閑話 少女-黒い聖職者-
身の毛の弥立つむわりとした臭気と、荒い息遣い。
赤い歯肉に挟まれるようにした並んだ鋭い牙と、牙の間からぼたぼたと流れる粘っこい涎。
すぐそこまで伸びてきた圧倒的な死の気配に、一瞬の油断が命取りとなった少女は声もなく、嘆く。
――――ああ。
――――私、死んじゃうんだ。
と。
どこからか飛んできた仲間達の声に焦りを含んだ声を他人事のように聞き流しながら、少女は走馬灯を見る。
少女の運命が変わったのは、中学三年生の時。
クラスメイトから学校で有名な、合わせ鏡の怪談話を実行したことによってだった。
母と父のいる、不自由もなければ充足もしていない中流家庭。
成績は苦手な教科こそ点数は低いが、一度も補修を受けたことは無い、中の上あたりの学力だった。
クラスの中では大人しめのグループの中にいて、自分から積極的に意見を主張することはないが、いたらなんとなく場の空気が和む。
いわばマスコットキャラクターの位置にいた彼女は、グループの中で“たまにちょっかいをかけられ愛される”役割を担っていた。
いくつになっても、女子の団体というものには必ず『暗黙の掟』と『役割』が存在するものだ。
それは少女が身を寄せるグループでも、同じことで、小学校の頃から女の子なら本能的に知っている常識だった。
ある日、おしゃべりな性格の友人が他のグループが騒いでいた話題を少女の所属するグループに持ち帰ってきた。
その内容は、学校の七不思議。
小学校の頃に流行った懐かしい響きの話題であるが――――おしゃべりが持って来たのはただの怪談話ではなかった。
「ねえ、これは内緒の話なんだけど――――」
『内緒』などという、噂好きな性分を持つ女子達にとって魔法にも似た魅力的な前置きの後に語られたそれは、何処にでもあるような怪談話で。
絶対と言わしめる証拠のある、ゴシップネタであった。
――――知ってる?
――――この学校の四階にある一番古い女子トイレ。
――――そこで合わせ鏡をすると…………別の世界に引きずり込まれちゃうんだって。
――――この前右腕だけ発見された、先輩みたいに。
「先輩はあのトイレで合わせ鏡をして別の世界に引きずり込まれたせいで、右腕だけトイレで発見されたんだって」
内緒話と言うには普段の雑談と変わりない様子で旬の話題を発表したおしゃべりは続けて、半信半疑で口々に感想を言っていたグループメンバーに冗談半分で問いかける。
「どうする? 誰か確かめてみる?」
半分は、本気で。
おしゃべりの提案に「えー不気味だからヤダー」「面白そうだけどなんかコワーイ」と首を横に振る友人達。
怪談話の検証に対し反対派が増えていく中で、鏡の中から出てきた手に自分が引き込まれる様子を想像し身震いした彼女は、グループ間の調和を保つため勇気を振り絞って言う。
「じゃあ、わたしが確かめに見てくるね」
おしゃべりがグループの中で浮いた存在にならぬ様に、話しを合わせる。
たったそれだけでグループ内の均衡は保たれるのだ。
――――気まずい関係になりたくないから。
何より自分の『マスコットキャラクター』という安定した立ち位置を揺るがされたくなかった少女は、本当は怖いという気持ちを抑えつけて声を上げた。
その選択こそ、自分の人生全てを変えるとは知らずに。
女子の仲良しグループというものは軍隊と同じだ。
たとえ意見は食い違えど、その足並みだけは揃えなければならない。
少しでもその足が揃わなければ、簡単に崩壊するような脆弱な集団なのだから。
そんな集団だからこそ、少女の存在は必要不可欠だった。
誰からもいじられ愛される、マスコットキャラクターという役割は。
だから少女は場の空気に一体感を生むために自ら名乗りを上げて、旧校舎の四階のトイレを訪れた。
今や移動教室と部室のある校舎としか使われていない、築六十年の旧校舎。
窓ガラスの立て付けは悪く、掃除が行き届いていないため所々に蜘蛛が巣を張っている。
クリーム色であった引き戸も日焼けで黄ばみ不清潔感を醸し出している、ふと窓の外に目をやればカラスが屯っているその廃れた雰囲気から近寄りがたい印象を受ける校舎は、当然と言うべきか。
昼休みであれども人の気配すらしない廊下をギシッ、ギシッ、と軋ませながら旧校舎四階のトイレまでたどり着いた少女は、煤けた鏡の付けられた洗面台の前に立った。
――――大丈夫、大丈夫…………。
怖くない、と口の中で唱えながら出来るだけ周りの様子を意識しないように、今朝の可愛い動物のニュースについて思い出す少女は、凍った指先でポケットから手鏡を取り出す。
化粧好きな友人から借りてきたコンパクトサイズの手鏡の蓋を開け、煤けた鏡に背を向ける。
ぽちゃん、と老朽化から締まらなくなった蛇口より零れる水の滴に、ここには自分一人しかないという孤独感を覚えながら、少女は手鏡を覗き込む。
――――大丈夫。
――――渡り廊下のところで、みんな待ってるから。
がたがたがた、と風が吹き付け窓ガラスが揺れる。
人の声すら遠すぎるしんっ、とした空間に一層恐怖を掻き立てられながら、速まる鼓動を抑え少女は手鏡の中に映る自分を見詰める。
――――…………何も、映ってないよね?
