プロローグ ー穏やかな青天ー
空は青く、海は青い。
曰くオゾン層が青い為、見上げる空は青いのだという。
故に宇宙から見た地球の空も、青いのだと。
そんな、生きていて身近にある色。
『青』というこのありふれた色はどうにも他の色とは違い、幼い頃からおれは特別な物のように感じていた。
特に顔を上げた先にいつもある、『空』色に。
すぐ頭上を見遣れば広がっているその色は透き通り、一点の曇りも汚れもない。
果てなく、どこまでも先へ続いているような。手を伸ばせども届かぬ存在。
青い空というものに、おれはずっと不思議な、特別と言える感情を抱いていた。
「……で、どうだったの? 進学面接は?」
「……特に、何も」
「そりゃあそうでしょ? 私が言った通り答えれば何もないわよ」
「……おれの前に面接したミツは今、生徒指導室にいるんだが」
「あのクズ一体何言ったのよ!?」
中学生最後の冬休み前。
エスカレーター式の学校であるため受験はないが、意識調査という名目で行われた高校進学前の個人面接において「趣味は音楽鑑賞です」と。知り合いに言われた通り無難に答えたおれには一つ、奇妙な趣味があった。
それは、空を見上げること。
正しく趣味と形容していいのか、おれには定かではないが。
バスの中でも電車の中でも、授業中でも休み時間時間でも。
暇さえあれば、気が付けば、澄んだ空を見上げてぼうっと時間を潰す。
無心で流れる雲を眺め、どこまでも広がる清純な青空を仰ぐ。
知り合い曰く、変わった趣味。
隣人曰く、そういう習性――――とのことだ。
知り合いが言うには『不自然な行動なのに自然にやっているから余計に奇妙』なのだという。どのあたりが奇妙なのがおれには分からないが。
「また空なんか見てよぉ……そんなに面白いか? 景色変わんねぇだろ」
「……面白い、と言うより……飽きない」
「ふーん。やっぱ変わってんなぁ、お前」
「……そうか?」
おれとしては空を見上げることは何の変哲もないと思っていたし、そもそも日の出を拝みに行く登山家も気象予報士もみな空ぐらいじっと見るだろう、と考えていたが、どうやら隣人に言わせると空を鑑賞する事を趣味と言うおれは『変わっている』らしい。
変わっているとはどういうことか――――ふと気になり何気なしに問いかけてみれば「物好きの変人」と彼は返してきた。
大変心外である。
変人とはどういうことか。
キミだけには言われたくないと思いながら、逆に隣人に「そもそもあんな何にもねぇ空の何が良いんだ」と問われたおれは、少し返答に困った。
何が良いと言われても、彼が納得出来るような答えは返せないと思ったからだ。
おれが空を見ること。観察する事に大した理由などない。
気付けば見上げている、というだけだ。
無意識のうちにふと。嗚呼やっぱり綺麗だと思いながら。
落ち着いた色に。変わり映えしない風景に何となく心が落ち着き、安心するから。
――――ずっと見ていたいから。
だから眺める。それだけなのだ。
……投げかけられた質問に、思っていることをそのまま言葉にしたおれに隣人は「空に恋でもしてるみてぇだな」と冗談交じりに笑った。その時、偶々通りかかった知り合いが彼の「恋でもしてる」という言葉のみを聞き取ったら
しく、直後おれは鬼気迫った様相の彼女から尋問に遭ったのだが。
「恋人なんていつ作ったのよ!!??!」と掴みかかってくる知り合い。事情を知っているくせに面白半分で「浮気者ぉ」知り合いの方に加担した隣人を、おれはしばらく許さなかった。
話しかけられようと昼食を横取りされようと動じず、にこりと無言の笑顔で応対していたら、一日で音を上げた隣人は放課後おれにお菓子を奢ってきた。
……そんなものでおれの機嫌が直るとでも思っているのだろうか。
お菓子なんかで流される幼稚な人間だと思っているのなら、今一度隣人の中でおれがどのような人物なのか話し合う必要があるのだが。
「悪かったから……な? シュークリーム五個でいいか?」
許した。
シュークリームなら仕方がない。特別だからな。
そんな他愛のないやり取りがあって、数ヶ月。
おれは趣味もしくは習性として周囲に認識されている『青空観察』を続けていた。
今更ながら隣人が言っていた『習性』という表現は言い得て妙だったと思いながら、頭上を仰ぐ。
今日も空は変わらず、青い。
代わり映えのしない天気。代わり映えのしない日々。
これまで漫然と過ぎていった日々は確かに、おれにとって平穏の証だった。
そしてこれからも、何気ない穏やかな日々が続いていく。
――不幸な事ほど、なんの前触れもなく訪れるということを、おれはよく知っていたはずなのに。
平穏に慣れた頭で、そんな風に思っていた。