品を盗む事になるかも知れない。
そう考えると、罪悪感から少しこの先が不安になった。
一応念の為携帯電話で誰かに連絡がとれないか確認してみたが、そもそも電波が圏外になっているためどこにも繋がらなかった。
マルMISEに電気は通っているが、現在地から遠くに見える電波塔から電波の送受信は出来ないらしい。
新しく情報を手に入れたおれは時間を確認して、携帯の電源を落とす。
現時刻は五時三十二分。通常ならそろそろ日が暮れてくる時間だ。
夜の探索は安全のため控える予定だが、有事の時には懐中電灯代わりに使おうと考えている。そのため電池節約にと電源を切ったのだ。
懐中電灯を入手したら、そちらを優先的に使うが。
「……さて」
確認した所持品を鞄に詰め直したおれは、肩に掛けるタイプの学校指定鞄を装備して、拠点マルMISEを出る。
所持品は確認した。目標は確立した。
――――街の探索を、始めよう。
万が一使う時が来る可能性を考えて、持ち物全てを持って歩く事にしたおれは手始めに、オフィス街の方向へと足を進める。
オフィス街にはファーストフード店やスーパーマーケットがある。
食糧調達にはうってつけの場所だろう。
それにこの街で一番人が集まる場所だ。
おれ以外の被害者がいるかもしれない。
なので最初の探索地はオフィス街に定めた。
念のため護身用に消火器を持って行こうか出発直前に悩んだが、荷物が多くなり動きにくくなることから、持っていくことをやめる。その代わり「いざという時は全力でどうにかしよう」と考えながらオフィス街へ向かう事、十分。
街の者全員が夜逃げしたかのような廃れた駅前にたどり着いたおれは、最初にスーパーマーケットへ足を運んだ。
最初にするべきは食糧調達だと判断したからだ。
おれの存在をセンサーで感知した自動扉が開くのを確認したおれは、どうやらスーパーの電力も問題なく行き届いているようだということを確認し店内へ入っていく。
それからぐるりと店の中を歩き回って、軽く絶望する。
「……店に食べ物がない、だと?」
嘘だ、と疑いながらもう一度店内を一周してみたが、結果は変わらない。
なんと生肉や魚・野菜すら一つも置いていない。マルMISEと同じ現象がスーパーマーケットにも起きていた。
勿論、水すら無い。あとついでに、そっと刺し身に添えるつまのように売られていたティーシャツやレインコートといった衣類もない。
どうやら売店のハリボテ化は、コンビニマルMISEだけではなかったようだ。
「……ぬぅん…………」
食糧調達に失敗したおれは次なる場所へ向かい、再度食糧調達を試みる。
次に向かったのはファーストフード店。全国にチェーン展開されている赤い看板が目印なあのハンバーガーショップだ。
やはり機能する自動扉を潜り抜け、レジカウンターから身を乗り出して厨房を覗き見る。
店員どころか新品同様の厨房内に若干を不安を感じながら「ごめんなさい」と、脳内に赤いアフロのキャラクターを思い浮かべ彼に謝罪を述べてから、意を決して厨房へと侵入した。
本来ならば従業員以外立入禁止の領域。
そこに堂々と不法侵入していったおれは『生きるため』と痛む良心を誤魔化す様に自分に言い聞かせながら調理場を漁っていくが。
「……食材すらない、だと…………?」
絶望した。
このゴーストタウンにある建物は全て、外見だけで中身のないものばかりなのか。
シェイクもなければハンバーガーの包み紙も無いファーストフード店に、無性に「チキンバーガー!」と叫びたくなった。今のおれが食べたいものである。実際、沈黙に耐えかねてそこそこ声を張り上げ叫んだ。
無人の店内に響く自分の声の虚しさと、叫んだ後の気恥ずかしさだけが残った。
もうこんなことは二度としないと心に誓った。
良心を痛めた甲斐もなく、その後いくつもの店やビルの中に入り探索を進めていったが、食糧も人影も見つけることは出来なかった。
疲労ばかりを積み重ねていくおれだったが、代わりにいくつかの情報を得ることが出来た。
一つは、どの建物にも電気が通っているということ。
とあるビルの給湯室で確かめてみたが、ガスや水道は全く機能していないというのに、電気だけは自由に使うことが出来た。