角度を調整し、鏡の中で合わせ鏡になるように自分の半身と鏡を映してみるが、特に変わった様子は見られない。
何も異変が無いこと――――その事にほっとしながら報告のために帰ろうと、手鏡を閉じようとした少女は。
「――――え?」
息が、詰まった。
唐突に、胸を押さえ付けられているような圧迫感が少女を襲い、息苦しくなった彼女はその場で膝を付いた。
首を締められている感覚に似た、息苦しさ。
混乱も伴い上手く息ができない少女はひゅーっ、ひゅーっ、と酸素を取り込もうと口を開けるが、急速に体は脱力し思考も止まり、やがてふっとスイッチが切れるように気を失った彼女は。
そして、次に目覚めるとそこは化け物と人間が戦う戦場の、最前線だった。
あまりに現実離れした光景に思考もままならない少女は直ぐに、化け物と戦う組織に保護された。
放心状態ながらも説明を受け、念のためと身体検査を受けた少女はそこで、化け物と戦う『力』があると言われ、組織に勧誘される。
一度は化け物と死への恐怖から断った少女だったが、組織の世話になり数日でいつもの女子グループの元へ帰った後、どこまでも真剣な組織の人々とのやりとりと裏も瞞しもある女子グループの違いに耐えられなかった彼女は、自分から組織に入ると決断する。
そうして二年の時を経て、新たな居場所と自分の役割を得て、力を磨き、ようやく一人前と認められるようになった少女は、密かに憧れていた人物から賞賛の言葉を貰った。
最近頑張ってるわね、偉いわ――――と。
憧れの人から褒められて、少女は嬉しかった。
きっとそれが、油断に繋がったのだろう。
――三日前に現れた、謎のI周波の正体。
司令塔の分析結果によると四百年前の人物のものであるとされたその周波の調査をする事になった少女の部隊は、主戦力数名の遅刻により若干遅れながらも周波が観測された地域に到着した。
班ごとに分かれ探索を始めた部隊は二時間に及ぶ捜査の中で、廃れた街の一部が意図的に破壊されているなどから、『何か』がいるという確信を抱き始める。
――――まさか本当にあの串刺し公が甦ったのか?
