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――――燃え盛る雨の止む頃。
広がっていた蝙蝠の幕は役目を終えたと云うように散り散りになり、未だ笑い続けるヒト型化物さんの身体へ戻る。
蝙蝠はそれぞれ腕へ、腰へ、脚へ、背中へ。
ヒト型化物さんの身体へ張り付き、次々溶け込んでいき、元の手足へ身体の一部へ変化していく。
元の姿へ戻っていく。
それは例えるなら――――水溜りの中にペットボトルの水を注いだかのように。
最初からそうであったかのように、同化していった。
身体の一部となって溶け込んでいった蝙蝠を気にとめる事もなく、寧ろ生理的な肉体の機能であると、ヒトの目から見てただ不可解な現象を享受するヒト型化物さんは、こみ上げる笑いを深呼吸することで落ち着かせていく。
続いて放たれた炎の剛球。大蛇のようにうねる灼熱の鞭。
自分に向けられる攻撃の全てを身体から分離させた無数の蝙蝠で防いでいくそのヒト型は、一連の攻防に呆気に取られているおれへ愉悦を物語る金眼を向ける。
「ハハハハハッ――――いやはやっ、これはたまげた胆力の持ち主よ! 敵の手中に捕らわれながら吸血鬼たる吾輩に物申すとは、大した器の童ぞ!」
「…………はぁ」
よく分からないが好評価されているらしいおれはどう反応すべきか戸惑いながら、ただでさえ人間離れした端正な尊顔を心底愉しそうに綻ばせるヒト型さんにとりあえず、相槌を打っておく。
無視をするという手もあったが、流石に無視は失礼だと思ったのだ。
曖昧な返事と共に頷いたおれに、自在に蝙蝠操り炎を防ぐヒト型はどこで興味を抱いたのか。
ふむ、と髭の蓄えられたアゴに白い指を添えると、ヒトの形をしたそれはおれに問うた。
「少年よ、名はなんという?」
名前を訊かれたおれはつい、反射的に名前を名乗りかけてしまう。
だが、声を出す直前にふと班長さんの忠告を思い出した。
名乗ってはいけない。
確か班長さんはそう言っていた気がする。
わざわざ最初に忠告する程だ。余程の理由があるのだろう。
そう考えたおれはこのまま質問を無視することを思い付いたが、「質問されているのに無視するのは気分の悪いことではないか?」と思い、少し思考した果てに無難な言葉を口にする。
「…………匿名でお願いします」
「ほう? 名を隠すか! やはりあの狙撃手にある程度ここでの常識を教えられていたか! ハハハッ、残念である! 名すらあれば囚えられたものを!」
――――『とらえる』。
そう発音したヒト型に、知っている言葉と違う不穏な気配を感じ取ったおれは、残念そうに唇を尖らせるヒト型のそれに、本名を名乗らなくて良かったと思う。
知らず知らずのうちに危ない綱渡りをしている気分である。
まず知らずに迫っていた危機を回避したとほっとすれば、非常にお喋り好きな性格をしているらしいヒト型はのどかに、明るく笑い。
「つまりある程度吾輩のことを知らされていながら、吾輩と向かい合っているということか! 己が胸にて暴れる恐怖と対峙して! ハハハハハハハハッ! その有り様のなんと勇ましく、なんと愚かなことか!