使用できる制限はあるのか確かめるため、まるまる一つのビルの全照明をつけて二時間程放置してみたが、確認した限り光が弱くなった場所は一つも見受けられなかった。
電化製品も問題なく使えた。
よってどの建物でも夜間の明かりと冷暖房に困ることは無さそうである。
だが同じ電気で動いているはずなのに、信号機は全く作動していなかった。
建物内の電化製品と信号機にどのような違いがあるのか。
それはまだ判明していない。
二つ目は、建物と電化製品以外のものはほぼ全て消滅しているということ。
どの建物も冷暖房機などはあるのに、肝心の中身が無い。
アイスサーバーなら氷が。プリンターならコピー用紙が。
例外としてスーパーの垂れ幕やファーストフード店のメニュー表はあったが、それ以外の物品は筆記用具すら消失していた。
なぜ機械製品は残っているのかは、分からない。
そして、三つ目。
これはビルの屋上に上がって町を一望した時に知った。
この町は、荒地の中にある事に。
正確な距離は測っていないので分からないが、この町はある一定の範囲にのみ忽然と存在していて、その範囲の外はおれの家のあった場所のように――――僅かに野草の生えた荒地と化しているようなのだ。
目測で、駅を中心に。
ぐるりと大きく円を描き、四方八方を荒地に囲まれる中に存在する、この町。
隣町や森林ですら消滅しており、荒野の真ん中で完全に孤立していた。
まるでこの場所だけ切り取られ、荒地に移動させられたかのように。
たとえるなら広い海の真ん中に存在する孤島のようにぽつりと存在する、おれのいる町。
この場所以外に他に街は無いのかと、縋るような思いで荒野の先へ目を凝らした時、遥か遠くの地点に別の街が見えた気がしたが――――なにせ日が沈んできて辺りは暗くなってきていた。
灰色の世界の夕焼けは白色で、目に刺さるような西日のせいで正確に遠くを見ることは出来なかった。
だが、おれ個人の希望としては――――別の街であってほしい。
荒地の中に一つだけ街があるなんて、車すらないこの世界では外部からの連絡・交通手段が皆無にも等しい、厳しい状況。
というか、本当に絶望的な状態ではないか。
――――そんなわけで。
本日の探索の結果『電気以外のガス・水道は使えないこと』『建物と電化製品しか存在しないこと』、『この街は荒野の中にある 』ことが判明した、現在。
望んだ成果は得られず、駅前の時計台にぐったりと寄りかかるおれは、灰色の空を仰いだ。
曇り空とも、雨の空とも違う空。
まるで異界に迷い込んだかのような、空だ。
「…………八方塞がり、か」
ついでにビルの屋上から確認したが、電車の線路は荒地と町の境界で途絶えていた。
よって線路を辿り別の街へ、援助を求めて行くことは出来ない。行く場所がない。
食糧も無く、元の街に戻る手掛かりもなく、つどこか別の街へ助けを呼ぶことも出来ない。
夜が明けるのを待って、ビルの屋上へもう一度登り他に街がないかしっかりと確かめることは、明日の予定には入れているが――――それ以上に今は、この先が不安だった。
この先の未来も、今も、不安だった。
食糧は手に入るのか。元の場所に戻れるのか。助けは来ないのか。
――――この灰色の空の下には、おれ以外は誰もいないのか。
一寸先の闇の如き現状に、漠然とした不安が霧のように纏わりつく。
…………誰も。
この町には、おれしかいないのか。
「…………誰、も」
半分以上闇に染まった空が、異様に不吉に感じ、飲み込まれてしまいそうなほど――――暗い。
ざわりと。産毛を逆撫でていく恐怖心と、見知った未知の土地にこの身一つで放りだされた孤立感。
「……誰も、いないのか」
耳鳴りすら遠く感じる静けさ。肌を包む夕方の寒さは、細針のように細かに、だがじわじわと身体を蝕んでいくようで。ぼたぼたと涎のように口から紛れもない本心が零れた。
「……誰か、いないのか」
ほとんど無意識に口から零れる本心を聞く者は誰もいない。
この目で見てきた光景からそれを嫌というほど理解しきっているおれは溢れる心細さを地面に落としていく。ぼたぼたと涎のように、だらしなく。みっともなく。