部隊の中でそんな話が上がり始めた、その時に少女は目撃したのだ。
少し離れたビルの影に、何かが動いているのを。
「ちょっと見てきますね」
少女はそう言って、一人崩壊したビルの下へ走る。
それが、いけなかったのだ。
それが、運命の分かれ道だったのだ。
真横から、何かが突進してきた。
かはっ、と血反吐のような息を吐いて地面に転がる少女は、打撲で軋む肋骨を手で押さえながら体を起こす。
そこには猪の形をした化け物がいた。
体長は一メートル程の、牙の部分に人間の腕が生えた、灰色の表皮に黄土色の筋が浮き出た化け物。
群れで行動する化け物だと、過去の経験から知っていた少女はすかさず距離を取り、戦闘の構えをとろうとするが――――足に体重をかけた瞬間、かくりと足首が脱力した。
続いてずくん、と筋肉の奥に響く痛み。
見れば右の足首が真っ赤に腫れて膨らんでいる。
――――先程の化け物の攻撃で、足を捻ったのだ。
「ぁ――――――」
立てない。逃げられない。距離を取れない。
少し浮かれていた、その油断から生じた絶体絶命の危機に、焦りを抱く少女は化け物を見詰めることしか出来ない。
目の前には、人を殺す化け物。これまでに化け物によって死んだ組織のメンバーを、少女は知っている。
じりじりと後ずさるが、最初に少女に突進した化け物はゆっくりと距離を詰めて来ていた。
近くで少女を呼ぶ仲間達は既に、少女の目の前にいる化け物の群れに囲まれており、その対応に追われている。
主戦力となるある班は運が悪く、現在別行動をしているため誰かが通信を使って呼び戻してはいるが――――間に合わないだろう。
誰も、少女を救うことは出来ないだろう。
絶望の淵で死の気配を感じ取る少女は走馬灯の最後に、先日声をかけてくれた憧れの人を思い浮かべる。
――――嬉しかったな。
頑張ってる、といってもらえて。
憧れていた人に、声をかけてもらって。
組織に入ったことに後悔はない。
組織に入ったことで少女の世界は広がり、目標を見つけ、何より心の底から信頼できる友達を見つけたのだから。
あのまま女子グループにいたままでは得られなかった、たくさんのものを手にすることが出来たのだから。
だから、油断してしまった自分が悔しくて。
怖くて動けない今の自分が、情けなくて。
何より――――死にたくなくて。
――――まだ、わたしはみんなといたいのに…………!
――――わたしは、まだ死にたくないのに…………!
一瞬の油断が命取り――――一年間憧れの人と一緒に所属していた班で、そう教わったのに。
ごめんなさい、と言葉にならない声で唱えた少女は、自分の名を叫ぶ組織で出来た親友に謝りながら。
娘がこんな過酷な戦いをしているとは知らず、いつも温かく家に迎え入れてくれる父と母の事を思いながら。
迫る死の牙に、少女は――――――
――――――十字架を、見た。
ぶしゃぁ、と音を立て地に転がる猪の化け物。
今少女の命を狩ろうとしていた化け物は自身の命を狩られ、物言わぬ躯へと姿を変えた。
その頭を、黒い十字架を刺し貫かれて。
「怪我はないですか」
凛然とした声に問われ、少女は化け物の亡骸から顔を上げた。
猪の頭を貫いた十字架。
その十字架の傍にいつの間にか、一人の人間が立っていた。
その人物を見て、少女は驚く。
さらりとした黒髪に、すらっとした手足。
膝までしかないが教会などで司祭が着ているカソックに身を包み、首には十字架を提げた――――聖職者が、そこにいたからだ。
化け物の蔓延る、荒んだ世界に。
鼻先まで伸びた黒髪で素顔を伺えない聖職者は膝を折ると、少女の腫れた右足を見て声を低くする。
「酷い事をするな。女の子に対して」
「……あ、あの…………」
口調こそ堅いが優しい声音に、どうやらこの人は怖い人ではないと判断をした少女はおそるおそる、突然現れた聖職者に話しかける。
そこで少女は目の前の聖職者が、自分とそう変わらぬ歳の人物である事に気付いた。
体躯が、華奢なのだ。
「すみませんが、持ち合わせはこれしかないので…………後で誰かに診てもらってください」
ポケットから白いハンカチを取り出した黒髪の聖職者は躊躇いもなくハンカチを引き千切ると、一本の帯にしたそれで少女の足を固定する。
手馴れた様子で簡単な応急処置をやってのけた聖職者は「よし」と呟き立ち上がると、猪に刺さっていた十字架を抜く。
その時自分の窮地を救った同年代位のその人物の前髪が僅かに捲れ、素顔を見ることが出来た少女は。
「貴女はそこで安静にしていて下さい」
黒い十字架を携えた聖職者の微笑みに浮かんだ、慈愛と優しさに――――見とれた。
少女は思う。
まるで彼は――――おとぎ話に出てくる、王子様のようだと。
「おれが貴女の代わりに、あの化け物を倒して来ますから」
「っ…………はい!」
涙声で頷いた少女に笑顔をくれた聖職者は踵を返す。
その立ち振る舞いに清楚さ、優雅さを感じた少女は、一生忘れない。
自分を救ってくれた、その背中を。
胸の中で何かが芽生えた、この時を。