――――ますます気に入った」
瞬間、ヒト型が浮かべたうっとりとした熱を孕んだ妖しい微笑みに、心臓を凍らされた。
麻痺しかけていた恐怖心が腰椎から脊椎にかけて冷たく這い上がる感覚。
細められたその視線に、絶句した。
――――なんという、目をしているのだろか。
生きているとは思えない蒼白な顔に浮かぶ、満月を思わす瞳。
穏やかに細められたそれはまるで、恋をしているかのような情熱と悦楽への酩酊に歪んでいて。
その、どろりとした、名前の分からない感情は――――真っ直ぐに。
おれへと、注がれていた。
一瞬たりとも逸らされることのないその双眸に、喉の奥に不快感と嫌悪感の混ざり合った内容物がこみ上がった。
気道が真綿で締められている感覚。
向けられている感情を分析することすら、脳が拒否反応を示していた。
知るのが恐ろしい――――なんて。
誰かを知ることに恐怖を感じるなんて。
そんな経験など、これまで生きてきた中で一度も無かったおれの思考は一時的に停止する。
初めて遭遇する生物から向けられる、敵意のない執着に似た『それ』に、どう対応すればいいのか分からなかった。
「おやおや、そういえば吾輩としたことが名乗り遅れていたか」
息苦しさを覚え顔色を悪くするおれに、朗らかに微笑みながらわざとらしく、頭を垂れるヒト型。
余裕と優越に歪められた唇からは嫌味のない、爽やかな挨拶が紡がれる。
「では――――改めて。
吾輩は『倒錯者』。
“吸血鬼”の『ハルムヴェイト』。
四百年程前から存在している――――貴様らの永遠の宿敵である侵攻生物の最上位、レベル6である。
好きなものは宴と血肉。嫌いなものは下卑た輩と水を差される事ぞ。
そして敬愛するは串刺し公…………といったところか」
灰色の空中にて恭しく名乗ったヒト型――――ハルムヴェイトという彼は、再び降り注ぐ烈火の雨を蝙蝠の幕で防ぎながら、贅肉のない足を踏み出す。
「さて。ところで先程の貴様の意見であるが――――確かに。
貴様の指すあれはかつて吾輩の夢見た者。串刺し公で相違いないであろう」
まるで足底に透明なガラスでもあるかのように、歩きながら語るハルムヴェイト。
ハーヴァンター、ドラキュラ、レベル6――――。
表情は邪気を感じないものであるのに、どこか不穏な気配が漂う彼が近付くにつれ、聞き覚えのある言葉と危機感とか脳内で主張してくるおれは、周りの空気が重々しくなっていくのを感じる。
まるで彼が一歩近付く度に、空気が侵食されているような。
ハルムヴェイトという存在に世界が食われているような――――不安と妙な胸騒ぎ。
「しかし今のあれはただの意志。夢の跡。力無き灯火――――ただの抜け殻よ」
『ぬ――――おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!』
艶のある口唇を開閉させる吸血鬼に、その時、侵攻生物を踏み台に高く跳躍したおじ様が、構えた十字架槍を突き出した。
気迫のこもった掛け声と共に突き出された、殺意の槍。
当たれば間違いなく対象物を極刑にする槍の先は、計算されているかのような、寸分の狂いも無くハルムヴェイトのこめかみに突き刺さる。
だが、槍は、蜃気楼のように――――するりと。
ハルムヴェイトの青白い頭を、通り抜けた。
その光景はさながら、幻覚のようで。
「故に――――この通り。ただの意志でしかない嘗ての串刺し公の抜け殻は、吾輩に触れる事すら適わぬ。残された力もまるで夢幻の如く、生ける者の体をすり抜けるのみ」
ハルムヴェイトに触れたはずの槍は、吸血鬼と名乗った男の頭部を通過し、刺突の勢いが余り前のめりになったおじ様自身も――――槍同様に、ハルムヴェイトの体をするりと通り抜けていく。
雲の中に腕を通すかのように、存在感のある武人の体は、中世貴族風のヒトをすり抜ける。
数分前、おじ様の投擲した槍が蝙蝠の腕を通過したことを思い出したおれは感じたデジャヴから、既視感の正体を突き止めた。
――――そうだ。
どこかで見たことがあるのその現象は、見覚えのある――――亡霊が生者に触れることによって生じる、死者と生者の違いとして明確化された事柄。
不蝕の境界。
まさにそれと同じ現象が、ハルムヴェイトというヒト型の化物にも起こっていたのだ。
生きているものであれど、しかし侵攻生物にだけは触れることが出来るはずであるのに。
侵攻生物最高レベルである、侵攻生物の最上位には、触れられないのか。
おじ様は亡霊で。
倒錯者は、侵攻生物であるはずなのに。
「だが、この場で誰よりも血の匂いのする少年よ。貴様はそこの抜け殻と同じモノを持つ者! そして形無き意志より力に溢れた個――――気高き血染めの王! 串刺し公である!