「……誰か」
誰でもいい。男でも女の子でも。幼くても老いててもいい。
誰かいないだろうか。おれの声に答えてくれる人は、いないだろうか。
「………………………………」
黙っていると、見えない重圧に潰されそうになる。世界に独りという事実に、身体の中心にある柱が折れそうになる。
独りには慣れている。誰にも頼れない状況には慣れている。
だが、それとこれとは話が違う。自分以外の生き物がいないなんて、そんな“ひとりぼっち”の恐ろしさなんて、おれは知らない。知るはずもない。慣れていない。
だから、どうすればいいかわからない。なにをすればいいいのかわからない。
昏い感情が足音もなくやってくる。段々と伸びていく影。暗くなっていく空が、この世で最も恐ろしいものを連れてくる。
――――ああ、夜がやってくる。
「…………だれ、か」
まだ日は落ちない。そうと分かっていても、自然と身体が震える。一刻、一刻と、その時間はやってくる。
おれは夜が嫌いだ。誰も家に帰る。居るべき場所へ戻る、あの時間が嫌いだ。夜の闇は、底なしの恐怖を。寒さは、己の無力さを。静かさは、埋めようのない孤独を思い知るから、厭だ。
目的がある夜はいい。たとえば誰かを待つ。約束がある。そんな夜はまだ耐えられる。
だがこれは駄目だ。誰も待たない。約束もない。確定された予定がない、この夜は駄目だ。
一生明けないのではないかと思う夜は駄目だ。“思い出す”から駄目だ。
だから――――
「…………ひとりは、いやだ」
凍えた呟きはただ地面に落ちる。どこにも行かず、誰にも届かない。
その非情な現実を見届けたおれは、夜闇に追いつかれる前に拠点のコンビニに引きこもるべく、僅かに足元から視線を上げた。
その時だった。
無音だった世界に突如、破壊音が轟いた。
「ぬっ…………!?」
地面が小刻みに揺れる程の、衝撃。それも、連続して。
時計台から背を離し、立て続けに起きていく破壊音の正体を確認しようと、大通りに出る。
間近で和太鼓の音を聞くよりも重々しく、建築物の解体現場より破壊的な衝撃を、危機感として肌で感じながら音の方向へと目を向ける。
破壊音は、学校のある方角から。…………否。
――――距離的に、学校から聞こえた。
「……何、が…………」
何が、起きているのだろう。
この世の終わりの様だった、無音無人のこの世界に。
渇いた口内の、少ない唾を呑む。
初めて現れたこの世界の変化に、興味や期待がないわけではない。
もしかしたら――――なんて、希望も心のどこかで抱いている。
だがおれは躊躇った。
あまりにも禍禍しい爆音のする場所へ、果たして行っていいものなのか。
本能はビリリとした緊張を全身に張り巡らせている。
どうにもこの、幼い子どもが無遠慮に積み木の城を壊しているかのような轟音のする方へ、近づいてはいけない気がする。
心臓を踏み潰される寸前にまで追い詰められているような――――嫌な予感がしてならない。
気のせいか、ずるずると、重いものを引き摺っているような、もしくは何かが這いずっているような地響きと破壊音が聞こえる場所へ。
行っていいのだろうか。行くべきだろうか。
「……………………う、む……」
たっぷりと、十秒間。
その場に留まって悩んだおれは、ずっと持ち歩いていた学生鞄を時計台の根元に置いた。
ハンカチとティッシュを取り出し、それから護身用に、無いよりはマシだと考えて筆箱の底からカッターナイフを探し出して、ズボンの右ポケットに仕舞う。
――――様子見、だけなら。
校門のところから少しだけ、覗いてみるだけにしよう。
逃げることを想定し出来るだけ身軽な格好でいるため、鞄を置いていくおれは手早く身支度を整えると、大通りから轟音のする学校方面へ速足で移動を始める。
――――せめて何か、手掛かりがあれば……。
――――…………あと、出来れば食糧があれば…………。
ああそういえばまだなけなしの食糧に手をつけてなかったな、と頭の片隅で思いながら。
おれは自分の通う学校――――戦ヶ時国代高等学校へと慎重に歩を進めた。