嗚呼、吾輩には分かる!
その身体を巡る生命の力強き事! 鼓動の奥に在る核と、真たる波動を!」
演技染みた口調で、高らかに謳うハルムヴェイトは『何故だ!』と悔しさに歯を噛み締めながらおれへ手を伸ばすウラディ公に、一瞥もくれることなく、おれの前に立つ。
重力に引き摺られ地上に落ちていくおじ様を視界の隅に捉えながら、向けられる金色と目が合う。
ゾワゾワと、心臓を這う悲鳴を呑んだおれは、熱に浮かされている双眸を見つめ返した。
交錯する視線。
獣と睨み合っている気分になり、目を反らせはその瞬間良くないことが起こると予感させられた。
妙に眼力のある、淡麗な金色の瞳を凝視していれば――――ふっ、と。
不意におれから目線を外した吸血鬼は、おれの顔より少し下を軽く眺める。
「――――ところで、串刺し公。貴様は生きたままの血肉を食したことはあるか?」
えっ――――と。
投げかけられた話題の意味が分からず、小首を傾げたおれは怪訝な眼差しをハルムヴェイトに向ける。
壮年の顔貌。
氷のような冷たさと美しさを備えたその顔はには、うっすらと恍惚の色が差していた。
――――食す。
驚くほど上品に舌舐りをした吸血鬼の瑞々しい唇の隙間に、鋭い牙を見たおれは、次の未来を想像する。
吸血鬼。
持ち出された話題は、血肉を食したことがあるか。
僅かに垣間見たのは、突き立てれば容易く皮膚を突き破れそうな歯牙。
吸血鬼、という存在の特徴。それは一体何だったか。
――――血を、吸うこと。
「吾輩は生き血が好物であるからに…………まあ、少しぐらい味見をしても良いだろう?」
――――食われる。
そう直感した直後、ぞわりと腕の産毛が全て逆立った。
ぞわぞわと肺を齧る悪寒に即座に身をよじり蝙蝠の腕から抜け出そうとするが、がっちりと両腕ごと胴体を掴んでいる手から抜け出せる様子はない。
――――食われる。そんな非現実的なことが現実となって襲いかかってきて、ざわめく胸中に焦りが芽生える。
――――どうする。
――――こんな……こういった場合には、おれはどうするどうする!?
真剣に考えようとした。だがその時間すら与えず、恐ろしく鋭い牙を覗かせたハルムヴェイトは身を屈め、赤々とした形の良い唇を開いて、奥の見えない口腔に血肉を取り込もうと、すぐ近くで冷たい息遣いを感じ――――――
『――――オイ』
――――食べられる、と。
捕食されると思った、その時。
吸血鬼の背中に、白い人影が現れるのを見た。
『なぁにウチの子に手ぇ出してんだクソッタレ野郎ォォォオオオオ――――――ッ!!』
颯爽と現れた白い影。
声音からして男らしいその人影は叫びながら、手にある刃物で吸血鬼に襲いかかった。
予想もしていなかった乱入者に驚いたのか、ハルムヴェイトは振り向きながら肩口に狼の顎を生やす。
だがハルムヴェイトが攻撃に移るより、影の方が数倍速かった。
そう。
速かったのだ。
ハルムヴェイトが肩に顎を形成した直後、既に小型のナイフで吸血鬼の首を切り裂きにかかっていた影は、ナイフがハルムヴェイトの体を通過するや否や舌打ちを零した。
それから身体を前傾姿勢にし、通過すると知った吸血鬼に飛び込んだ影は、おれと吸血鬼の間に現れる。
丁度おれを拘束する腕の上に右腕をつく直前、ナイフを持つ手を変えた白い人影は片腕での倒立直後に足場としている蝙蝠に刃を突き立て、再びナイフが白い蝙蝠を通過することを確認すると、またも舌打ちを一つ。
そして右腕の力のみで跳ね上がるように直立体勢に戻った全身ずぶ濡れの影は、まだ振り向いてすらいないハルムヴェイトの後頭部にナイフを突きつけた。
目で追うので精一杯だった影の行動。その一部始終を目撃しあおれは、まるでビデオの早送りを見せらたかのように錯覚を覚える。
一秒も経たぬ間におれを庇うように見参した全身白色の彼は、ハルムヴェイトを通り抜けたことからおじ様と同じ類の亡霊であることが証明されたが、危険を感じたらしい。
無重力下であるかのようにふわりと浮かびながら距離を取り、ようやく振り向いた吸血鬼に影は腹立たしげに牙を鳴らす。
『オイオイオイオイ…………化け物のクセして透けてんじゃねぇぞクソ変態野郎がよォ!』
「化け物。はて、吾輩はただの吸血鬼であるが。そも、透けているのは貴様の方ぞ抜け殻」
『オレからすりゃあテメェが透けてんだよ似非吸血鬼! いいからさっさとくたばれ! でもってウチの子に土下座して死ね!』
銃声と炎の熱が横断する灰空。
立てた親指を下に向け、吸血鬼に対し明らかな敵意をもって暴言を吐いている彼は手首の上で小型ナイフをくるりと回すと、逆手にそれを構えて膝を曲げ腰を落とす。
ネコ科の動物が獲物に飛びかかる前のようなしなやかさと、野生味を帯びた構え。
影の持つ雰囲気からもどことなく白ヒョウを髣髴される彼は唸る。
『それと抜け殻じゃねぇ兄貴だ! コイツの兄貴たるオレの目が黒いうちはテメェみてぇな変態野郎に、ウチの末っ子に手出しはさせねぇ…………!』
「…………あにき」
――――あれ。なんだか似たようなニュアンスの言葉を四日前に聞いた気がする。
「すえっこ…………」
『…………あ?』
兄貴だの末っ子だのと、馴染みのない言葉を向けられているようであるおれ。
なぜその言葉がおれに向けらたのか。
戸惑いを隠せずぼうっと、与えられた単語を反複していれば、怪訝に首を傾げた白い人影が顔だけこちらに振り向き。
カーテンのような隙間から、犬の轡を着けた顔と、悪い方にカテゴリされるだろう細い双眸が目に入った。
夜闇に包まれる直前のような深い藍眼と、目が合う。
「……………………」
『……………………』
目と目が合って、たっぷり数秒の沈黙。
どちらも何も言い出さないまま、構えを解き体も振り返っておれの前にしゃがみこんだ白い彼は、犬の轡の下から声を出す。
『…………あー…………よォ、末っ子。なんだ、その…………聞こえてるか?』
「え。あっ、はい」
『…………オレのことが見えるのか?』
「はい。ばっちり」
あ、このやりとりおじ様としたことあるなぁ――――と。
既視感を感じるおれは藍色の眼をした、吸血鬼の体を通り抜ける彼を見つめる。
目を丸くしている人影。
じいっ、と。しばらく驚いた顔をしている影――――外見から想定するに二十代前半だろうと思われる彼を凝視していれば、相当長い青色混じりの銀髪の中に潜んだ色白の顔貌に、朱が差して。
『…………マジかよ』
呟いた青年は天上を仰ぎ、信じられないと言うようにもう一度。
『マジかよ』
吸血鬼の方へ振り返った青年は立ち上がり、こみ上げてくる感情を噛み締めるように、再度呟く。
『…………マジかよ、コレ。ヤベェわ本気で…………』
それから『あー……』やら『おー……』など妙な呻き声を上げる青年はガシガシと頭を掻くと、耳を赤くしたまま吸血鬼に向き直って。
『ッし! 意地でもブッ殺す!』
どうも物騒な決意表明をして戦闘態勢をとった。
一連の反応から、正体不明の影はどうやらおれの味方であることはなんとなく感じ取ったが、おれとしては甚だ疑問が残る。
この青年は一体誰で、何者なんだ。
おじ様と同じ不触の現象を起こすあたり、生きている人ではなさそうだが。
あとなぜ彼は海の様な潮の匂いがするのか。全身びっしょり濡れているし。




